和歌懐紙『池岸有松鶴』
後水尾法皇筆 陽明文庫蔵
しかし今はこの問題はひとまず棚上げにして、貨一郎と鈍翁の関係に戻ることにする。貨一郎と鈍翁はかなり熾烈に古美術を奪い合った。簡単に言うと、古美術フィクサーである貨一郎がどこからともなく入手してきた名品を、鈍翁が豊富な資金力で吸いあげようとしたわけである。これについては『益田鈍翁の美の世界 鈍翁の眼』展解説の鈴木邦夫先生の文章が的確なので少し長いが引用する。
柏木が借金を返済しようとしたところ、品物を返せ、返さないでもめ、朝吹英二(詩人の朝吹亮二さんの曾祖父)が仲裁に入ってようやく和解が成立した。「地獄草紙」一巻(「沙門地獄草子」)は孝(鈍翁)のものとし、もう一巻(「辟邪絵」)と「源氏物語絵巻」を柏木に返したのである。このとき、柏木(一八四一年生。孝より七歳うえ)は孝に手紙を送り、君の態度はけしからんが、美術を愛する気持ちはよくわかる、僕は気楽な生活を送っているので、激職にある君の方が先に死ぬだろうが、もし自分に万一のことがあった場合は、これらを君に渡すことを約束すると伝えたという。孝は手に入れた「地獄草子」一巻を一八九八(明治三十一)年三月二十日の第三回大師会で展覧に供した。
ところが、そのまさかの事態が発生した。同年九月五日、柏木は上根岸の自宅から王子の渋沢栄一邸に向かう途中か帰路か、汽車にふれたか煽りをくらったかして転倒し、六日に死亡してしまった。享年五十八歳、戒名は気楽坊探古柏園乗空禅士。急逝一年ほどは、じっと我慢していたが、それから孝は先の手紙をたてに、英作(鈍翁の弟)を使って養継嗣の祐三郎と交渉に入り、「源氏物語絵巻」、「地獄草子」、一巻と「猿面硯」の三点を合計五千円で引き受けることで話をまとめたという。(中略)孝が「源氏物語絵巻」を初めて大師会で展示したのは一九〇一(明治三十四)年三月二十一日の第六回である。このとき田中親美の模写(これ自体が美術品といわれる精緻な複製。孝が制作を依頼)も並べて展示されており、一九〇〇(明治三十三)年三月二十一日の第五回では本物も模写も出品されていないことから、孝は一九〇〇(明治三十三)年に「源氏物語絵巻」を手に入れたと断定してよいであろう。
(鈴木邦夫「鈍翁コレクションのアルケオロジー」)
貨一郎はしばしば金に詰まり鈍翁に借金をしていたが、鈍翁は借金のかたに貨一郎所有の古美術の優品を我が物としようとした。「沙門地獄草子」「辟邪絵」は現在国宝。伝来は貨一郎(柏木家)―益田家であり、貨一郎所有以前の所在はわからない。「源氏物語絵巻」は阿波蜂須賀家が長く所有していたが、古川家、蜷川式胤、貨一郎と渡り鈍翁の元に納まった。これも国宝。このくらいの美術品になると金があっても入手できるわけではないので、貨一郎や蜷川式胤の美術品売買ネットワークが気になるところである。ただまあこの問題も棚上げにしておく。
『沙門地獄草子断簡 飛火地獄図』
『辟邪絵断簡 栴檀乾闥婆図』
『源氏物語絵巻 鈴虫二』
とにかく貨一郎は明治三十一年(一八九八年)九月六日に亡くなったわけだが、鈍翁茶会(大師会)の記録から、鈴木先生は明治三十三年(一九〇〇年)に、鈍翁が貨一郎の養継嗣・祐一郎から「辟邪絵」と「源氏物語絵巻」、「猿面硯」の三点を入手したと断定しておられる。
柏木貨一郎というあまり有名ではない美術コレクターの話なので前置きが長くなったが、今回紹介する『柏木貨一郎筆 気楽坊像』は、貨一郎死後に養継嗣・祐一郎が鈍翁に貨一郎コレクションを売った時期の出来事と人間関係を伝える品物である。貨一郎研究では新発見である。
大部の著作は残さなかったが貨一郎は筆まめで、入手した古物に必ずと言っていいほどメモなどを添えていた。友人たちもその影響を受けたのか、『気楽坊像』も資料が揃った大変読解しやすい骨董品である。まず内容物を一覧にしておく。
(1) 桐箱
(2) 極札
(3) 大槻如電筆「気楽坊縁起」
(4) 柏木貨一郎筆 気楽坊像(軸)
以下簡単にそれぞれの内容について説明してゆく。
(1)の桐箱だが、箱表に「気楽坊像 探古翁筆」の墨書がある。探古は貨一郎の雅号である。箱の裏には「元和帝御製 源親愛謹書并拝題(花押) 明治三十三年十一月」とある。(2)の極札は「故柏木貨一郎筆 喜楽坊像 柏木祐三郎君」である。
「元和帝」は後水尾天皇(上皇)のことで、「気楽坊」人形の制作者で所有者だった。気楽坊についてはすぐ後で説明する。なお「気楽坊」と「喜楽坊」は同じ意味。コピーや印刷機器がなかった江戸までは文字も絵も基本的には筆写するしかなく、文字の場合は視覚的変化を持たせるために、ある漢字を音の同じ別の漢字に様々に書き換えることが普通に行われていた。例えば「の」を「之」「乃」などと様々に表記するわけだ。気楽坊は気楽なお坊さんくらいの意味だが、それを喜び楽しむお坊さんと書き換えたわけである。この場合はダブルミーニングである。
箱書と極札を書いたのは源親愛こと多田親愛。天保十一年(一八四〇年)生まれで明治三十八年(一九〇五年)に六十六歳で没した。小野鵞堂と並ぶ明治を代表する和様書家である。明治七年(一八七四年)に後の東京国立博物館である博物局に出仕し、二十七年(九四年)まで実に二十年間も勤務した。この間に博物局から古筆を借り出し平仮名の書の腕を磨いた。貨一郎とはほぼ同い年で、同時期に博物局に在籍したので親しかったようだ。
左から、(1) 桐箱 蓋の表と裏
縦四七・二×横七・二×深六・六センチ
(2) 極札
縦一九・四×横五・五センチ
なお親愛の弟子に田中親美がいる(明治八年[一八七五年]~昭和五十年[一九七五年])。言わずと知れた明治維新以降最大の古筆鑑定家で収集家である。大和絵画家だった父・有美の勧めで十二歳の時に親愛の弟子となり、書道の研鑽を積むうちに古筆の魅力に目覚めた。古筆や絵巻の複写でも知られる。
先に鈴木先生の「鈍翁コレクションのアルケオロジー」を引用したが、鈍翁は「源氏物語絵巻」を親美に模写させている。貨一郎と多田親愛が親しかったとすれば、弟子の親美とも面識があった可能性が高い。貨一郎周辺はこうやって人と人が繋がってゆくのが常である。
多田親愛の箱書と極札から、親愛は明治三十三年(一九〇〇年)十一月に養継嗣・柏木祐三郎から貨一郎筆「気楽坊像」の軸を贈られたことがわかる。では「気楽坊」とは何かだが、これは(3)の大槻如電筆「気楽坊縁起」に詳しい。和紙のペラ紙に活版で印刷されている。如電の「気楽坊縁起」も新発見資料かもしれない。以下に全文を書き起こしておく。
気楽坊縁起
抑もこの気楽坊の由来といつば恐れ多くも、後水尾法皇様の思しめす事ありて造らせ給ふ木偶なり。帝は寛永六年御歳三十四歳にして御譲位あり院にますますこと五十年
世の中を気楽にくらせ何事も思へばおもふ思はねばこそ
と御詠ありてこの木偶を工人に命じ給ひ常に御褥の側にすえさせ給ひて一方ならぬ御寵愛ありしと申し伝ふ。御登遐(崩御のこと)の後は近衛応山公(後陽成天皇第四皇子で近衛家第十九代当主・近衛信尋)に賜りてありしを天明のころ盛化門院様(後桃園天皇女御・近衛維子)これを模造せらる。いま花園の春光院にある者これなり。近衛家の御像は故ありて上臈信行院に伝わり夫より典薬近藤寿伯院の許に徒りしが文化中身人部清暉に贈られる記文あり其後山科監物飯室伊兵衛の両氏に転伝して遂に柏木探古居士の有となる。これ明治二十一年四月にぞある
居士が此像に就きて説きし所は、後水尾の院は気象すぐれさせ給ひ徳川将軍の施為を深く憤らせ給ふ事ありて寛元元享両皇(後嵯峨天皇、後醍醐天皇のこと)の御志をも継がせ給はずる御心のおはしまししや
あし原や繁らばしげれおのがまゝ
とても道ある世ともおもはず
の御歌にてもうかがひ奉つるべし。さて此木偶たたせば一尺二寸(約三十六センチ)すわらする時は六寸(約二十センチ)その衣服は赤地の錦にて五体具足の状なれど衣の中には手もなく足もなく腹もなく肩もなし首は下に一本の真棒ありて挿込み木端に気楽坊空乗和尚との墨字あるのみ。其面貌の無念無想なる頭蓋の欠きてあるなど総て何事も思はねばこその意を表し首の容易く前後左右すべきは繁らばしげれの御心を示し給へるにぞありなん。御心中を察し奉つればかしこくも亦たうてしと
居士のこの木偶を得るやおのが境界にも深く感ずる所ありてや。これを第一世とし自らは二世気楽坊となりすまして
すきな道にうかれてあそべ夢の世をゆめとさとるなさとらぬが花
あらおもしろの春のけしきや
かくてこの像に相応しき調度をとて新となく古となくいとまめまめしき器物どもさはに集め世をおもしろくくらせしが今は其人もさめやらぬ夢路にはや三歳をへたりき。こたひ令嗣祐三郎子の此木像に其調度つらねて追福のわざいとなむと云ふ 余と居士とは度量衣飾など考古の学問はいふもさらなり音曲に香茶に倶に遊べること三十余年。けふの此日に気楽坊の由来かいつけんとは真に夢の如しと云はんかされどそは亡き人の心に適はずやあらん。ただすきな道に筆とるとせんかし
きみひとりうかれうかれてかぎろひの春のけしきをいづくにか見る
明治庚子(明治三十三年)十一月
白念坊如伝敬記
(3) 大槻如電筆「気楽坊縁起」
和紙に活版印刷 縦二七・一×横三八・九センチ
大槻如電は元仙台藩士の大槻磐渓の長男で、明治初の国語辞典『言海』を作った文彦は実弟。磐渓の父は蘭学者・大槻玄沢である。磐渓は仙台藩士だが定府(江戸)住みだった。奥羽列藩同盟結成の立役者の一人であり、戊辰戦争後に戦犯として捕らえられた。息子の如電は父の罪を晴らすため明治政府の史料編纂局に勤め、父の禁固が解かれると官を辞して再び宮仕えしなかった。家督を弟文彦に譲り悠々自適の生活を送った。
如電は儒学者・国学者だが、数多くの知的なエッセイを書き残した明治の知識人の一人である。大変な皮肉屋で毒舌家だった。貨一郎とは馬が合ったのだろう。如電は貨一郎とは三十年来の付き合いで、古美術の研究だけでなく、音曲や茶道といった趣味もともにしたと回想している。
「気楽坊縁起」は、さすがは如電の簡潔で要領を得た文章である。後水尾上皇遺愛の指人形、気楽坊は上皇登霞後に上臈信行院などなどに伝わり、明治二十一年(一八八八年)四月に貨一郎の所有となった。貨一郎は気楽坊人形をことのほか喜び大切にした。それだけでなく「二世気楽坊」を称した。
貨一郎の墓誌を撰したのは如電だが、突然死だったので戒名も如電が撰んだ可能性がある。貨一郎戒名は「気楽坊探古柏園乗空禅士」だが、如電は気楽坊人形の真棒に「気楽坊空乗和尚」の墨書があると書いている。つまり後水尾天皇遺愛の気楽坊人形から「気楽坊」と「乗空」の五文字を採ったわけだ。貨一郎がそうとうに気楽坊人形を大切にしていて、それを如電ら親しい人たちに話していたことがわかる。貨一郎が二世気楽坊を称するほど気楽坊人形を愛したのは、後水尾天皇の、ままならぬ浮世を気楽に暮らすという姿勢(思想)に深く共感したからだろう。鷗外漁史の史伝のようにどんどん回り道してしまうが、後水尾天皇の事跡についても簡単に説明しておく。
江戸時代、特に大坂冬夏の陣から島原の乱平定で幕府の治世が盤石になる三代将軍家光時代までは、武士の活躍が目立つ。しかし京都では、新たな為政者である徳川幕府と朝廷との権力争いが静かに闘われていた。応仁の乱の室町末から戦国時代にかけて朝廷は困窮した。徳川の世になり、名目的とはいえ日本の最高君主である朝廷は、制度的にも経済的にもその威厳を取り戻そうと図った。しかし幕府は朝廷を尊重しつつも、その試みを次々に潰していったのだった。この幕府と朝廷の争いがクローズアップされるようになったのは、幕末から明治にかけてである。
尊皇攘夷によって幕府が倒れ、天皇を国家元首にいただく明治政府が成立した明治初期には、武士と対立して闘った天皇や上皇の評価が大きく高まった。承久の乱で隠岐の島に流された後鳥羽上皇の事跡が再評価され、建武の新政で天皇親政を復活させた後醍醐天皇が明治維新を先取りした帝王のイメージをまとうようになった。今の天皇家は北朝系で後々面倒な問題を引き起こすことになるが、戦前には足利尊氏は賊臣で、南朝側の楠木正成や新田義貞が軍神・忠臣だった。今でも皇居前広場に楠木正成像が立っている。こういった皇国史観の盛り上がりの中で、貨一郎の時代には今とは比較にならないほど後水尾天皇の評価が高まり、その事跡もよく知られていた。
後水尾天皇は後陽成天皇第三皇子だが、家康が皇位継承に介入して第一皇子の良仁親王を排したため帝位に就いた。後水尾天皇の時代、幕府は「禁中並公家諸法度」「勅許紫衣法度」などを次々に制定して朝廷の権力を削ごうとした。後水尾天皇は、特に「勅許紫衣法度」に激しく抗った。朝廷は高僧らに紫衣を授与することでその権威を保証してきたが、幕府は幕府の許可なく紫衣を下賜するのを禁じたのだった。幕府はわずかに残っていた朝廷の〝実権〟をも剥奪し、天皇家を政治から引き離そうとした。
余談だが戦後の象徴天皇の姿は、江戸幕府の「禁中並公家諸法度」の規定にかなり重なるところがありますな。「禁中並公家諸法度」第一条は「天子諸芸能のこと、第一御学問なり」である。戦後の憲法や皇室典範には天皇家は学問に専念せよとはどこにも書いてないが、政治に介入できないという規定があるので必然的に政治経済以外の学問を修めることになる。平安時代も摂関政治の時期が長かったわけだから、日本の歴史を振り返ると天皇親政の方が例外的である。天皇を最高君主に戴きながら実際の政治は政治のプロに任せるという日本的二重構造は、日本文化の特質を象徴するものでしょうね。また天皇親政となった時期は、不思議と日本の動乱期と重なることが多い。
で、大御所家康が後水尾天皇を即位させたのは公武合体を図るためだった。二代将軍秀忠の娘・和子を入内させた。後水尾天皇は抗ったが結局押し切られた。ただ和子との仲は円満で、晩年まで後水尾上皇に寄り添った。しかし政略結婚には変わりなく、和子は二男五女を産んだが皇子二人は夭折してしまい、長女の女一宮が明正天皇として即位した。古代を除けば天皇家では例外的な女帝である。和子にまだ皇子が生まれる可能性があり、幕府はとりあえず女帝を擁立して、徳川の血が天皇家に受け継がれることを期待したのだった。しかし結局皇子は生まれず、左大臣園基任の娘光子との間に生まれた後光明天皇が明正天皇の後に即位した。なお後水尾天皇には側室がいたが、和子入内以降、明正天皇即位後まで皇子は生まれていない。側室腹皇子の暗殺説が囁かれる由縁である。
鶴山裕司(下編に続く)
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
(2019/08/15~18)
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■