『後水尾天皇(上皇)像』
尾形光琳筆 宮内庁書陵部蔵
今年は七月までは過ごしやすかったのだが、八月になって急に暑くなり、熱帯夜が続くようになった。この暑い中、お片付けなぞしたくないのだが、どうしても必要があって押し入れの荷物を全部引きずり出した。六畳間にしつらえられた押し入れだからけっこう広い。目的はある書類を探し出すためだが、片隅に骨董品も押し込んでいた。押し入れはとりあえず使わない物を詰め込んでおくためにある。不要品を選別しながら骨董もチェックしたら、柏木貨一郎筆の『気楽坊像』の軸が出てきた。買ったのは覚えているが、どこにしまったのか忘れていたのだった。
ただこの作品を粗末に扱っていたわけではない。むしろ僕にとって大切な品物である。柏木さんについてはいずれ腰を据えて書こうと思っていた。だから簡単な下調べをして「調書」を軸箱に入れ、そのまま押し入れに仕舞い込んだのだった。軸箱に同封した僕の「由緒調書」の日付を見ると平成二十三年一月である。年末に障子の張り替えをして、年が改まってから余った障子紙に書いた覚えがある。ただもう八年半も経っている。
ある年齢を超えると、人間ぐっと忙しくなる。戻りたいかと聞かれれば「ぜーったいヤダ」と答えるが、学生時代のようにぴよぴよ遊んでいられた時代が夢のようだ。ただ〝腰を据えた仕事〟というのはクセモノだ。自分では大事な仕事だと思っているから時間と労力をかけたいのだが、忙しいのでつい先延ばしになる。やっつけの、ライター的時評仕事をつい優先させてしまう。
柏木さんについても、書こうと思ってから八年半も経ってしまった。ちょっと愕然としますな。これではイカン、イカンのであります。ほっといたらまた十年くらい何も書かずに時間が経ちそうなので、中間報告的に柏木さんについて書こうと思う。柏木は幕末明治美術界の重要人物の一人である。にも関わらず、なかなか研究が進まない厄介なお方だ。まずは略歴から。
柏木貨一郎は天保十二年(一八四一年)に、加賀藩用達の辻又四郎の第六子として下谷泉橋通で生まれた。八歳から大澤松濤(この人の詳細は不明)門で儒学を、画を鈴木鵞湖(谷文晁門)に学び、宗偏流の茶道を身につけた。
以前、三浦乾也採集、柏木貨一郎所有の中尊寺金色堂金箔漆片について書いたが(『第052回 奥州平泉中尊寺金色堂壁之金箔』参照)、鵞湖の次男・鼎湖が三浦乾也の養子になっている(鼎湖は養子のまま乾也の妻の実家・石井家を継いだ。鼎湖の息子が北原白秋、木下杢太郎と「パンの会」を結成した石井柏亭である)。貨一郎、鵞湖、鼎湖、乾也には単なる顔見知りという以上の繋がりがあったはずである。
煩雑になるので本稿では最小限度に留めるが、貨一郎は幕末明治の文人・財界人の大半と何らかの関わりを持っていた。その上表舞台に立つことのない美術界の黒幕だった。まあご本人にはフィクサーの自覚はなかっただろうが、ずば抜けた審美眼を持ち、著作などの仕事も残せたはずの人なのに、今では歴史の波に埋もれた怪しい人になっている。
貨一郎は安政五年(一八五八年)、十八歳(数え年)の時に幕府小普請方棟梁・柏木因幡の養継嗣になった。建築史の大川三雄先生によると、小普請方の柏木家は二家あったようだ。これは江戸時代では一般的である。戦前までの日本は男系の家長制を取っていたが、人間の世界、三、四代に一度は必ずと言っていいほど直系が生まれない。養子をもらって家を存続させるにしても、分家、本家の男子を養子にするのが望ましかった。なお柏木一族からは江戸後期を代表する漢詩人・柏木如亭が出ている。ただし貨一郎までの詳細な系図は辿れない。
貨一郎は商家から幕臣の養継嗣になったわけだが、これも幕末にはよくあることだった。生家・辻家は裕福な商人だったのだろう。むしろ柏木家の方が辻家との縁故を望んだのかもしれない。御家人株の売買も盛んに行われていた時代である。
慶應四年・明治元年(一八六八年)に貨一郎は柏木家第九世を継いだ。しかし御維新である。武士の俸禄は失われていった。ただ貨一郎が生活で苦労した気配は一切ない。彼は若い頃から度を超した古物好きだった。もちろん生家・養家の遺産もあっただろうが、趣味の古物好きが維新後の貨一郎の仕事になっていった。
明治四年(一八七一年)四月、大学南校(現・東京大学)主催の物産会が招魂社(現・靖国神社)内の兵部省の建物で開催された。翌五年(七二年)三月には文部省博物局主催の博覧会が湯島聖堂で開かれた。場所は上野に移転したが、東京国立博物館は、この明治五年の文部省博物局主催博覧会を東京国立博物館の始まりとしている。
この明治四、五年の物産会・博覧会に、貨一郎は自分のコレクションを出品している。明治四年物産会では鉱物部門に一点、古物部門に九十六点、五年博覧会では極楽寺瓦経並びに願文三点を出品した。美術館や博物館がまだない時代だから、個人から展示物を集めたのだった。明治初年代にはすでに、貨一郎が政府関係者に信頼できる収集家として認知されていたことがわかる。
明治初期には物産会と博覧会がまだ明確に区分されていなかった。物産会(物産展)は今も行われているように、日本各地、あるいは外国の特産品などを集めて紹介する商取引前提の見本市である。物流が盛んになった幕末から日本各地の大都市で開催されていたが、殖産興業が急務となった維新後には政府機関主催で行われるようになった。鉱物、動植物、工芸資源などを必死になって探していたわけである。そこに博物学が混在していた。
博物学は動植物や無機物、古美術、発掘品などを問わず、地球上のありとあらゆる珍しい物を集め、その歴史や価値を特定して系統立って整理してゆく学問である。まだまだ未知が多い時代に人間の強い知的好奇心から生み出された学問である。日本では本草学ということになる。博物学は十九世紀頃から動物学、植物学、美術、考古学などの学問ジャンルに細分化されていくが、現代の情報化社会では、世界(社会)全体の変化の中で個々のジャンルの動きを捉えようとする博物学的視点が復活し始めている。
貨一郎は鉱物にも興味があったようだがその専門は古物(古美術)に絞られていった。また東京国立博物館は今では美術館のイメージだが、博物館の名称を残しているのは、明治初期に日本を中心に世界の珍しく貴重な物を集めようとした博物学的熱気の名残である。
明治五年(一八七二年)五月から十月にかけて、明治政府による全国的な文化財調査が行われた。欧米先進国に追いつくためには軍事・産業振興だけでなく、日本文化の素晴らしさを内外に喧伝するための博物館(美術館)が必要だという機運が盛り上がったのである。翌明治六年(七三年)のウイーン万博への出品作を選定するための調査でもあった。
調査団長は町田久成で、この人は元薩摩藩士で尊皇の志士だった。薩英戦争や禁門の変にも参戦している。慶応元年(一八六五年)の薩摩藩第一次英国留学生にも選ばれていて、早くから実際にヨーロッパを目にしていた。欧米通ということで維新後に外務大丞になったが、政争に敗れて大学大丞に移動させられた。後の文部省で、まあはっきり言えば左遷ですな。しかし町田さんの偉いところは決して腐らず、数々の提言を為して日本初の博物館(美術館)である東京国立博物館を創立したことにある。今は東博平成館に行く途中に町田さんの胸像が設置してある。その手前に東博(帝博)館長だった森鷗外先生の胸像があります。
明治五年の調査で最も重要なのは、江戸の天保四年(一八三三年)以来、三十九年ぶりに正倉院の調査が行われたことである。正倉院は言うまでもなく聖武天皇遺愛品を納めた皇室の宝物庫で、江戸時代では慶長十七年(一六一二年)の調査を嚆矢に計四回開封調査が行われた。宝物の破損状況を調べて修復するためでもある。江戸二五〇年間で四回の調査は少ない。正倉院はアンタッチャブルで、だからこそ天平勝宝八年(七五六年)以来、千年以上も宝物が守り受け継がれて来たのだった。
日本の古美術は多種多様だが、天皇家の所有で発掘品ではなく伝世品で由来がはっきりしているという意味で、正倉院宝物が日本の古美術のトップである。政府が博物館を作るに当たってまず正倉院御物を調査したのは当然だった。
この時の調査は干支を取って「壬申検査」と呼ばれ、今は写真や絵画(スケッチ)、調査文章などが一括で重要文化財に指定されている。調査資料自体が重文指定されていることからも、この調査がいかに重要だったかがわかるだろう。博物館(美術館)建設のみならず、日本の美術研究の第一歩を印したのが壬申検査だった。
町田以外の随行員は内田正雄(洋学者で日本初の世界地理書『輿地誌略』を刊行した)、蜷川式胤(京都の公家で古美術研究家)、それに日本の写真の先駆者・横山松三郎、日本洋画の先駆者・高橋由一らだが、貨一郎も非公式要員として調査に加わった。町田、蜷川、内田が私費を出し合って貨一郎を雇い入れたのだった。よほど貨一郎の審美眼が高く、その能力が必要とされたのだろう。誰が貨一郎を推薦したのかはわかっていないが、その後の動きから言えば蜷川の可能性が高い。町田と内田は美術官僚だが、熱心な――というか度外れた古美術品コレクターではなかった。貨一郎と蜷川の審美眼と好みは重なっている。
『壬申検査 正倉院』東京国立博物館HPより
貨一郎は翌明治六年(一八七四年)に補正院十四等出仕、博覧会事務局取扱と官位が付いて明治政府の美術行政に参加することになった。八年(七五年)に明治に入って二度目の正倉院調査があり、これにも参加した。この年、内務省十四等出仕博物館掛となり、明治十六年(一八八三年)に農商務省六等属まで出世して辞職した。ただし明治十九年(八六年)まで農商務省博物館行政に関わったようである。
なお貨一郎は明治五年と八年の二度の正倉院調査を行ったというのが通説である。しかし西南戦争真っ盛りの明治十年(一八七七年)に行われた明治天皇の大和行幸にも扈随し、二月九日の正倉院特別開封の際に蔵の中に入っている。この時明治天皇は天下の香木・蘭奢待を切り取って実際に香をお聞きになった。貨一郎の墓碑を撰んだのは大槻如電だが、そこに「明治甲戌出仕博物館奉南都整理正倉院宝器、前後三次」と書いた。「南都ニテ正倉院宝器ヲ整理スルコト、前後三次」と読める。如電は貨一郎から三度正倉院に入ったと聞いていたわけだ。これについて書くと長くなるので別の機会にする。
元小普請方(建築家)としての仕事では、品川御殿山の益田鈍翁(孝)邸と禅居庵、深川伊勢佐木町・岩崎男爵邸、飛鳥山の渋沢栄一邸と無心庵、三井有楽町集会場などを手がけている。原三渓のお抱えのような建築家(大工)だったという証言もあり、三渓は古美術愛好家でもあったからなんらかの繋がりはあっただろう。建物はいずれも現存せず写真や図面類も少ししか残っていないが、数寄屋などの日本建築を得意とした。もちろん貨一郎のクライアントは明治の名だたる実業家(富豪)ばかりである。
美術官僚と建築家は表舞台の仕事だが、プライベートでの古美術愛好家としての貨一郎の活動はさらに活発で複雑である。貨一郎は松浦武四郎主宰の「尚古会」の主要メンバーだった。武四郎は蝦夷地探検で知られるが、明治を代表する古物収集家で、そのコレクション約九〇〇点が今は岩崎弥之助、小弥太親子設立の静嘉堂文庫に所蔵されている。なお武四郎は蝦夷探検で有名だがアイヌ関連の蒐集品が少ないのは、当時いわゆるアイヌ物は価値がないと思われていたんですね。
貨一郎はまた、民俗学者でやはり古物コレクターだった山中共古(笑)主宰の「集古会」や九鬼隆一ら創設の「龍池会」のメンバーでもあった。九鬼隆一は東京・京都・奈良帝国博物館初代総長で、『「いき」の研究』で有名な哲学者・九鬼周造のお父さんである。隆一は東京美術学校初代校長・岡倉天心と浅からぬ因縁があった。「尚古会」などはすべて美術親睦会だが、会員間で美術品の売買も盛んに行われていた。貨一郎が古物の値段を値踏みした手紙なども残っている。
これらの愛好会で貨一郎は多くの美術愛好家たちと交わった。明治の名だたる古美術愛好家すべてと何らかの接触があったと言っても過言ではない。明治初期に日本美術を買い漁ったフェノロサやビゲロー、モースらのアメリカ人とも親交があった。この三人のコレクションが、日本以外では最大かつ最良のボストン美術館東洋美術コレクションの中核になっている。モースは日本滞在記『日本その日その日』で貨一郎や蜷川について触れている。
同時代の日本人の貨一郎評は、口が悪かった、ケチだったetc.と辛辣だが、モースは日本人で貨一郎くらい親切だった人はいないと書いた。モースは貨一郎の日本美術講義に真剣に耳を傾ける素直な生徒で、いいお客さんだったのだろう。
それなりの審美眼は持っていただろうが、今も昔も贋作だらけの古美術の世界で、外国人が自分の眼だけで真作の、それも優れた品物を入手できるわけがない。モースは貨一郎、それに蜷川式胤らの斡旋で日本の陶器の優品を入手した。実際貨一郎は大変な目利きで、貨一郎が入手すると物の値段が跳ね上がると言われていた。
この優れた美術鑑定家兼コレクターで、古美術売買の斡旋もしていた貨一郎に目を付けたのが益田鈍翁だった。言わずと知れた三井財閥の重役である。もちろん鈍翁は貨一郎からだけ物を買っていたわけではない。多くの骨董商も大旦那である鈍翁の元に物を持ち込んでいた。しかし貨一郎は特別だった。鈍翁が貨一郎から買った、あるいは斡旋してもらっただろう古美術を見ていると、柏木の美術業界でのフィクサーぶりが浮かび上がってくる。
平成十年(一九九八年)に五島美術館で『益田鈍翁の美の世界 鈍翁の眼』展が開催された。文字通り腰を抜かすほどの蒐集品のレベルの高さだった。ただちょっと言いにくいが、この展覧会は微かな不審を引き起こした。古美術と言っても時代によって価値が違ってくる。特に飛鳥・奈良・平安時代の作品で発掘品ではない伝世の古物になると、偶然残ったということは絶対にあり得ない。市場に出る前には必ず奈良・京都などの古い寺社仏閣に大切に保存されてきたのである。つまり伝世経路が問題になる。
しかし鈍翁コレクションには貨一郎から鈍翁という伝世経路以上に遡れない物がかなりある。どこかの寺社仏閣から出て、その経路はブラックボックスのまま貨一郎の手に渡り、次いで鈍翁の蔵に収まったということだ。特に問題になるのが正倉院系の遺物である。
明治初期に正倉院からかなりの数の御物が流出したのは間違いないが、市場に物が出るとそれは東大寺から出たと説明されるのが慣例になっている。光明皇后は聖武天皇遺愛品を正倉院と東大寺に分けて奉納したからである。東大寺は宗教法人(団体)なので物が流出してもなんら問題ない。
だが正倉院は天皇家の私的宝物庫である。明らかに正倉院から流出したとわかれば、もしかすると窃盗? ということになってしまう。ただし宮内庁は「正倉院御物の流出はあるのか?」という問い合わせに対して、「日本臣民が天皇家の御物を盗むことはあり得ず、従って正倉院御物の流出はない」という意味の回答をしている。実際はどうあれ、正倉院御物にとってもよく似た物が、東大寺から市場に出たでよいのである。宮内庁のお墨付きがある。オフィシャルには正倉院御物流出はない。
しかし万が一(万が一ですよ)正倉院から御物が流出したとすると、それは貨一郎や蜷川式胤が関わった明治五年と八年の二回しかない(明治十年は伊藤博文らの重臣がこぞって随行した明治天皇行幸に伴う特別開封だから可能性は低いだろう)。これは天保の調査と明治八年以降の調査リストで御物をチェックすればすぐわかることである。御物が減っている。極めて微妙な問題なのだ。
鶴山裕司(中編に続く)
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(2019/08/15~18)
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