妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
ヨリを戻そうと近所へ引っ越してきた元部下に、自らの良好な家族関係を突きつけて復縁の可能性が皆無であることを理解させたい――。
そんなヤジマーのプランを聞きながら考えていたことは、きっとマキは嫌がるだろうなということだ。いや、正確には「どうすれば嫌がるマキを説得できるだろうか」。俺はその時点から前のめりだったというわけだ。
トミタさんの娘の引っ越し話とか、どこかでコケモモのこととか、そういえば永子と遠出をするのはいつ振りだろうとか理由は様々でひとつには絞れない。これが奈良方面ではなく北海道だったら? と考えても気持ちは変わらず前のめりだったので、俺は単純に旅行がしたいだけかもしれない。
「……まあでもぶっ飛んだ話だからなあ、やっぱり難しいよなあ……」
色々考え過ぎてヤジマーを置き去りにしてしまった。これでは話が流れてしまう。
「いやいや、そりゃワケ分かんないけど何とかしないとヤバいんだろ?」
「うん、相当な。ほら、前も言ったけどさ、この件で俺はこっちに飛ばされたけど、ミホコは真相を知らないし、それは会社側が色々やってくれたおかげなんだよ」
「そうだろうなあ」
「だからもしバレるとしたらさ、それは今の話じゃなくて、隠し続けた昔っからの話になるのよ」
考えるまでもなく摘みたてホヤホヤより、熟成されている方がダメージはデカい。そう言って同意すると「あいつの性格、分かるだろ?」とヤジマーはため息をついた。正直なところ、御学友だったミホコの性格は思い出せない。たしかに一度寝たことはあるが、そのせいでそれ以外の当時の記憶が追いやられている。
「じゃあ今回、その元部下のせいで諸々バレると……」
「最悪ダブルだな」
「え?」
「だから、クビと離婚のダブル」
親権も無理だろうな、と追い討ちをかけるのはさすがにやめた。ヤジマーの子どもは永子より少し年上。来年辺り小学校へ入るはずだ。替え玉として永子は小さすぎる気もするがどうだろう?
とりあえず誰にも相談せずに一晩考えてみた。大前提として俺は乗り気だ。そんな俺の前に立ちはだかる問題はいくつかあるが、手強そうなヤツはどうやら三つ。こいつらを倒せば、あとは何とでもなる。
ひとつは言うまでもなくマキの倫理や正義。招待の理由は不倫の後始末で、交換条件は家族の貸し出し。まあ常識的に考えても嫌がる人は多いだろう。唯一の希望はあいつが京都へ行きたがっていること。この一点をどこまで広げられるか、もう少し考える必要がある。
そして二つめの難敵は時間だ。ヤジマーと話している最中、何となく行くなら夏、盆休みかなと考えていた。母親の入院でバタバタして忘れかけていたが、大型連休はもう来週後半からスタートする。となれば夏の話だと思うのは至極真っ当なはずだが、あいつは「いや、そうじゃなくてさ」と遠慮がちに異を唱えた。こういう時は第一希望を聞くのが早い。

「たとえばゴールデンウィークっていうのは……」
「無理無理」
想定外の無茶振りを即却下して、現実的な落とし所を検討した結果、早くても五月下旬か六月初旬と伝えておいた。そこで現れたのが最後の難敵だ。
「そっか、奥さん外で働いてるんだよな」
そう呟いたヤジマーは続けて「娘ちゃん、まだ幼稚園とか保育園行ってないんだろ?」と尋ね、「うん」と答えると「だよなあ」と残念そうな声を上げた。あれは多分「惜しいよなあ」、即ち「奥さんも店で一緒に働いているなら、さくっと休めたのに惜しいよなあ」という意味だろう。察するに、あいつの想定している招待枠は大人二名プラス子ども一名の計三名。俺の想定はそこに両親とリッちゃんも入るから計六名。ダブルスコアだ。この差も何とかしなければならない。
きっと順序としては、二つめと三つめをクリア、「一ヶ月後に六人で京都行き」と体制を整えてから一つめに挑むのがベスト。まずは話しやすいトダに、旅行中のヘルプを頼むことから始めよう。
好立地に構えるチェーン店ならいざ知らず、こういう地元密着型、ご近所頼み系喫茶店の大型連休は毎年暇だ。ただ今年は年配の常連さんが句会の集まりで使ってくれたり、雑誌掲載の恩恵らしき初来店組もちらほらいたので、大きく持ち崩すことはなかった。
「写真を撮ってネットにアップしてもいいですか?」という未知の質問も何度か受けたが、あらかじめトダから解答例を教わっていたので慌てずに済んだ。
「他のお客様のご迷惑にならなければ構いませんよ。あと私は大丈夫ですが、他のスタッフの撮影はご勘弁願います」
事前に訊いてくるだけあって、みんな聞き分けがよく礼儀正しかった。それでもトダからは、店内かメニューに撮影に関しての注意事項を書いておけと言われている。「もう今はそういう時代だからな」と肩をすくめて警告してくれた。
特に心配していたのは、まだ義務教育中のリッちゃんのこと。たしかにこの世の中にはヤバい奴がうじゃうじゃいて、大半の連中は外見だけではなかなか判断できない。雑誌に掲載されたリッちゃんの写真は、城山さんの配慮からか顔については格好よくボカしてあり、そのせいか学校では無反応だったらしい。
「ちょっと肩透かしだった?」
そうからかうと、「うん、本当にちょっとだけね」と笑っていた。何というか、頼もしいなと思う。
実は連休に入る前、リッちゃんは家に帰らなくていいのかとマキに訊こうとしたがやめておいた。その結果、特に何かを確認することもなく彼女はいつも通りに店を手伝い、時折り隅っこの席で父親から数学を教わっていた。父親曰く「質問の内容が的外れではなくなってきたので、もう少しの辛抱だ」とのこと。そっちの面でも頼もしい。

そして連休の最終日、俺はヤジマーに招待枠の拡大を打診してみた。さすがに三名から六名なので即答することはなかったが、母親の入院と手術を効果的にちらつかせて情に訴えつつ、このタイミングで留守番を頼むのは難しいと告げた。
もし招待枠が広がらなくても六名で、とは思っているが、マキを説得するには招待枠の力がある程度必要だ。彼女はいつでも店の売り上げを確認できるし、つまり今年は去年よりも数字が良くないことを分かっている。
両親に関しては当然母親がメイン。母親が大丈夫なら父親も大丈夫と踏んでまずは兄貴に相談を持ちかけた。そもそも体調的に旅行自体が大丈夫か否か、また例の「経過観察」とスケジュール的に重ならないか等々。病院の返事待ちになるから遅れるかも、と言っていたけれど連絡が来たのは連休が明けてすぐ。担当医曰く、本人がキツくなるような無茶をしない限り特に問題はないとのこと。
「久々の旅行だと思うから、多少のワガママは聞いてやれよ。何なら足りない分は払ってやるぞ」
そうまで言われると事の顛末は伝えづらく、やはり両親については招待枠に頼らず、贅沢してもらってもいいかなという気になる。そんな心持ちのまま、良い返事がなければ現状の「三名のみ招待」プラス自腹、と覚悟して臨んだヤジマーとの電話会談。あいつから提案されたのは八名まで利用可能という会社の保養施設だった。言われるがままに一旦電話を切りネットで確認すると、変な言い方だが「普通の」高級温泉宿で会社の施設という感じはゼロ。おお、と思わず声が出る。
「見た見た。見たけどさ、あれ、本当に泊まれるのか?」
「もちろん。文句ないだろ?」
「そりゃないよ。温泉までついてさ」
「ただひとつ条件があって……」
聞けば使える日程が決まっているというが、それも土・日を含んでいたので問題ナシ。頭の中のプラン通り、リッちゃんが学校を休むのは金曜か月曜の一日だけで済む。これで準備万端。今度は俺が待ってもらう番だ。
「遅くとも一週間以内には連絡するから」
「了解。でも奥さん、相当嫌がりそうなんだろ?」
不倫の後始末と、家族の貸し出し。マキに限らず、その組み合わせで喜ぶヤツはいないことを説明してから電話を切った。さあ、あとはマキを説得するだけだ。ラスボス、なんて言葉が浮かんだことは内緒にしておこう。
二度、同じ夢を見た。ラスボス、もといマキへの説得を試みようとしてから二晩続けて、だ。
内容は至ってシンプル。大した理由もなく支持していた意見が原因でマキと口論になり、じわじわと詰められ最後は観念するだけの夢。夢、というより記憶に近いかもしれない。結婚前、同じような状況を何度か経験している。夢の中では俺も、そしてマキも若かった。あの物怖じせずにズカズカと斬り込むスタイルが健在なら、きっと俺が見たのは正夢だ。
果たして「御家族六名様御招待」の効力はどれほどのものなのか。いまいち自信が持てないまま、ベストなタイミングを俺は探っていた。
そしてついさっき、その時が来た。店の忙しさが落ち着いてきた午後二時半頃、俺は昼休憩を取るため自宅スペースへと引っ込んだ。今日はマキが一日中店にいるのでトダは休み。リッちゃんが帰ってくるまでは、ヤジマーが最初に想定した招待枠の三名で家族水いらずだ。
少し前にマキと一緒に昼飯を済ませた永子は、テーブルに頬をぺたりとつけたままテレビを眺めていた。
「それだとテレビ見づらいだろ?」
「そうかなあ」
「うん、多分見づらいよ」
「ふふふ」
可愛いヤツめ、と頭を撫でてやろうと近寄ったその時、永子はテレビの音声に合わせてメロディーを口ずさんだ。流れているのは保険のコマーシャルだろうか、最後は綺麗な顔の女優さんが「家族はワンチーム」とにこやかに笑った。
「今の歌、好きなのか?」
「うん。だって、おねえちゃんもすきなんだよ」
「リッちゃんも?」
「うん。そういってた」
家族はワンチーム、か。永子の柔らかい髪の毛をゆっくり撫でながら、マキに話すなら今だと思った。ちょうど客はいない。もちろん営業中だから修羅場にはならないだろうという、大人のズル賢い読みもある。
「ちょっと一回店に戻るな」
そう告げた俺の声色に感じるものがあったのか、永子は頬をテーブルにつけたまま「うん、がんばってね」と父親を送り出した。

(第47回 了)
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