ルーマニアは正教の国であり森の国であり、ちょっと神秘を感じさせる物語の国でもある。ドイナ・チェルニカ氏は作家で翻訳家、ジャーナリストだが、小説ではなく〝物語〟作家を自任しておられる。彼女の清新な物語文学を、能楽の研究者であり演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんの本邦初翻訳でお届けします。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
第30章 息をのむようなてんかい
少女はしばらくまどぎわにしゃがんですわっていましたが、いなづまやかみなりに打たれつづけていた空気があつく、息ぐるしかったので、下におりて、すばやくもみの木にのぼりました。カメは、あつくなっていた砂丘の上にのぼり、ケシの実のような目をとおくへ、ほかの生きものには見えない空のとびらへと向けました。大きなけむりにつつまれて、火をはなつ目をしたゴン・ドラゴンも、どうくつから出て、ひるまのひかりの中ではなにも見えないコウモリたちのむれと、クモのほそい糸と毒ヘビなどでできたうずまきをつれて、世界でもっともたかい岩の上にすわりこみました。ゴン・ドラゴンですから、ほんとうはどこにいてもなんでも見えていたのですが、むかし彼にさからい、今は雨ときそいあう、きずついた心のひみつをかかえた銀狐に、彼はいろいろ考えさせられていました。いろいろななぞをなげかけられていましたから、ちゅういぶかく彼女を見つめなければならないと思ったのです。なんといっても銀狐は、彼がみとめたあらそいあいてだったのです。そう考えながら、ゴン・ドラゴンはほほえみました。すると空のとびらがきしる音がして、ちへいせんがピンと引きしまりました。その向こうでは、地球のすべての海よりも大きくておそろしい波が、空のとびらをあけようとつよく打ちつけ、森やへいや、ふちや、さばくの上にふりそそぐ雨になろうとしていました。
カメとゴン・ドラゴンは、あらしにおいだされたちょうちょうのように飛んでいる王子たちと子馬たちを見ていました。彼らは銀狐よりずっとはやくはしっていたので、かんたんに彼女をおいこしてしまったのですが、ふりむいて、銀狐がおいつくのを待っていました。銀狐はやせほそったからだで、きずついた手をぶらぶらさせ、それ以外の手足が千本のはりにさされているかのようないたみをこらえていました。イバラにしっぽを引きさかれながら、苦しいあゆみをすすめることしかできません。天の生きものにさえも気をつかおうとしないイバラやヒヨス、ジャコウアザミやとげなどが道をふさいでいました。それにうしろからネズミやガマなど、あらいふちのよごれとあくしゅうが作り上げているものも、せまっていました。ハリネズミとエメラルダ、みどりのカエル、女王バチ、そしてデデムシカタツムリは、銀狐が見えなくても、空のとびらがもちこたえるみじかい時間、そして銀狐と王子たちと子馬たちがたどりつくまでの、それよりちょっとだけながい時間を、いたいほどかんじていました。ヘビもなにも見えなくても、すべてわかっていて、夢見ているような心もちでした。流水のとば口に立っていたカワウソも、なにも見えなくてもすべてがわかっていて、あたたかく、いのちあるからだに矢がつきささったようにふるえていました。少女もボズガのおそろしいにおいとネズミたちのおもい息、銀狐をひきさく、いっぽいっぽの深いいたみ、そして空のとびらのきしる音を感じていました。少女はもみの木のえだの上に立ち、空にむかってうでをのばして、なみだをながしながらさけびました。
「ハリネズミよ、エメラルダ、カエルよ、デデムシカタツムリ、女王バチ、カワウソよ、みんな! たすけに来て!! 銀狐とアイレとイルは、みんなの助けをひつようとしているの!」
それから、もみの木にむかって、あついねがいをささやきました。
「もみの木よ、空のとびらまでわたしをつれていって!」
もみの木はすぐに根をむげんにのばし、枝をしげらせ、みきをまげて、けいこくや森、山のいただきや、へいちの上にかけた橋のようになり、とうめいですが燧石のようにがんじょうな空のとびらまでとどきました。そのとびらに、小さくてもたくましく、ちっぽけだけどゆうかんな少女は、自分のからだをじゅうじかのようにはりつけました。つぶされてもあきらめないと、けっしんしていました。それとほぼどうじに、たくさんのなかまをつれて、ハリネズミも少女とかたをあわせました。はりのついたせなかに、ハリネズミたちは小山を一つはこんできました。エメラルダをせんとうに、この星のすべてのトカゲもやってきて、彼らのうろこでとびらの前に、大きなかべをおりあげました。そこにすでに、デデムシのなかまの数千の貝がらがあつまっていました。もうひとつとびらの前では、カエルたちがかたをあわせ、からだを重ねて、せきを作りました。そのとなりに、女王バチの下にいるはたらきバチたちが、あついろうの柱を作りあげました。雨のかたまりが、いきおいをつけてふたたび空のとびらにぶつかりましたが、とびらはふるえ、少しまがってガタガタと音をたてただけで、なんとかもちこたえました。
しかし、こちらがわの虹のはしまで、まだすこし歩かなければなりません。銀狐にはすでに、虹の赤、オレンジ、きいろ、みどり、青、インディゴブルー、むらさき、そして光のオーラが見えていました。銀狐は王子たちと子馬たちとならんで虹にむかっていそいでいましたが、まるで刃ものをふんで走っているようで、血のしずくで毛がルビー色にそまっていました。うしろから、ネズミとガマのあくしゅうが、あたまのうしろの皮をはぎとるような、ねばりつく濃さで追いかけてきました。すさまじい音をひびかせながら、おしよせる雨の波が、また空のとびらに強くぶつかりました。しかしふたたびおしかえされ、怒りくるいながらあとずさりしました。しかしそのしゅんかん、少女とすべての生きものは、雨が勝利するときがちかづいているとさとりました。とおくはなれた水晶のがれきの中で、こおりのような体になっていたヴズの目が、火のようにもえていました。とおくはなれた場所にいながらも、銀狐と子どもたちによりそっていたカワウソは、高く高くとぶ泉のうえにのって、少女のところにやってきました。カワウソはひとりですが、そのからだのなかには、きよいみなぞこの、やおよろずの生きものたちの力がわいていました。カワウソはとびらにふれ、その力をとうめいなぬのじにしんとうさせて、とびらがもう一度、雨のすさまじいいきおいにたえられるよう支えました。それから、おもいおもいちんもくが広がりました。見ているみんなには、虹の橋をもくぜんにしながら、とびらをおそう水のかたまりより先には、銀狐は虹にたどりつけないこと、そしてこんどこそ、とびらはもう雨を止められないことが、わかりました。
地球でもっとも高い岩のふもとに、コウモリやクモや毒ヘビが、息をとめてはべっていました。ゴン・ドラゴンは、きょだいなけむりのわをまわりにひろげていましたが、大きな金いろの池のようなその目のうしろには、どんな考えがあるのか、だれにもわかりません。とつぜん、まわりにひどいにおいがして、ボズガがコウモリや毒ヘビやクモのすのごちゃごちゃをかきわけて、近くまできました。それでもゴン・ドラゴンは、空のとびらから目をはなしません。
「なんだ?」ふゆかいそうにゴン・ドラゴンがたずねました。
「ああ、銀狐はわたしにいじわるなことばかりしたんです。むりょくで、いつも、いつも、みんなにいじめられているかわいそうなわたしにね。しかし、あなたは全能だから、銀狐が虹のむこうへわたるのをとめなくちゃ!」ボズガがにくしみにあふれた声でブーブーと言いました。
しかしゴン・ドラゴンは、ボズガのそんざいと、そのくさったにおいを、じゅうぶんすぎるほど、がまんしてきたのだと考えました。そしてひといきにつよい息をはきました。ボズガはふきとばされ、あくしゅうのあとをのこして、地球のくさったものや、ふん、けがれなどがわきたつ、あらいふちのどろの中に落ちました。あらいふちのよごれは、ボズガをうれしそうにすいこみました。
「あら、あんなにすてきな方なのに!」ラヴリはなげくと、ふるえながら牛のふんの中にかくれました。
「ただのボズガよ!」ひどくおなかがすいていたティーネスはぶつぶつ言って、次のしゅんかんには枯れ葉のかたまり見つけて、ボズガのことをすでに忘れていました。
死のせかいのようなせいじゃくの中で、空のとびらにふたたび近づいてくる雨の山の音が聞こえました。銀狐は、虹のはしまであと三歩でした。あと二歩だったときに、雨があらたないきおいで、とびらをせめました。
そのしゅんかん、コウモリ、クモ、毒ヘビとともに、ハリネズミ、カエル、ハチ、カタツムリ、トカゲ、カワウソ、そして少女、そこにいたすべての生きものが、おどろきのあまり、その場で動けなくなるようなことが起こりました。ゴン・ドラゴンは、けむりのゆびをさしのべて、銀狐、アイレ、イル、そして赤い子馬たちが虹の橋の上にのぼるまで、そして少女とたすけにかけつけたなかまたちが、しずかにひきさるまで、とびらが開くのを待たせました。それから空のとびらがかるく開き、世界の上にいきおいよくさわやかな雨がふりだしました。
*
雨つぶの音がひびくなか、家や巣やどうくつや、いどの中で、たぐいまれなこの物語がつむぎだされました。ゴン・ドラゴンはひとりで、岩の上にながくいつづけました。雨のしずくがけむりのわにふれて、音をたてながらゆげになっていましたが、彼は気にしません。ゴン・ドラゴンは、虹の上にのぼってふたたび美しくなった銀狐がふりかえったとき、彼女が目を向けたのが、きれいで若いころの昔のヴズだったのか、それとも、もしかしたら、闇のようなじぶんのそんざいだったのか、という問いになやまされました。しかし、答えが出ないという、いとおしいいたみをかかえて、そのなぞをとくために一つの永遠が彼の前にひろがっているというくるしみを感じながら、ゴン・ドラゴンは夢を見て、何かをささやきました。太陽やもろもろの星を動かす愛について。
(第21回 最終回 了)
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