小原眞紀子さんの連作詩篇『Currency』『洗』(第17回)をアップしましたぁ。金魚屋から『文学とセクシュアリティ-現代に読む『源氏物語』』を好評発売中の小原さんの連作詩篇です。
心せよ
新たなものより
汚れたものは
本質を露わにする
暴れないように
本質をつまみ
洗剤まみれにする
距離をとりながら
オレンジの香りがする
(小原眞紀子さんの連作詩篇『Currency』『洗』)
文学者が一番苦手とするものは、経済とコンピュータサイエンス、といふよりも、もっと単純なパソコン操作かもしれません。小原さんくらいの世代では、パソコンを使いこなしている人と、実は不得手なんだなぁという人にほぼ二分されます。もちろん文学者の場合、ワープロで書いても原稿用紙で書いても問われるのは作品の質。どんな筆記用具を使うのかは基本的には関係ありません。
ただ一昔前、1980年代くらいまでは作家の卵の多くが手書きでした。同人誌なども盛んに刊行されていましたが、作家の卵たちはしばしば『手書き文字が活字になると、自分の作品が客観視できる』と言っていました。ではワープロ全盛の時代はどうなんでしょうか。
パソで書くかスマホ、タブレットで書くかは別として、00年代以降の作家のほぼ全てがワープロで書いています。つーことは、一昔前の基準で言うと、最初から〝自分の作品を客観視できているはず〟ということになります。でもまったくそんなことはない。
一昔前の手書き文字が活字になると自己作品を客観視できるということの本当の意味は、不特定多数の視線にさらされるこの大切さを指していたのだと思います。昔は同人誌を出すのは大変でしたから、今より多くの読者や作家に読まれていたのです。
今はツイッターやブログで作品を発表できますが、不特定多数に読まれているわけではない。友達しか読まないと思っているから炎上が起こったりします。でも自己のテリトリーを離れて客観的プラットホームに何かを発表しなければならなくなると、バカをやる人は激減します。皆に見られながら舞台に立つ感覚になるからです。つまり手書きの時代でもワープロの時代でも、自己作品を客観視するために最も重要なのは衆人環視の客観的なプラットホームです。
で、小原さんの「心せよ/新たなものより/汚れたものは/本質を露わにする」に引っかけて言うと、手書き文字→活字の本質は、ワープロの普及によって新たな本質を露わにしました。重要なのは裸で皆に見られながら舞台に立つこと。じゃそれによってどんな「汚れたもの」が見えてくるのか。
裸で舞台に立つということは、多かれ少なかれ自己をさらすことです。パソというよりネット情報を巧みに組み合わせて武装することも、原稿用紙に万年筆で文豪を気取ることも、ともに本質を逸脱しているかもしれません。本質は基本的に単純なものです。洗ってまっさらにした方がいいですね(笑)。
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『洗』(第17回)縦書版 ■
■ 小原眞紀子 連作詩篇『Currency』『洗』(第17回)横書版 ■
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