妻が妊娠した。夫の方には、男の方にはさしたる驚きも感慨もない。ただ人生の重大事であり岐路にさしかかっているのも確か。さて、男はどうすればいいのか? どう振る舞えばいいのか、自分は変化のない日常をどう続ければいいのか? ・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家寅間心閑の連載小説第5弾!。
by 金魚屋編集部
客のいない店内で、マキはテーブルを拭きながら、紙ナプキンを補充していた。 あのさ、と声をかけると「何?」と応じてくるだろう。つまり、すぐ本題に入らなければならない。それはちょっとなあと躊躇した結果、昼休憩を取らずにすぐ戻ってきたヤツになってしまった。無論それはそれで訊かれる。
「ん? 何?」
「ああ、うん……、まあね」
亭主の行動にピンとくるものがあったらしく、マキは作業を途中でやめてカウンターの裏へ戻ってきた。
「何? 何かあったの?」
以心伝心といえば聞こえはいいが、こんな風に当たり前みたいな感じで来られると、実は隠しているつもりのアレコレを全部知っているのではないかと疑いたくもなる。当然アレコレにコケモモのことは含まれているし、これから話したいのは彼女が住む京都へ行く件だ。
「うん、京都の話なんだけどさ」
「え? キョートってあの京都?」
「そうそう。実はヤジマーが家族全員を招待してくれるって話があるんだ」
「招待?」
「うん。宿代はナシ。温泉付きのちゃんとしたところ」
「いや、すごいけど、何で?」
ここからが肝心なところ、と密かに力んだ瞬間、客が入ってきた。常連の句会のメンバーから三名。「いらっしゃいませ」とマキはお盆を手に取り、俺は肩の力を抜きながら安堵した。この隙に話を最終調整しなければ。注文の品を提供するまでの数分で頭を回転させる。ここを乗り切れば何とかなるぞ。そう言い聞かせながら淹れたコーヒーは、きっと苦みが強いだろう。
「で、タダの温泉宿って何でなのよ?」
句会の集まりだからといって俳句を詠むわけではないので、店内は静かだ。いつも通り有線のクラシックが流れるだけ。そんな中、俺は細心の注意を払いながら「何故ヤジマーが御招待してくれるのか」をマキに告げた。ペースを乱さないため横顔は見ないようにした。
「……っていう、まあちょっとぶっ飛んだ話なんだよね」
「……」
六十代後半くらいに見える客たちがコーヒーを飲む姿を見ながら、俺はマキの言葉を待った。怒られても仕方ないよな、と諦めながら待つのは辛くて情けない。

「……うん、悪くないよね」
え、という声は辛うじて堪えたが、思わず横顔を凝視してしまった。まったく予想外の一言だ。
「でもお義母さん、大丈夫なのかな?」
「ああ、うん、一応兄貴に訊いたけど大丈夫だって」
「じゃあ悪くないっていうか、良い話だよね」
良くも悪くもオトナになったんだろうか、と思いながら「だよな」と短く相槌を打つ。昔のマキなら、勢いよく異議を唱えただろう。俺は何か大事なサインを見落としているような気がして、自分からアラを掘り起こしてみた。
「まあ、ヤジマーに協力をするっていうのが心底面倒くさいけどな」
「うん、でも結果オーライならいいんじゃない?」
やっぱりオトナになったのか、と思ったが少し俺の考えとは違ったらしく、マキは「その女の人がね」と付け加えた。
「だって、絶対無理じゃん? うまくいかないの確定でしょ、彼女」
「まあ、そうだな」
「じゃあ無理だって分かった方が絶対いいよ」
そっちの方向から見ていたのか、と感心していると「あとね」とマキが笑った。
「ん?」
「私、中学の時、演劇部だったのよ」
「え? そうだったっけ? あれ……?」
「うん。半年くらいでやめたから、言ったことないと思う。正確には英語劇部なんだけど」
当日は日本語で頼むよ、と軽口を叩くとマキに「ねえ」と腕を叩かれた。
「私さ、殺されないよね? 彼女に」
「いや、ちゃんと近くにいるようにするから」
そう答えたものの、その可能性を考えなかったことに俺は落ち込んだ。表情にも出ていたらしく、二階へ戻ると永子から再び「がんばってね」と励まされてしまった。
夜、店を閉めてから、近所をぶらぶら歩きつつヤジマーに電話をかけた。目的は「マキが危険な目に遭う可能性」の確認。今日のことは今日のうちに、だ。こんなこと、学生の頃に言われても面倒くさいだけだったが、今は違う。店の掃除でも
人付き合いでも次の日に持ち越すのは本当にダメだ。何ひとつ良いことはない。
俺はヤジマーに「殺されたりしないよな?」とわざと直球を投げてみた。捕りやすいようにと気遣ったつもりだ。だけどあいつは「ちょっと勘弁してくれよ」と笑い飛ばした。
「だってお前、もしかしたら彼女が逆上するかもしれないだろ?」
「いや、あまり距離が近いのも変だし、何よりボロが出そうだろ? だからさ……」
ヤジマーの計画によると、元不倫相手の彼女と対峙するのは自分だけ。妻と子どもは別の席だという。
「ん? どういうこと? 家族の仲の良さを見せつけるんだろ?」
「それはそうだけど、別に至近距離じゃなくてもいいだろ」
「?」
流れとしては、ヤジマーが家族といるところに元不倫相手が会社の部下として登場。まあ、あながち嘘ではない。

「ああ、団らんの途中にちょっと部下が来て仕事の話をするって感じ?」
「そうそう。だから変に近付くことはないんだよ」
今のところ落ち合う場所はホテルのラウンジを考えているという。事情が事情なだけに、なるべくオープンな場所がいい、という判断には俺も賛成だ。
「お前が家族を連れてくること、向こうは知ってんだろ?」
「もちろん」
「あのさ、例えばその家族席の近くに俺が座ってても問題ないかな?」
「ん? ああ、もちろん。セキュリティーは厳重な方がいいもんな? あいつ、そういう女じゃないと思うけど、まあこればっかりはな……」
電話を切る間際に「なんか怖い想いをさせて悪かったって、奥さんに謝っといてくれよ」とヤジマーに言われた。今更ながらイビツな話だと再確認する。元々ひん曲がっているから、筋を通そうとするとどこかが傷む。
寝る前、布団の上でストレッチをしているマキに、会うのはホテルのラウンジだと伝えた。多分そういう場所がいいよねえ、と呟いてから数十秒後、器用に身体を折り畳みながら「知らぬが仏だもんね、本当に」と口にした。いちいちドキッとする自分が情けないが、まあ仕方ない。きっと自分が騙す女のことを考えているはずだ。
「じゃ、そろそろ寝るわ」
「あれだね、明日からちょっとずつ旅行の準備始めないとね」
すんなりとはいかなかったが、ラスボスと目していたマキが乗り気になったのは有難い。思ったより疲れていたらしく、目を閉じて数秒で俺は眠りに落ちていた。
驚くことに結構なスピードで京都行きの日は近づいてきた。夏休みの始まりでもデートの約束でも、昔、楽しみにしている予定はなかなか来なかったはずだが、今回は本当に早い。「大人になったからよ」とマキは決めつけ、「実はあまり楽しみじゃないんだろ?」とトダは笑っていた。
たしかに兄貴のおかげで両親の準備について俺がやることはほとんどなく、またリッちゃんが学校を一日休むことも面倒ではなかった。とんとん拍子だ。京都に着いてからの移動手段やスケジュールは、そのリッちゃんが全部調べてくれたし、母親が行きたいというお寺についても綺麗にまとめてくれた。ちょっと呆気ないんだよなあ、と永子に訴えたのは出発の四日前の夜。「そんな贅沢言ってちゃバチ当たるわよ」というマキの言葉が、現実味を帯びてきたのは翌日の午前中だった。
「ちょっと私、ヤバいかも」
開店して一時間も経たない店内で、体調不良を訴えたマキはすぐに病院でインフルエンザの検査を受け「陽性」判定。俺の代わりにバチが当たった、と思ったことは内緒だ。この時点で店は臨時休業。慌てて他のみんなも病院に行き、二回判定を受けた結果、全員「陰性」。マキ抜きで京都へ行くのは気が咎めるが、「うつしたくないから行ってきてよ」という気丈な言葉でどうにか決心がついた。これが出発二日前の午後六時。
さあ、こうなると一番ピンチになるのはヤジマーだ。肝心の奥さん役がいなくなってしまった。ひとりで考えても仕方ないので、とりあえず電話をかける。このタイミングの連絡に感じるものがあったのだろう、あいつの第一声は「どうした? 何かあったか?」だった。こちらの状況を知り絶句状態のヤジマーに、俺が出したアイデアは「娘ひとりで乗り切る」というシンプルなもの。相手の女性に「今、奥さんはインフルエンザ発症中」と正直に、というかリアルに伝え、後は当初の計画通りに進める。

「どうだ? 永子と二人でも家族円満の雰囲気は出せるだろ?」
申し訳なさの裏返しで強めに言い張ってみたが、ヤジマーは「うーん」と繰り返すばかり。最後は「俺ももう少し考えてみるから」と押し切るしかなかった。
そのヤジマーに連絡をしたのは翌日、つまり出発前日の昼間だ。たいしたアイデアは浮かんでいないが、せめて「明日よろしくな」と一言かけておきたい。そんな身勝手な俺に、あいつは「まあ、何とかなるかな」と少し明るい声を聞かせてくれた。それだけではない。「こっちは明日、いい天気だって」と明るい話題まで提供してくれた。正に持つべきものは、というヤツだ。
そんな親友の言葉どおり、久々の京都は天気に恵まれていた。東京よりも僅かに暑かったが、それも心地よい風が中和してくれる。京都を満喫したいからという母親の意見に従って、新幹線の時間は午前八時。向かい合わせにした席に座って、窓の外の景色に夢中な永子を見ながら、俺は今回の旅の目的である夕方の予定――ヤジマーと元不倫相手の話し合いを少し疎ましく思っていた。本当に罰当たりだ。
京都駅の近くで豆腐料理のランチセットを食べ、いくつかのお寺を見た後、地下鉄を乗り継いで温泉付きの宿まで。別に豆腐も寺も好きではないが心地よい時間だった。それだけにメインの目的が疎ましい。両親のことをリッちゃんに頼み、永子と手をつないで京都駅に戻ってきたのが午後四時。ヤジマーはまだ来ていなかった。少し眠そうな永子を抱きかかえた瞬間、後ろから聞き覚えのある声がした。
「よお、奇遇だね」
永子の重さを腕に感じたまま振り返る。いや、誰なのかは声を聞いた瞬間に分かっていた。コケモモだ。静かに身体が引き裂かれる。俺は大学生で、永子の父親。思わず腕に力が入り「あっ」と甲高い声がした。
そう告げた俺の声色に感じるものがあったのか、永子は頬をテーブルにつけたまま「うん、がんばってね」と父親を送り出した。
(第48回 了)
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*『オトコは遅々として』は毎月07日にアップされます。
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