宝石箱の「一等地」にあるのはアクリル製の結婚指輪で、ひとつ千円だった。陽だまりに置けば光を美しく屈折させる指輪で、見城はとても気に入っている。高校生の頃に読んだ大島弓子の『バナナブレッドのプディング』という漫画にふざけた結婚シーンがあって、結婚を誓う主人公たちが「トンボの指輪」という謎の指輪を交換する。「指輪買ってきた。プラスティックだけど」というセリフがあるので、プラスティック製のようだ。おもちゃみたいな指輪で結婚するのって素敵だな、と見城はずっと憧れてきたので、夫の草市は「貯金がないせいで」とばかみたいに申し訳なさそうな顔をしたが、この指輪で結婚するとなったとき、念願が叶った見城は嬉しくてたまらなかった。とはいえ、さすがにおもちゃの指輪を社会的なシーンで身につける勇気はなく、結婚式のいわゆる交換の儀式で一度使っただけでそのあとは家から出していない。ただ、宝石箱からはときどき取り出し、なんとなく陽に当てたり、無駄に指にはめてみたりして日々楽しんでいる。
(山崎ナオコーラ「最後のストロー」)
素朴な感想だが貧乏というか、質素な生活を前提とする小説が増えたと思う。もちろん豊かさは相対的なものだ。経済的な豊かさについては上を見ても下を見てもきりがない。人の幸せと収入が必ずしも正比例しないのも言うまでもない。しかし一昔前のように、無一物の世捨て人のような生活を豊かとするような小説はエンタメ以外では見かけなくなった。純文学では「貧しい、しかし」、ではなく「貧しい、だから」の小説が増えている。どちらの場合でも「貧しい」という最初の設定をなんらかの形で変えてゆくわけである。だが「貧しい、だから」は平行移動になりがちだ。そこからの救済や抜け出し方も、現代では簡単には見つけにくい。
山崎ナオコーラさんの「最後のストロー」の主人公は見城という女性である。草市という夫がいて子供も一人いる。結婚五年目だが独身時代はそれぞれ年収二〇〇万円で、今も収入はさほど増えていないようだ。細かい話だが、一人当り手取り月収十六万七千円ほど。正社員だとすれば天引き前の給与二十万円強というところか。夫婦ともに契約社員なのかもしれない。二十代後半くらいの夫婦だろうから確かに低収入だ。
ただ小説の設定として、見城も草市も収入を増やす方向には動かない。低収入は生活の前提条件である。政府の施策を批判することもない。見城はプラスティックの指輪で結婚した際に「革命だ。これは、新しい、時代の結婚なんだ」と思い、「今後は、身なりにも生活にも金なんてかけてやるものか。金じゃない幸せを見つけてやる。金は古い。金の価値をいつまでも信じる奴はばか。服もバッグも化繊、アクセサリーも皿もプラスティック」と考えた。経済的な貧しさを越える豊かさ-「金じゃない幸せ」が、見城にとってはプラスティック製品を使うことにひとまず設定される。
特に悪者にされているのはストローだった。
ストローはリサイクルしにくいため、その存在を完全に消すべきらしい。(中略)
「可愛かったストローたち、さようなら」
見城は心の中で手を振りながら、やっぱりわくわくした。恋人と別れる間際のような高揚感だ。時限爆弾を手にしたことはないが、時限爆弾を持ったらこんな風にどきどきするのではないか、という胸の高まりだった。
ストローという小さく可愛いものの話だからか、動物の写真が心をつかむからか、プラスティック製品の派手な色合いが馴染み深いものだからか、プラスティックごみ問題に見城は引き寄せられた。
プラスティックごみをめぐる冒険が始まった。冒険といっても見城は遠くへ出かけることはないし、金もかけないので、もっぱら読書や散歩で考えごとをするだけの小さな冒険だった。
(同)
見城はオムツから食器、子供のオモチャに至るまで安価なプラスティック製品を愛用することになった。その中にストローがあった。ただストローを使うのは高価な製品を意識的に避けたからではない。実用目的である。赤ん坊の唇は母乳を吸うためにめくれあがっている。乳離れする時期になるとコップで水やジュースを飲むわけだが、まだ唇の形が定まっていない。そのためストローを使って液体を飲む練習をして、じょじょに慣れてゆくのである。
ただ見城は子供といっしょに楽しむために定期購読しはじめた「ナショナルジオグラフィック」誌で、プラスティックによる海洋汚染問題特集を読んだ。特に問題視されていたのがストローだった。海に投棄されたプラスティックは波や岩に洗われてじょじょに小さくなってゆくが消滅してしまうことはない。目に見えないほど小さくなったプラスティックはマイクロプラスティックやナノプラスティックと呼ばれ、魚の体内に蓄積されるなどの公害を引き起こしている。最もマイクロプラスティックやナノプラスティックになりやすいのが、使用後に大量廃棄される薄いストローなのだった。
見城は当然だがストローを使うのをやめる。多くの人と同じように環境問題に意識的になり、ささやかだがその解消に寄与しようとする。ただプラスティック公害問題を知った時、見城は「ペットボトルやストローを愛してきた自分も否定されている。マゾヒスティックな快感を覚えた」とある。見城は最初からどこかで、安価なプラスティック製品を使うことが「金じゃない幸せ」を得ることには寄与しないと予感している。
しかし見城はーー子育てしながら働く女性だがーー社会活動家ではない。男女の社会的役割分担や女性の社会参加についても自分なりの考えを持っているが、口には出さない。「なんとなく思っているだけ」だ。プラスティック公害問題についても同じである。彼女は問題について自分なりに調べ始める。それは「遠くへ出かけることはないし、金もかけないので、もっぱら読書や散歩で考えごとをするだけの小さな冒険」である。調べて考え、内面を豊かにすることが見城の次なる「金じゃない幸せ」ということになる。
どうも釈然としないな、と見城は首を傾げた。
この本に限らず、プラスティックごみ問題についてのインターネットや雑誌の記事を読んでいるとき、見城は教えてもらう側に立たされる感覚を覚えた。(中略)
でも、見城は革命のために「安い物に囲まれていても幸せだ。本当の豊かさというのは心の持ちようだ」と考えたのだ。本当の豊かさについてちゃんと考えた。それが間違っていたとしても、木製雑貨とプラスティック雑貨のどちらが良いか選べる経済力を持つ人から、「安易にプラスティックに飛びついたから地球が駄目になった」なんて上から目線で言われたくないな、と感じてしまう。
そして、「プラスティック製品はウーマンリブに利用された」とも見城は思った。
(同)
クリントン政権の副大統領アル・ゴアは、地球温暖化問題を取り上げた映画『不都合な真実』を作ったが、ゴアさんの家がものすごく電気を消費していることが暴露されて、それもまた『不都合な真実』だと揶揄されたのはよく知られている。
見城が気付いたように、環境問題を含む社会問題は、根本的解決を望めば望むほど上から目線になる。草の根的な市民運動が問題を提起することはあっても、国際社会がガイドラインを定め協定を結び、かつ産業界が代換品を、少なくとも今現在市場でマジョリティを占めている製品と同じ価格で提供できなければ問題は解消しない。資本主義社会の利便性は、資本主義社会を生み出したイノベーションがさらに進化しなければ解消されず、その過程で公害など新たな社会問題が現れることが多い。
また社会問題は様々な形で、様々な立場の人に利用される。「プラスティック製品はウーマンリブに利用された」というのは、プラスティック製品が主婦の家事などを楽にしたじゃないかという主張を指している。このような主張は簡単に論駁できる。少なくとも環境問題を巡る、安価な利便性とその克服に必要なさらなる技術的発展という、資本主義社会が抱える絶対矛盾の解消よりは簡単だ。資本主義社会では経済が伴わなければ問題は解消されない。
「最後のストロー」は見城という三人称を主人公にした三人称一視点小説である。しかし内容的には一人称一視点小説と同じである。「最後のストロー」に会話部分はなく、すべて主人公見城の内面描写(思考の流れの描写)だからだ。ただ主人公を「わたし」に設定してしまうと、より直接的に心理を描写しなければならなくなる。そうなると「最後のストロー」のような小説は破綻してしまうだろう。「最後のストロー」で扱われている社会的テーマは、問題提起はできても、個人では解決できないからである。どこかで適当に手を引かなければならない。
資本主義社会とは違う「本当の豊かさ」を描こうとしても、山奥で自給自足の生活を送っているとでも設定しない限りなかなか難しい。また浮世離れした山村生活では、現代的問題を提起する純文学にはならない。そして現代的問題は膨大な〝情報〟に取り巻かれている。ある立場を取れば別の立場に立つ人から批判を受け、その批判には必ずある程度の正しさがある。「わからない、何が正しく、どこに進むべきなのかわからない」。現代社会の精神をリードすべき敏感なアンテナ文化である純文学が、「わからない」と繰り返している。
大篠夏彦
■ 山崎ナオコーラさんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■