恋愛小説の特集。なんか最近、多い気がする。ってか、恋愛小説って王道っちゃ王道だけど。
で、読んだらどれも懐かしい感じ。一昔前の小説って、こんなだったよな、と思い出した。それでも許されるのか。年々歳々、恋愛はおんなじだから、か。。。と、そこまで考えて、いや違う、と思った。王道と言われる恋愛小説には、たしかに小説としての最高傑作があったはずだ。おんなじどころか徹底して一期一会、観念的で、死をも乗り越えるような。
そういうのは、かつてのヨーロッパ文学にあったと思う。神の概念がもつテンションの高さを恋愛に置き換えたみたいなもので、男と女というのは、神ならぬ身を限定するための口実だった。主人公の男か女は、相手を通して不可知なもの、空なるものを見つめている。
そういった文学史上に残る最高傑作とかと、小説すばるの恋愛特集の作品と比べるのはどうよと、ツッこまれそうだが。しかし、同じ恋愛小説なのだ。志が作品を作る、ということに変わりはないはずでは。
つまりは、これが恋愛特集、と呼ばれることに違和感があるのだと思う。ここに描かれているのは「好いたはれた」であって、いわゆる「恋愛」ではない。どう違うかというと、「好いたはれた」は「一緒になれるかどうか」というところが究極目標で、いわば所帯を持つまでの小競り合いだ。恋愛小説に本来ある、神的なものに触れようとする観念性とはまるで無縁なものだ。
で、この「好いたはれた特集」では、各読者の用途に応じて、一人称が男の場合と女の場合、学園もののパターンなどと場合分けされている。特に若い子たちのケースに手厚いのは、やはりニーズの高さからだろう。好いたはれたに身をやつすのは、やっぱりヒマな若い子たちと昔から相場が決まっている。
読者、特に若い子たちに向けて、これら「好いたはれた特集」は要は、好いたはれたに関するデータを提示しているに過ぎない。自分のケースの当てはめを行える例題、とすれば、教育ツールだとも言える。それが悪いというのではない。そこに需要があるなら、応えるのがビジネスだ。ただ、それを通してむしろ逆説的に、恋愛とは、文学とは何なのか、と考える縁にもなる。
特集に名を連ねている作家さんたちは、砂田麻美・加藤千恵・畑野智美・相沢沙呼。それに関口尚・長沢樹・杉井光。四文字・三文字と名前の字数がそろっているせいか、あまり顔つきがはっきりしない。それが悪いというのではない。読者の需要が一様なら、一様に応えさせるのが編集部の仕事なのだろう。
小説すばるの読者であろうとなかろうと、たいていの人は「恋愛」なんかしていない。しているのは「好いたはれた」であり、つまりは食わせてもらえるかどうかの腹具合も含めた下半身の心配に過ぎない。自分たちが思っているほど、首から上を使ってるわけではないのだ。
だとしたら「作家の顔」など、邪魔なだけだ。ニーズに応えるための彼らは、放送作家などと同様、顔のない「作家さん」であって「作家」であってはならない。
長岡しおり
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