「報告句」ねぇ。わかったようなわからないような句の定義だ。特集総論で鳥居真理子さんが「報告句はなぜ嫌われるのか。改めて問われるとしばし頭を抱えてしまう。「これって、報告俳句でしょう」。句会においてもこの手の指摘が頻繁に飛び交う肩身の狭い報告俳句である」と書いておられるが、句会に参加していて「これって報告俳句でしょ」という指摘が頻繁に発せられた場面に出会ったことがない。結社ごとに句会の姿も様々だからそういった結社もあるのだろうが、そんなに一般的ではないと思う。まず報告句の定義が必要だ。
報告とはある任務を与えられた者が、その経過や結果などを述べること、告げ知らせること。と辞書にはある。俗にいう「ほうれんそう」を出すまでもなくビジネス社会における「報告」は基本中の基本。円滑な業務遂行には欠かせない。結果を正確かつ明瞭に伝え誤解なく納得させるための重要事項である。
だが俳句という短い詩形において、そうした意味での報告は作品にとって何の成果ももたらさない。それどころか悪しき作品のレッテルを貼られるのがオチだ。十七音で完結する俳句をあくまで詩の一行として捉えるならば、報告俳句という言葉はもはや存在しえない。言葉の宙づり感、異質な物の衝撃、まやかしの楽しみ、イメージの増幅といったポエジーの特性に照らせばそれも当然のことといえる。事実をありのまま丁寧に伝える報告俳句に功はない。同義語の重複を招き、陳腐と常套の罠にはまり、結果「ああ、そうですか」。読み手のそのひと言で作品の幕は降ろされてしまうだけだ。読み手にとって、その内容がいかに重要なテーマであったとしても、それは読者が作品を読むという行為とはいっさい関係のないことだ。
(鳥居真理子「報告が詩になるとき」)
鳥井さんの定義によれば、報告句はいつ、どこで、誰が(あるは何が)が事務的なまでに表現された俳句ということになりそうだ。極端なことを言えば「朝起きて顔を洗って朝ご飯」といった句のことか。しかしさすがに初心者でもそんなことを俳句にする人はいない。となると別の定義が必要になる。
まず「俳句をあくまで詩の一行として捉える」ことが追加定義になる。では俳句が詩であるとはどういうことかと言うと、「言葉の宙づり感、異質な物の衝撃、まやかしの楽しみ、イメージの増幅」といったポエジーがあることになる。ただしこれは俳句が詩であるための要件であり、「報告句を俳句にする」というテーマからズレ始めている。
鳥居さんはまた、例句をあげて「報告句を俳句にする」方法も説明しておられる。例句は、
鞭打ちの湯豆腐掬う難儀かな
である。だがこれは報告句なのだろうか。それに例句としてもどうかと思う。まず「鞭打ちの」が何かすぐに理解できなかった。「ああ自動車事故なんかでのムチウチね」とわかるまでちょっと時間がかかったわけだが、漢字表記すると刑罰の鞭打ちを想起してしまう。それはまあ置いておいて、これが報告句だとすると「ムチウチで首が動かせない人が湯豆腐を掬うのに苦労しています」という意味になる。ではこの報告句(一応そうしておく)はどうすれば俳句になるのか。鳥井さんの添削例は、
繃帯の首ぐいと湯豆腐すくひけり
である。なるほど首が曲がらないので不自由だということはわかる。しかしムチウチでは普通、太い輪になったコルセットかサポーターで首を固定する。「繃帯の首」だと首に怪我をしたみたいだ。それに両句の違いはムチウチの人が首の痛みを抱えながらのったり湯豆腐を掬っている姿と、無理して勢いをつけて掬っているというくらいしかない。大同小異なのではあるまいか。「むちうちに鞭打つ湯豆腐食らいかな」とか「むちうちや拾うた命の冷や奴」の方がまだしも納得できる。
俳句は基本的に一人称の文芸だと言われますが、一人称とはどんな意味でしょうか。『広辞苑』で引くと、〈自分または自分を含む仲間を指示する人称。「われ」「私」「われわれ」の類。自称〉と記されています。
落椿われならば急流へ落つ 鷹羽狩行
掲句では「われ」が一人称です。では、この「われ」の部分を二人称に変えてみたらどうでしょう。(中略)
落椿なれならば急流へ落つ
「なれ」は漢字で書くと「汝」。おまえ、汝の意味で二人称です。「なれ」とすると、まるで他人事のくになってしまいますね。では、三人称ではどうでしょう。
落椿かれならば急流へ落つ
「かれ」は漢字で書くと「彼」。三人称です。(中略)この句は三人称の「かれ」にしても他人事の句です。やはり原句の「われならば」と自身を強調することで、凜とした意思表示が表出されるのです。
(堀本裕樹「句の表情を変える推敲を」)
俳人は辞書が好きだなぁ。それはともかく角川俳句の特集では通例だが、まず「「報告句」を抜け出す」の総論があり、それから「「報告句」見直しのポイント」が初級、中級、上級に分かれて掲載されている。ただ堀本さんの「句の表情を変える推敲を」はまったく「報告句を抜け出す」ことに関係ない。短歌と比べれば明らかだが、俳句は確かに詩としては最短表現で、短歌のように「わたし」「われ」という人称を前面に出すことが少ない。つまり「わたし」という人称が作品に現れなくても「俳句は基本的に一人称の文芸」である。
ということは鷹羽狩行さんの「落椿われならば急流へ落つ」の方が例外的な句ということになる。いわゆる述志の句であり、多くの俳人は述志の句をたくさん詠むのを勧めない。これはといった感情の高まりがあった時だけ詠めばいいというのが俳句の世界での不文律である。人称表現がなくても俳句が一人称の文芸なのだから当たり前と言えば当たり前である。
実際堀本さんは、「「俳句は基本的に一人称の文芸」なので、一句のなかで「われ」と言わなくても作者の視点で詠まれたことは読み手に伝わります。ですので、「われ」は省略できる場合が多いのです」と前置きした上で、虚子の「流れゆく大根の葉の早さかな」をあげておられる。虚子の句を川か用水路を流れてゆく大根の葉を報告した句だと言う勇気は端っから俳人にはあるまい。絶対不動の写生の代表句だとすれば、報告句を口にするだけ無駄である。なんで冒頭に鷹羽さんの述志の句を引用したんだろう。いったいなんのための原稿だったっけ、と考えてしまいますね。
別に特集の内容に難癖をつけているわけではない。ただ俳人は定義からして甘い。「報告句」というなら、もっとその定義をしっかり定めなければ次が続かない。編集部から特集のお題を与えられはするのだが、ほとんどの作家がそんなお題は無視か換骨奪胎して、自分の得意な俳論を強引に書いている。理論以前に論理からして曖昧で、結局は名句秀句を例にあげて「こういった句を目指しなさい」で〆る。ならば名句アンソロジーを作るか素晴らしい新作を並べるのが手っ取り早い。
志ん生に苗売のこゑ五月来ぬ
甘酒のための小銭を一人づつ
衣更へて路地の奥まで空ありぬ
女らに定家葛は香をこぼす
夏風邪の抜けて遠目のきくやうな
十薬にこころふく日の静かなり
口隠すをんな不吉やへびいちご
未来世へ斑猫は翅使ひけり
(飯田晴「斑猫」)
飯田晴さんの「斑猫」十二句は秀作だった。「夏風邪の抜けて遠目のきくやうな」だって報告句と言えば報告句である。でもそんなことを問題にする人はいないはずだ。作家は「口隠すをんな不吉やへびいちご」と鋭敏に地上の禍事を感受し、句は「未来世へ斑猫は翅使ひけり」と幻視の天上へと舞い上がる。連作としても優れている。
いわゆる駄句を報告句というカテゴリーにまとめ、修辞的テニオハを直して俳句のイロハを教える作業は必要だろう。ただそれは技術指導であって詩論ではない。技術指導を詩論と強弁していれば、俳論はいつまでも俳句以前の言語表現テクニックのイロハを巡ることになる。
岡野隆
■ 堀本裕樹さんの本 ■
■ 飯田晴さんの本 ■
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