児童文学作家で翻訳家、ジャーナリストであるドイナ・チェルニカ氏の新しい物語! 森の物語であり、日本人の感性にとても近い人間と自然が一体化した物語展開がドイナさんの作品の大きな特徴です。翻訳は能楽の研究者であり、演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんです。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
・・・・・・・・・少女はまどぎわにたっていました。その日の空気はとてもとうめいだったので、はるか遠くの丘まで見わたせました。丘の上にはお日さまの光をあびて、一本の桜の木が花を咲かせていました。少女はそれが花だということをカメから聞いていました。でも桜の木はとても遠くて、少女には小さな白い火にしか見えませんでした。
「かなしいね」
「あなたたちはだあれ?」おどろいた声で少女がたずねました。「なんの話をしてるの?」
まどべに、ちゃいろの羽にがんじょうなくちばしをした、赤い小鳥たちが五羽ならんでいました。
「僕たちは兄弟で、桜の友だちなんだ。僕らがかなしいのは、さっき君がながめていた、僕らの友だちの桜の木がかなしがってるからだよ」
「どうしてかなしいの?」
「彼の実がにがいからだよ。にがい桜の木の実なんて、だれもほしがらないだろ」
「そんな! いつも、だれかが、だれかをひつようとしてるのよ!」
桜の友だちは庭のほうをふりむいて、草の中からひょっこりあらわれたカメにあいさつしました。カメが少女との話を聞いていたので、桜の友だちはよろこんでいました。カメはものしりだったのです。
「今は花でいっぱいの季節でしょ。でも香る雪のような桜の花を見にくる人はいないんだ。庭にはスイレンやアヤメ、キバナノクリンザクラやチューリップとか、美しい花がたくさん咲いているからね」口をそろえて小鳥たちが言いました。「初夏になって、枝が実で重くなる季節になってもだぁれもこない。子どもたちは果樹園で見つけた、大きくて甘い果物で、おなかをいっぱいにするのに夢中だからね。にがい実を結ぶ桜の木のために、遠い道を歩いてきてくれる人なんていないよ。僕たちの友だち、桜の木に会いにきてくれる人なんて」
少女はため息をつき、黙っていました。五羽の桜の友だちは、いっきに飛びたって空に姿をけしました。カメは目をとじて夢の中の沈黙にはいってゆきました。
目ざめたのは雨がいちどふり、またお日さまが出てからでした。桜の友だちが庭でさわいでいたので、少女はカメといっしょに外に出ました。手をつないだ男の子と女の子のまわりで小鳥たちがしきりにさえずり、飛びまわったり、すぐそばで飛びはねたりしていました。
「わたしたちは兄妹なの」妹がカメにむかって言いました。その目はせいじつで、鈴のように澄んだ声はどこまでもさわやかでした。しかし男の子には少女たちが見えず、妹の声も聞こえないようでした。どこにいるのかさえ、わかっていないようなのです。昼の明るい光は彼のやせほそった頬をすべり落ち、光り輝かせることがありません。
「病気なのかしら」少女はしんぱいそうに兄を見てたずねました。
「お兄ちゃんが元気になる方法が、なにかあるはずなんだけど!」目に涙をためて、妹がつっとカメに近よりました。
「どう、したの?」少女はつぶやきました。桜の友だちは妹のことばを聞いて静かにしていたので、庭にいたみんながその小さなつぶやきを聞きました。
「わたしたち、おばあちゃんに育てられたの。ずっとおばあちゃんに愛されて育ったのね。だからおばあちゃんが空に旅だって、にどと会えないとわかってから、しばらくは泣きつづけたの。わたしは涙から、おばあちゃんを大切に思う力をもらったわ。でもお兄ちゃんは、涙で目の中の色が流れ落ちてしまって・・・」
「生きる喜びを失ってしまったんだね。なるほど」カメはそう言うと、ケシの実のような目の中に、妹を知恵と優しさで包みこみました。
「わたしにはわからないわ」少女はため息をつき、少し前から手にしていた赤いリンゴを男の子にさしだしました。
男の子は手のひらでリンゴを受けとりましたが、なにも言わずすぐに返してしまいました。
「灰色に見えるから、食べようとしないの」妹が少女に言いました。
桜の友だちたちは、不安げに翼をはばたかせました。黒いスイレンの香りを誰が感じたいでしょう。昼間なのに、闇に包まれた庭に生える花と草を見て、誰が落ちついた気持ちでいられるでしょう。紙に木炭で描かれたような少女と鳥たちを見て、誰が喜びを感じるでしょう。色のない世界で誰が生きたいと思うでしょうか。
「お兄ちゃんが元気になる方法が、きっとあるはずなんだけど」妹は気力をふりしぼってくりかえしました。兄よりも背がひくいのに、彼を守るようにしっかり手をにぎっていました。「きっとあるはずだわ!」叫びに近い声でつづけました。「お兄ちゃんはごはんを食べず、眠れず、怒らず、喜ばず、笑わず、泣かないの! 生きていないのとおんなじだわ!」さいごのことばはあまりにも恐ろしいものだったので、ほとんど聞こえないほどでした。
少女は妹を温かく抱きしめました。男の子の手に触れると、氷のように冷たくかじかんでいました。
「さあ、君たちの友だちのところへ連れていっておくれ」カメがやさしく言うと、桜の友だちたちは、みんな嬉しそうにさえずりました。
丘の上にたどりついたのは、お日さまが空のてっぺんに登った頃でした。お日さまがもっとも輝かしく見える時間です。しかし光のように軽く、白い花で枝がいっぱいの桜の木はさらに輝いて見えました。少女と妹は、世界にこれほど美しい花があるとは夢にも思わなかったと驚きの声をあげました。カメと桜の友だちはその声を聞いてただうなずいていましたが、男の子にはそれが見えないようでした。しかし桜の木に近づくと顔をあげました。まるで思い出をよびさまされるように。
「今この瞬間の桜の木が一番美しい!」桜の友だちはうれしそうにつぶやきました。「春にこんな瞬間はたった一度だけ!」
「この男の子を見てくれないかな」カメは桜の木にやさしく話しかけました。「彼を見ておくれ。よーく見ておくれ」
桜の木はカメの言葉を聞くと、たくさんの花の目を男の子に向けました。妹は手をはなし、兄に一人に桜の木のまぶしい光をあびさせるために、いっぽさがりました。桜の木は枝を男の子のほうにのばすと、香る雪のような花で彼を包みこみました。
少女と妹と桜の友だちは息をのんで、兄が光の雪に、花びらの中にのみこまれてゆくのを見ていました。カメだけは自分の中に大事にしまっておいた古い秘密を取りだして、心をいやす美について一人で、誰にも聞こえないように何かささやいていました。
いっしゅん、一本の桜の木に世界のすべてが吸いこまれてしまったのでした。しかしすぐに実のにがい桜の木は丘の上の小さな白い火にもどり、男の子の手が妹の手の中に温かくもどってきました。
「誰かがわざわざ会いにきてくれて、その人が元気になるようすべての花をささげるのは、こんなにもすばらしいことだったのね・・・」実のにがい桜の木はほほえみました。人が大切なだれかをお祝いするための贈りものをすべて渡してしまった時のように、桜の木の枝にはもう花はありません。
「こんなにも美しい花がこの世にあるなんて、想像してなかった。夢にも思ってなかったよ!」ため息をつくように兄が言い、桜の花びらが浮かぶ空をながめました。
すでに葉っぱが出はじめた枝で、桜の木は友だちたちにさようならと手をふりました。カメと少女、兄と妹、そして桜の友だちは、心をこめて桜の木とあいさつをかわしてからお家にかえりはじめました。男の子はまわりのものを思うぞんぶん見て楽しむために、来た時よりもゆっくり歩きました。空の青さやリンゴの味、ライラックの花の香り、小鳥たちのさえずりなどを心ゆくまで楽しみました。彼も桜の木も、生きる喜びを新しく感じたのです。
「感謝のことばもないわ・・・とても、とっても幸せよ!」妹が別れる際に友だちに言いました。近くを飛んでいたいっぴきの青いチョウチョをしばらく見つめていた兄も、友だちのところに戻り嬉しそうに笑いました。
少女は何も言わず妹をただ温かくだきしめました。
「でも急がなきゃ!」妹は兄の手をとりました。「ほっぺたに一粒の雨を感じたのよ」
妹も兄も大事なことに気づき、ハッと目を空にむけました。桜の花の光につつまれたおばあさんが、すべての命の形と色で、空から温かくほほえんでいました。
ダニー・ザルネスク作『兄と妹』
(了)
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