ルーマニアは正教の国であり森の国であり、ちょっと神秘を感じさせる物語の国でもある。ドイナ・チェルニカ氏は作家で翻訳家、ジャーナリストだが、小説ではなく〝物語〟作家を自任しておられる。彼女の清新な物語文学を、能楽の研究者であり演劇批評家でもあるラモーナ・ツァラヌさんの本邦初翻訳でお届けします。
by ドイナ・チェルニカ Doina Cernica著
ラモーナ・ツァラヌ Ramona Taranu訳
第28章 ヒナゲシのあとをつける
「わたしたち、おそかったかな?」ておくれになってしまうのをしんぱいして、アイレはききました。
「ぜんぜん」ふたりをおちつかせるように、少女がいいました。まぶたがおもくなって、いっしゅんだけとじていた目をひらきました。たしかいっしゅんだけでした。
「いそがないと!」ハリネズミがみんなに声をかけました。「ヒナゲシはあと三りんしかみえないんだよ」
ヒナゲシのむこうには、ぎんいろのひかりがみえていました。
「イル、おかあさんだよ! おかあさん!」森をつつんでいたジャスミンのかおりをふかくすいこみながら、アイレはよろこびでさけび、王子と少女とハリネズミといっしょにはしりだしました。子馬たちは赤いたてがみを風になびかせて、銀狐のほうへとんでいきました。
銀狐は、血のさいごのいってきがかたまっていたきずついた手をぶらさげて、みるかげもなくやせほそってしまいましたが、まだ美しく、ほこらしげにたっていました。子どもたちがちかくにいるのを感じ、ふりかえると足をとめて、彼らをまちました。そしてなみだをひとつぶながし、むごんで子どもたちをやさしく、あたたかくだきしめました。
銀狐と子どもたちをみながら、エメラルダとみどり色のカエルは感動して、不安な気もちをすこしだけまぎらわしました。ラヴリとティーネスも、するどい目つきで彼らをみていました。ラヴリは、銀狐たちが水晶のタワーにちかづいてしまったことにイライラして、ボズガのたくらみが失敗してしまうのでは、とおそれていました。ティーネスは、あちこちとびまわっているのに、なかなか食べものがでてこないことに、あきれていました。もしハエがいっているように、ボズガのひどいあくしゅうが、だれかれかまわずころしてしまうなら、はなしはべつなんですけどね。
「わたしたちにできることは、ほんとうになにもないかな?」みどり色のカエルは手をもみながら、もみの木のむこうにあるタワーへむかってゆく、銀狐のくるしいあゆみをみていました。
「ないね」エメラルダがおちこんだ声でいいました。「ただ、ヴズがね…」
「それはなさそうね」みどり色のカエルがかなしくため息をつきました。「あのやりとりをきいてからは、信じられないね。ヴズはボズガの力に、しはいされているんだ」
「そのあくしゅうにもよ」エメラルダがひにくにつけくわえました。
「もっとちかくにきてよ」ラヴリはガのティーネスをよびました。「これからおこることを、みのがさないように」
「みのがすなんてないよ」ティーネスはふきげんそうにハエについていきました。「けどさ、ぼくらはなにをもらうのか、しりたいんだよ。あとさ、おねがいだから、もうブーンっていう音をやめてよ。ボズガのひどいにおいだけで、じゅうぶんだから」
「ブーンじゃなくて、歌!」ラヴリはいいかえしましたが、ガにおこるひまはありません。
「わかった、わかった。きみはうたひめで、ボズガは美しさとじゅんすいさそのものだ」ガはうんざりして、ふざけたくちょうでラヴリにいいました。
タワーのまわりでおきていることがよくみえるように、ティーネスはハエとかたをよせあいました。かれらがみていたのは、タワーのてっぺんに火のようにもえあがる銀狐のしんぞう、それをギロリとにらんで、くいしばった歯を、かなしそうにヴズにみせつけているボズガ、そしてそのボズガをきいろい目で、よだれをたらしながらみているヴズでした。
「何がほしいか、おしえてくれ」ヴズがボズガにききました。
「あなただけよ」ボズガはうれしそうに、ブーブーとこたえました。「あとね、あのタワーのてっぺんにあるしんぞうを、おろしてほしいの。これでわたしも安心して、しわせになれる。強くて、あたまがよくて、そしてこんなにも若々しいあなたなら、いっかいジャンプしただけで、あのしんぞうまでとどいて、うちおとせるよ。きっとできるよ、いっかいジャンプしただけで」
「くちさきで、まるめこんでるね」ガのティーネスがぶつぶついいました。
「彼をおうえんしてるだけだよ」ラヴリのブーンという声が、うっとりとひびきました。
「こわいよ」みどり色のカエルはため息をつきました。
「はきけがするよ」エメラルダはくらい気もちになっていました。
銀狐はなにもいわず、そこにたっていました。きずついた手をぶらさげ、なにがおきているのか、りかいできないあのおおきな目で、ヴズをみていました。彼女のうしろで王子たち、少女、ハリネズミと子馬たちは、息をのみました。ボズガのくさったにおいにつつまれながら、オオカミはジャスミンの香りをかんじました。しかしふりかえりませんでした。たてがみをふりたて、まぶたを半分おろして、とっくにすぎさった季節のいきおいで、タワーのてっぺんにむかってジャンプしました。てっぺんにあったしんぞうは、きょうふで光をけし、こむぎばたけの中にまよいこんだ、ちいさなヒナゲシのようにみえました。
「だめ!」少女とハリネズミ、エメラルダとカエルは目をとじました。
「だめよ!」花たちは地面にたおれました。
「だめだってば!」もみの木はもがいていました。
ヴズはあたまで、そのちいさな火をつよくうちました。あまりのまんぞくかんで、くるったようになったボズガは、牙のノコギリをみせ、あくしゅうのうずをまきおこしながら、ひづめをドンドンふみならしました。地上におりてくるふしぎな赤い花をつかんで、けがして、つぶそうとしました。しかしそれまでこおりついていた王子たちと子馬たちは、しゅんかん、かがやかしいくもにつつまれて立ち上がり、彼らのからだを杯のようにして、銀狐のしんぞうをうけとめました。それから、こんらんしていたヴズと、なにもできず、怒りでにえくりかえっていたボズガの目のまえで、銀狐にちかづき、彼女を光でつつみこみながらしんぞうをかえしました。ハエのラヴリはいやそうに歯をカチカチならし、おなかがすいていたガのティーネスは、つばをのみこみました。少女とハリネズミ、エメラルダとみどり色のカエルは、ほっとあんしんのため息をつきました。もみの木のこずえがさらさらとなり、花ははなびらをひらき、そして草は、タワーがほうかいした時に、しずかにくずれた水晶のはしらをまとい、そのひょうめんをやさしくなでました。
そのとき、わなの歯からのがれるために、じぶんの手のにくとほねをかじり、血をながしながら弱っていたからだで、いちどもなげかず、泣かずに長い道をあるいてきた銀狐は、はじめてさけびました。そのさけびはあまりにもつらく、ひきさかれるような、今までにないようなさけびでした。空が夜になり、岩がすさまじい音をたててくずれました。ヘビはいきなりさむさをかんじ、ゴン・ドラゴンさえふるえました。そして王子たちは、うまれてはじめて、なみだをながしました。
第29章 雨に迫られて
カメはケシの実のような目で、おおらかに、やさしくみんなをみつめていました。銀狐は、ぜんしんから力がぬけたようにみえました。少女はつかれきっていましたし、アイレ、イル、そして赤いたてがみの子馬たちは、悲しそうにみえました。
「ハリネズミ、エメラルダ、みどりのカエルに別れをつげました。わたしたちはここからたちますが、カワウソ、デデムシカタツムリ、女王バチはここにのこります。そしてあなたもね」アイレがいい、少女のあたたかい手をそよ風のようなゆびで、にぎりました。少女は何もいわず、やさしくアイレの手をにぎりかえしました。
「別れはとてもつらい」なにかをふかくかんがえながら、はてしない理解と愛の目で銀狐をみつめながら、カメがいいました。銀狐のことをしんぱいしていました。やっとしゅっけつがとまった、手先のないかわいそうなうでのためではなく、やせほそったその体のためでも、かがやきをうしなったその毛のためでもありません。カメのしんぱいは、なにもみたくないような、光をうしなったその目、そしてどこへむかうのか、なんのためにすすめばいいのか、もうわからなくなってしまったような、ぼうぜんとしたその視線にありました。
「アイレとイルは、虹のむこうのどの生きものよりも、ゆたかなんだよ」カメがいい、銀狐の目をまっすぐにみようとしました。「ふたりはいまや、ボズガのおそろしいにおいをしっているけど、少女のかれらにたいする友じょうも知っているの。ネズミたちの毒のような息をかんじたけど、流水のとば口からやってきた、カワウソの心もかんじた。はちみつをあじわったことがあるし、泣いたこともあるの」
銀狐はきこえないようすでしたが、じつはきいていました。
「じぶんじしんが、よりゆたかなんだよ」にがいかなしみのうちに、銀狐がいいました。
「そうよ」カメがささやきました。それから「ときどき、このよのすべての知恵は、きずついた心をまえに、かんぜんにむりょくになるんだ」とひとりごとをいいました。
とつぜん、子馬たちのたてがみが火のようにさかだち、とおくからドーンという音がひびきました。じゃりがするどい音をたて、すながとび、いっしゅんみんな、なにもみえなくなりました。銀狐は、まるでふかいねむりから目ざめたように、カメにむかいました。
「雨がふってきそう!」
「そう、虹にむかっていそぎなさい」カメがいい、おちついたきもちでいられるよう、うながしました。虹までの道のりはあんなにながかったのに、あらしがちかづいていました。
(第20回 了)
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* 『少女と銀狐』は毎月11日に更新されます。
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