二〇一八年二月二十日に九十八歳でお亡くなりになった金子兜太さんの追悼特集が組まれている。相当なページ数を割いた本格的特集だ。では金子さんはそんなに偉いのか。偉いのである。芭蕉や蕪村、子規や虚子のように、百年後も氏の俳句が語り継がれるかどうかはその時になってみなければわからないが、少なくとも戦後俳句における巨人である。
金子さんは前衛俳人だった。その一方で新たな文脈の伝統俳人でもあった。前衛の節を折って伝統俳句に迎合したとは言えない。最初から俳句は前衛表現だけでは済まないという考えがあった。ただ少しでも前衛の素振りを見せれば俳壇で冷や飯食いになるのは知れている。それを掻い潜るだけの高い政治性を持った俳人でもあった。
一九六〇年代から七〇年代の俳句の世界で、若い俳人たちの心を捉えていたのは金子さんの「海程」と高柳重信の「俳句評論」だった。いずれも前衛系句誌と考えられていたが、ほとんど踏み絵のように若手俳人たちは「海程」か「俳句評論」のいずれかを選んだ。「俳句評論」を選んだ俳人のほとんどが、重信の死を契機としてあからさまに俳壇冷や飯食いになったのは衆知の通りである。一方で「海程」に拠った俳人たちは、メディアの俳句欄選者や賞の選考委員など、俳句界で日の当たる場所を歩んでいった。それはなぜなのかは単なる俳壇政治を越えて、論じてみる価値のある問題である。
金子さんは正しかったとも言えるし、俳句前衛が冷や飯食いになるのは必然だった――つまり俳壇少数派であることを引き受けた意義もまた明らかになるだろう。いずれにせよ戦後俳句最大の分岐点が六〇年代から七〇年代の前衛の時代にあったのは確かである。綿々と続く俳句の王道である有季定型花鳥風月的俳句の流れを除けば、戦後前衛俳句の諸相が今に至るまで現代俳句の特徴となっている。
また金子さんの九十八歳というご長寿も、現代の俳人たちは立ち止まって考えてみるべきである。二〇一四年に金子さんが『わたしはどうも死ぬ気がしない』という著書を出版された時、タイトルを見て思わず笑ってしまった。金子さんくらいのお年にならなければわからない感慨だということは重々承知している。ただ人が『どうも死ぬ気がしない』といった感慨を洩らすようになったのは最近のことだと思う。聖路加病院で最晩年まで診療を続け、百五歳でお亡くなりになった日野原重明さんや、金子さんらが初めてではなかろうか。医療の進歩が人間の寿命を延ばしている。
金子さんは死去の前に主宰誌「海程」の終刊を宣言されたが、それはさすがにもう保たないとお感じになったのが理由だったと思う。実際最晩年まで金子さんは旺盛に句作を続け、衰えたという感じがしなかった。若者ほどビビッドではないが、新しい社会事象にも敏感に反応なさった。その姿勢は、かつてのような〝晩年〟とは質が違う。
人間亡くなる時には必ず病名が付くわけで、金子さんの場合は急性呼吸窮迫症候群である。ただそれは、高齢になった人間の身体がその働きを止めたことを示す病名に過ぎないのではなかろうか。金子さんくらいの年齢になると「死ぬ気がしない」と思うほど元気な時もあり、「ああ、こりゃもう身体が保たんな」と実感することもあるようだ。もちろん大病をしてじょじょに心身が衰えてゆく人も多い。しかしとりたてて大きな持病のなかった人は、言ってみれば死期を悟るということがあるようだ。これは現代以外の人間があまり経験したことのないことだろう。
ちょっと乱暴な言い方だが、金子さんにはわたしたちが高齢の作家に期待するような晩年がなかった。心身の衰弱が生む作品が、時に魅力を放つことは文学史の至るところで見られる。しかし金子さんにはほぼそれがない。ハタリと肉体の活動が止まり、それと同時に精神活動が止まったような印象だ。これは現代人が初めて経験する現象の一つだろう。現代作家は意図的に晩年を演出しなければならなくなるかもしれない。
第一、約束事として使い始めると、かえって堅苦しくなってしまう。季語が自由でなくなる。虚子は本来、「季語」を自由な詩の言葉として考えていたんだと思う。使った方がいい俳句ができますよと。その辺を誤解しないようにしてもらいたいね。
「切れ」は長年の経験から言って非常に効果的です。俳句のような短い詩の場合は特にね。「や」「かな」が大手を振って使われている詩は俳句くらいのもんでしょう。ただし、詠嘆の意味だけで使うのではなく、もっと自由な使い方ができるはず。そこは見誤らないで欲しい。
自分の頭の中に「ねばならない」と設けなければ句が作れないという人が案外多いんじゃないかな。それは勿体ないね。もっと自由にやってください。自由にやっているうちに切れの効いた、詩の形式に妙に収まる瞬間があるんです。それを体感できるようになるはず。日本の定型詩は本来そういう力を持っているんです。
(「秘蔵インタビュー 金子兜太」「今、伝えたいこと」)
特集には死去二ヶ月ほど前に行われたインタビューが、「秘蔵インタビュー 金子兜太」「今、伝えたいこと」として掲載されている。金子さんがおっしゃっていることは、どれもその通り。季語も切れ字も俳句に必須の約束事ではなく、腑に落ちたら大いに活用しなさいという姿勢が「海程」が俳人たちを惹き付けた大きな理由だろう。
結社誌では、主宰が毎号一種のお手本として俳句を掲載するのが通例である。それを指標として門弟らは句作に励むわけだが、金子さんの「海程」は確かに縛りが緩かった。自由な雰囲気があったから多くの門弟が育ったのである。また一種の暖簾分けとして「海程」系結社誌の創刊を歓迎したところに金子さんの政治力があると言えないことはない。俳壇はなんやかんや言って大結社与党多数派で動く。前衛系結社であろうと、なんとかして野党第一席の座を狙っているわけだ。
ただ金子さんの俳句自由主義は、あくまで〝俳句を絶対的前提〟としたものだったことは確認しておいた方がいい。俳句とは何か? と一歩踏み込めば、それは重信系の前衛俳句の独断場となる。季語も切れ字も自由であって良いという立場と、季語とは何か? 切れ字とは? 俳句はいったいどういう仕組みでその形式が形作られ、なぜ俳句形式が守り続けられているのか? と問うことは、まったく質が違う。金子さんの前衛は、いわば俳句内部における自由主義だった。
銀行員等朝より蛍光す烏賊のごとく
二十のテレビにスタートダッシユの黒人ばかり
湾曲し火傷し爆心地のマラソン
水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る
炎天の墓碑まざまざとあり生きてきし
これらの俳句が社会性俳句と呼ばれたことはよく知られている。社会情勢を俳句で表現し、時には政治体制への批判も含む俳句である。これらの句が前衛であるのはその内容表現による。いわば自由詩の世界における戦後詩のような位置付けである。戦後の自由詩では社会参画的な戦後詩に対して芸術至上主義的な現代詩が成立したわけだが、重信系俳句は現代詩に相当するだろう。ただ金子さんの作風が現代詩的表現を取り入れなかったわけではない。
おおかみに螢が一つ付いていた
梅咲いて庭中に青鮫が来ている
朝はじまる海へ突込む鷗の死
猪がきて空気を食べる春の峠
涙なし蝶かんかんと触れ合いて
俳句の意味内容ではなく、突飛でもある言葉の取合せの衝撃によって成立している金子さんの俳句である。いわゆる前衛俳句の一種だと言っていいだろう。ただこれらの句は作家の心象表現として十分評釈可能だ。孤独なオオカミに、螢が一つ貼り付いて光を発しているのはあり得べき光景である。「朝はじまる海へ突込む鷗の死」は海を見ていればなんとなく了解できる。波間に鷗が消えたのだ。「涙なし蝶かんかんと触れ合いて」は、蝶の求愛行動を生の闘いとして眺めたと解釈すればそれなりに了解できる。
つまり前衛表現といっても金子さんの場合、実感として了解できるものが多く、まったく了解できない次元に飛躍しない抑制が効いている。この敷居を越えて言語的抽象に向かえば俳壇の大勢は間違いなく顔を曇らせる。今となっては良い悪いの問題ではなく、前衛という敷居を挟んで金子さんは俳句の側に留まり、重信系は俳句の外にまではみ出していった。いずれも貴重な俳句の遺産である。
霧の村石を投らば父母散らん
曼珠沙華どれも腹出し秩父の子
姥捨ては緑のなかに翁の影
よく眠る夢の枯野が青むまで
長生きの朧のなかの眼玉かな
最期のインタビューで金子さんは「これはもう絶対に自信を持って言えるんだけどね、何と言われようと、俳句はアニミズムが基本です。アニミズムの分からねえようなやつは、どんな屁理屈をこねてもだめです。特に五・七・五の定型の最短の詩の場合は、アニミズムってものが分からなかったらゼロに等しい」とおっしゃっている。これもその通りだろう。しかし金子さんが、同時に「俳句は「映像」だ」と主張しておられるのも大事である。
「俳句はアニミズムが基本」という金子さんの言葉を、民俗学的アニミズムと解釈してはいけない。金子さんの俳句は主に俳句の表現内容が前衛を形作っているが、アニミズムに関してはその逆である。いくら民俗学を勉強しても、アニミズム的俳句が書けるわけではない。日本の精神史を遡るような学問知識は必要だろうが、内容ではなく、それを絵のような情景として捉えなければ俳句にならない。「姥捨ては緑のなかに翁の影」は晩年の作だが絵として眺めた方がいい。金子兜太は一筋縄ではいかない俳人である。
岡野隆
■ 金子兜太さんの本 ■
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