No.099『クリムト ウィーンと日本 1900』展
於・東京都美術館(豊田市美術館を巡回[2019/07/23~10/14])
会期=2019/04/23~07/10
入館料=1600円(一般)
カタログ=2500円
前回取り上げた『ルート・ブリュック展』は日本―フィンランド外交関係樹立一〇〇周年記念の一環だったが、今回のクリムト展も日本-オーストリア友好一五〇年記念として開催された。日本とオーストリアが修好通商航海条約を結んだのは明治二年(一八六九年)のことである。当時のオーストリアはオーストリア=ハンガリー帝国だった。中世から続くハプスブルク家の帝国だが、皇太子夫妻がセルビア人青年に暗殺されたのをきっかけに第一次世界大戦が起こったのはよく知られていますね。その後第二次世界大戦を経て、一九五五年にオーストリア共和国として完全に独立すると同時に永世中立を宣言した。
オーストリアといえばクラシック音楽。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やザルツブルク音楽祭がすぐ思い浮かぶ。モーツアルト、シューベルト、ヨハン・シュトラウス、マーラーなどの偉大な作曲家を輩出しているのだから当然だ。公用語はドイツ語。第一次世界大戦後から隣国ドイツに振り回されるようになり、二次大戦中には親ナチス政権ができた。政治はもちろん文化的にも大国ドイツの影響を強く受けているが、絵画の世界でオーストリアを代表するのがグスタフ・クリムトである。今年はクリムト没後一〇〇年でもある。
クリムトは一八六二年にウィーンで生まれ、一九一八年に五十五歳で亡くなった。和暦で言うと幕末の文久二年生まれ、明治四十五年(大正元年)没ということになる。ただ日本の明治時代が日本近・現代社会の揺籃期で、大混乱しながらも向日的で楽天的な雰囲気があったのに対して同時代のヨーロッパは退廃的である。いわゆる世紀末(Fin de siècle)だ。日本で言うと天保から安政時代の幕末によく似ている。江戸というとすぐに浮世絵が思い浮かぶが、枕絵などの地下出版も含めて浮世絵が最高潮に達するのは、明治維新の足音が聞こえ始めた安政時代頃である。浮世絵は当時の社会ではいわゆるサブカルだが漢詩や国学など当時の表文化もこの時期に絶頂を迎えた。
ヨーロッパで起こり世界を巻き込んだ第一次世界大戦、第二次世界大戦は、各国がそれまでに溜め込んだ矛盾が一気に噴き出して凄惨な武力衝突に至った戦争である。日本が無理な近代化で大きな矛盾と不満を抱え込んでいたのは言うまでもない。ヨーロッパは旧態依然たる王政貴族主義と急速に勃興したブルジョワ成金の対立、植民地拡大に伴う諸矛盾など、大きな問題を抱えていた。ただそれが大戦という悲劇で爆発する前には空前の文化爛熟期があった。フランスのベル・エポックが代表的だがウィーンも同様である。クリムトはいわゆるベル・エポック時代に芸術家として最盛期を迎え、第一次世界大戦中に亡くなった画家である。
『ユディトⅠ』
油彩、カンヴァス 縦八四×横四二センチ ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン蔵 一九〇一年
『ユディトⅠ』は〝ザ・クリムト〟と呼んでいい画家の代表作の一つである。クリムトはそれまでのヨーロッパ絵画では珍しい縦長の画面(カンヴァス)を好んで使った。浮世絵の柱絵の影響がある。油彩画に金箔を貼る手法もクリムトが初めてだと言っていい。金箔を使った絵はクリムトの「黄金様式」と呼ばれるようになるが、『ユディトⅠ』はその最初の作品である。画題『ユディト』は旧約聖書外典から取られた。図録解説が的確なので引用します。
アッシリアのネブカドネザル王に仕える司令官ホロフェルネスは、遠征の途中でユダヤの町ベトゥリアを包囲する。ベトゥリアに暮らすうら若き未亡人ユディトは、包囲を解くために計画を練り、夜陰に乗じてアッシリア軍の敵地に向かう。ユディトはホロフェルネスを誘惑して酔いつぶし、その剣で隣に眠る彼の首を切り落とした。翌朝アッシリア兵は、司令官の首が城壁にさらされているのを目にする。指揮官を失った軍の混乱に乗じて、ユダヤの住民たちはアッシリア兵を全滅させた。
(マークス・フェリンガー著/中村有紀子訳)
ユディトの画題はヨーロッパ絵画では一般的なものである。外典とはいえ旧約聖書時代の故事だから、矛盾する二つの力を表現する絵画になることが多い。ユディトは女の色香で司令官ホロフェルネスを誘惑した。しかしその目的はベトゥリアの町を救うことにある。男の欲望につけ込む奸知と大義が入り交じる画題なのだ。美しい女性を描くことができる画題だが、それだけでなく大義を果たす女性の凜々しい面影がなくてはならない。
だがクリムトのユディト解釈は従来のヨーロッパ絵画とは明らかに違う。ユディトは恍惚の表情を浮かべている。はっきり言えば性的なエクスタシーに達した女の顔だ。画面右下にホロフェルネスの首が半分だけ描かれている。クリムトはユディトの故事を換骨奪胎している。世紀末的な言い方をすれば、男を夢中にして破滅させるファム・ファタール(運命の女)を描いている。
ではクリムトは女で破滅したがっていた男なのか。深層心理を探ればそうでしょうな。ただ現実の女は男の破滅願望を叶えてくれるほど親切ではない。クリムトに限らず同時代のラファエル前派の絵などに表現されたファム・ファタールが、現実離れした男の夢想であるのは言うまでもない。
全盛期――「黄金様式」時代のクリムト作品を見れば誰もが感じるように、彼の絵は淫靡だ。俗な言い方をすれば「やーらしい」。性的というよりはっきり男女のセックスによる和合を理想としていたのが伝わってくる。だからクリムトの絵の好悪は分かれる。しかしクリムトは、反社会的(反道徳・倫理的)な意図を持って淫靡な印象を与える絵を描いたわけではない。彼の絵画は同時代ウィーンの精神状況の的確な反映である。
クリムトの絵を間近で見た人はおわかりだろうが、そのタッチは意外と荒い。クリムトは日本を始めとする東洋絵画・芸術に魅了されていたことが知られている。いわゆるジャポニズム時代の画家でもある。金箔を使う技法が日本の障壁画や漆器から生まれたのは言うまでもない。
ただ金箔はもの凄く扱いにくい素材である。クリムトの金箔の使い方は素人であり、今にも剥がれ落ちそうだ。漆器のような盛り上げ技法を使えるはずもなく、むしろ金箔は絵を平面的にしている。それに呼応するようにクリムトの絵のタッチは荒くなる。これに関しては意図的にそうしている。全体の調和を取るためだ。クリムトは古典派の技術を身につけたもの凄く上手い画家である。
『ベートーベン・フリーズ(原寸大模型)』(部分)
クレヨン、サンギーヌ、パステル、ガゼイン絵具、金、銀、漆喰、モルタル、その他 縦二一六×横三四三八センチ ベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館、ウィーン蔵 一九八四年(オリジナルは一九〇一~二年)
今回の展覧会では原寸大模型の展示だったが、『ベートーベン・フリーズ』はいわば絵画史的な意味でのクリムトの代表作である。この作品は第十四回ウィーン分離派展のために制作された。開催されたのは一九〇二年四月である。
世紀末のウィーンの画壇を牛耳っていたのはクンストラーハウスという芸術団体だった。保守的だが展示会場を持つ唯一の団体だった。クンストラーハウスの保守性に反発したクリムトらが一八九七年に造形美術協会を結成し、それが後にウィーン分離派と呼ばれるようになった。
ただウィーン分離派は、単に権威に反旗を翻す小規模な芸術グループではなかった。富豪カール・ヴィトゲンシュタイン(哲学者ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインの父)の支援を得て、最初からセセッション館(分離派会館)を建設して専用の展示施設を持つことができた。定期的に展覧会を開催したほか機関誌も刊行している。クリムトらの新興芸術家を支援するパトロンが大勢いたのである。オーストリア=ハンガリー帝国の絵画はドイツ文化の強い影響下にあったが、ウィーン分離派の出現によって初めてその独自性を現した。
第十四回ウィーン分離派展覧会の中心はマックス・エリンガー作のベートーヴェン像だった。言わずと知れたドイツを代表する偉大な作曲家である。エリンガーのベートーヴェン像を中心にベートーヴェンの音楽を主題にした美術作品が展示されたが、クリムトはホール天井近くの三つの壁面に絵を描いた。展覧会終了と同時に取り壊される予定だったがコレクターが買い取って、今はベルヴェデーレ宮オーストリア絵画館に寄託されている。
力の入った作品だが、漆喰の上に、基本的にはテンペラに使われるガゼイン絵具で描かれている。金、銀、貝殻、ガラスなどの様々な素材も使われている。クリムトがこの作品に、通常の油絵作品のような耐久性を求めなかったのは明らかである。大きさもさることながら脆いのでオーストリアから動かせない。しかし会期後に取り壊されるという前提で描かれたからこそクリムト絵画の特質がよく表れた作品である。
壁1:幸福への憧れ。弱い人間の苦悩。この苦悩が外からの力として甲冑を纏う強者に懇願する。内部を突き動かす力としての憐れみと野心。これらの力が幸福を求める戦いを始めるように促す・・・
壁2:敵対する力。巨人テュホン、それに対して神々すら無駄に戦っていた。テュホンの3人の娘ゴルゴン。病、狂気、死。肉欲、淫蕩、不節制。激しい苦悩。人間の憧れと願望がその上を飛び越えていく・・・
壁3:幸福への憧れが詩情に慰めを見いだす。諸芸術は我々を、我々がそこでのみ純粋な喜び、純粋な幸福、純粋な愛を見つけることができる理想の世界へと案内する。楽園の天使の合唱。「喜びよ、うるわしき神の火花よ」、「この接吻を全世界に!」
第十四回ウィーン分離派展(ベートーヴェン展)の公式カタログに掲載された『ベートーベン・フリーズ』の解説である。クリムトが書いた文章ではないが、この作品の意図を十全に解題している。人間はまず幸福で聖なるものへの憧れを抱き、それは実に地上的な煩悩によって阻害される。にも関わらず人間は天上を目指すのであり、芸術がその実現を助け、目に見える形で人々に理想世界を示す、ということである。三段論法で現世からの超脱(救済)を描いている。
第十四回ウィーン分離派展がマックス・エリンガーのベートーヴェン像を中心に絵画、家具など様々な芸術作品を展示したのは、分離派が総合芸術を理想としていたことを示している。最初にヨーロッパで総合芸術を掲げたのは十八世紀のロマン派だった。ロマン派の文化はヨーロッパ各地で花開いたが、中でもドイツ・ロマン派に総合芸術的指向が強かった。クリムトより半世紀ほど前に活躍したゲーテが代表的作家である。
ゲーテ『ファウスト』はキリスト教文明にとっては異端のギリシャ・ローマ文化を弁証法的に統合し、善と悪の戦いをも最終的には天上への昇華という形で解消しようとした。『ファウスト』が劇場で上演可能な戯曲であり、小説のような物語であり、詩としても読める総合文学であるのは言うまでもない。二十一世紀の今日に至るまでドイツ語文化圏でゲーテ『ファウスト』を無視できる作家はいない。クリムトも『ファウスト』を愛した。
フランスでは現象論が盛んになるが、ドイツのお家芸的哲学は観念論である。ドイツ・ロマン派も観念的で、ぼんやりとした抒情を表現するのではなく、世界を総合的に捉えその神秘を解き明かそうとした。クリムトの『ベートーベン・フリーズ』にはロマン派的総合芸術への指向がはっきり表れている。
『オリゲニア・プリマフェージの肖像』
油彩、カンヴァス 縦一四〇×横八五センチ 豊田市美術館蔵 一九一三~四年
ウィーン分離派は従来の権威に反発したが、その中心画家のクリムトは十分貴族的な画家だった。クライアントの注文で絵を描くのではなく、画家は自分自身の主題(画題)を表現すべきだと主張して実践したが、一方で依頼された貴族の肖像画などをたくさん描いている。クリムトを支えたのは相変わらず富裕層の貴族やブルジョワだった。
また絵を見れば想像がつくが、女性関係も乱脈だった。何人もの上流階級の女性と浮名を流した。当時絵のモデルになるのは下層階級の娘たちだったが、生前未発表のレズビアンや男女の性交を描いたスケッチも残っている。アトリエの中も乱脈だったことがうかがい知れる。品行方正とは言い難い画家だが、クリムトは単なる女好きで、趣味でポルノグラフィティを描いていたわけではない。
クリムトは性を通して人間存在の底の底まで見ようとした。それがクリムトの絵に一種独特の迫力を与えている。数々の女性遍歴は、女性との恋愛と肉体的関係が彼の芸術にとって不可欠であり、ある種のユートピア的和合(相互理解)をもたらすものだったことを示している。
クリムトは女性たちとの間に子供が生まれても結婚も認知もしなかった。父親になることに何の興味も覚悟も示さなかったのである。裕福な画家だったので経済的援助はしたが、子供ができるとじょじょに疎遠になった。一方で生涯に渡って鬱病の母親と未婚の姉妹二人と実家で暮らした。また夭折した弟の妻の妹、エミーリエ・フレーゲに膨大な量の手紙(ラブレター)を書いた。しかしエミーリエと肉体関係があったのかどうかすらはっきりしない。ただ死の床で「エミーリエを呼んでくれ」と言った。
女性たちとのいっときの恋愛、生涯変わらぬ母や姉妹への愛、エミーリエとのプラトニックな面の方が大きい恋愛関係は矛盾しているようで底の方で繋がっている。エミーリエはクリムトのファム・ファタールだったのだろう。クリムトは手の届かないイデアで我慢できる人ではなかった。生粋の画家であり対象を目で見て絵画で捉えたかった。しかし完全に手が届いてしまうと興味を失う。クリムトの理想の女性は地上と天上を行き来する存在である必要があった。
『女の三世代』
油彩、カンヴァス 縦一七一×横一七一センチ ローマ国立近代美術館蔵 一九〇五年
『女の三世代』には赤ん坊から若い女性、老女に至る女性の姿が描かれている。彼は単に若い女性に惹かれていた画家ではない。生誕から死までを総合的に描いた。様々に試行錯誤した作家だがその代表作はどれも美しい。
クリムトが生きた世紀末ウィーンは非常に退廃していた。貴族たちは抑圧されながら秘かに性的に乱脈な生活を送っていた。庶民の性病率も驚くほど高かった。フロイトはクリムトの同時代人であり、クリムト三十七歳の一八九九年に『夢判断』を発表している。初期のフロイトは性的抑圧に悩む上流階級女性の精神分析医だった。クリムトとフロイトの間に交流はないが、クリムトはフロイトのエディプス・コンプレックスに代表される性的心理学を先取りし、絵画で大胆に表現した画家でもある。
ただウィーン分離派の芸術的寿命は長くは続かなかった。ナチス・ドイツの台頭だけが理由ではない。クリムトに兄事したエゴン・シーレはクリムトと同じ年に二十八歳で病死した。第一次世界大戦後になると性的表現は数多くの前衛表現の一つでしかなくなり、人々に驚きを与える危うい綱渡り表現ではなくなってしまう。クリムトの晩年はパウル・クレーの時代に重なっており、心理学はユングが中心になってゆく。ポスト・モダニズム思想を内包した理知の時代が始まるのである。
明らかに強い性的衝動に貫かれながら、それをギリギリのところで抑制して美しい絵画に仕上げた作品は世界的に見ても意外なほど少ない。クリムトはその代表的作家である。クリムト絵画はヨーロッパ貴族文化最後の光だったかもしれない。
鶴山裕司
(2018/06/27)
■ クリムト関連の本 ■
■ 鶴山裕司さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■