万物は去りゆけどまた青物屋
たまに美術館で見るだけで、美術品をお買い求めになったことのない方にはちょっと意外かもしれないが、美術品は高価な名作であればいいというものではない。もちろん財産としてなら高価な名作の方がいいのである。実際、たいていの美術品はそのように動いている。美術市場の頂点は投機市場である。言葉は悪いが、欧米の美術オークション市場は金持ちのための〝やっちゃ場〟である。好き嫌いではなく、何を持っているかが問題なのだ。たとえば一流企業の社長さんと商談があるとする。通された応接室の壁に掛けられているのはルノアールの大作だ。
「ルノアールじゃないですか。ホンモノなんですか?」
「うん、まあね。サザビーズで、ちょうどいい具合に出物があったのでね」
これで社長さんと企業への信頼感はグッと増す。世界中の多くの富豪たち、社長さんたちがこのような形で美術品を利用している。美術品の末端価格は頂点によって決まるので、美術業界で飯を食っている僕は彼らに感謝しなければならないのだが、新聞ネタになるようなオークション価格を生み出すとはいえ、それは顔が見えるほど限定された富豪たちの特殊な世界である。また彼らが好むのは名前の通った作家の作品である。ゴッホ、ゴーギャン、モネ、ピカソ、マチス、日本では北斎や歌麿、写楽などが好まれる。高価な名作だからこそ買う価値があるのである。
一方でごにょごにょと画廊や古美術商の店を駆け回っている人たちがいる。あまりお金はないが、中には本当に目の利く人が混じっている。よほど好きでない限り、彼らは高止まりした美術品には目もくれない。美術品はある日いきなり高値が付くわけではない。じょじょに上がっていくものだ。目利きは海辺の砂粒の中から宝石を見つけ出してくる。彼らにとっては、真贋など勉強すれば身につく初歩的技術に過ぎない。また彼らは個人が持っているべき美術品と、美術館が所蔵すべき作品をわきまえている。
もし彼らがゴッホの『耳を切った自画像』やムンクの『叫び』などを安く手に入れたら、ためらうことなく売り払って好きな作品を買うための資金にするだろう。それらの価格は持ち主に箔を付けるだろうが、決して毎日眺め暮らすのにふさわしい作品ではないからだ。美術品は美術館も含めて持ち主と居所を選ぶ。個人が持っているべき作品というものは確かにある。たいていは心安らかに眺めることができて、いくら見続けても飽きないような含蓄ある作品である。安井浩司さんの『万物は去りゆけどまた青物屋』なども、そのような作品の一つだろう。
『安井浩司「俳句と書」展』公式図録兼書籍で田沼泰彦さんが書いておられるように、『青物屋』は『八百屋』のことである。句の意味は安井さんにしては比較的素直で、「世の中が変わり、人が死に生まれても、八百屋にはいつも新鮮な野菜が積まれている」ということである。ただ『八百屋』ではなく『青物屋』なのがとてもいい。言葉は不思議なもので、『八百屋』と言えば雑多な品物が並ぶ店先が思い浮かび、『青物屋』なら野菜類の新鮮で爽快な青がイメージされる。『八百屋』は店主が「いらっしゃいっ」とダミ声で叫び、主婦たちが品物を物色する生活の『動』を感じさせるが、『青物屋』は野菜の青ばかりが目立つ人気のない『静』の店先を思い起こさせると言ってもいい。それが『万物は去りゆけど』という言葉を際立たせているのである。
またこれはちょっとうがった読み方かもしれないが、『万物は去りゆけど』は、古代ギリシャの哲学者・ヘラクレイトスの『万物流転(パンタレイ)』思想を踏まえているのではなかろうか。ヘラクレイトスはギリシャ哲学の大成者・プラトンより約百年ほど前の人で、自然界も人間界も移り変わるがロゴスは不変であると説いた。プラトンの思想は不変(普遍)のロゴスを探究する原理的なものだが(後にそれがキリスト教世界に流入して不変の神を探究する神学となる)、ヘラクレイトスから大きな影響を受けている。安井さんがヘラクレイトスを意識していたとすれば、『万物は去りゆけど』は西の思想を極東の『青物屋』で受けた作品ということになる。一つの読み方に過ぎないが、安井さんならやりそうだ。また『万物は去りゆけど』が含蓄深いというのは、そういう読み方も含んでのことである。
いずれにせよ『万物は去りゆけど』の句は、不変のものと変わりゆくものを表現している。芭蕉にならっていえば不易と流行である。原理的であり、世界の真実でもある思想を、『青物屋』という俗を使ってさらりと表現できるのが俳句のだいご味というものだろう。この句は完全な破調で季語もないが、そんなことを気にする人などいるのだろうか。僕はこれぞ「俳句」という気がする。
コーヒ店永遠にあり秋の雨 永田耕衣
今ふっと思いついたが、安井さんの師の永田耕衣さんの句に、『コーヒ店永遠にあり秋の雨』がある。『コーヒ店』(喫茶店)が永遠に存在するわけがないから、この句は素直な表現の裏に、複雑で含蓄深い反語の響きを持っている。秋の長雨が「永遠」を思わせたということか。しかし不易と流行思想の表現方法に限定すれば、師・永田耕衣さんの『コーヒ店』よりも、弟子・安井さんの『万物は去りゆけど』の方が優れていると思う。
山本俊則
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■