特集「身近な素材 いまこそ厨歌」を読んで「正解」はなんなんだろうと妙なことを考えてしまいました。「身近な素材」とあるので「厨房短歌を詠んでみませんか」的な特集なのでしょうね。ただ「男子厨房に入らず」などと言っていたのは遠い過去のことです。今そんなことを言えば社会的発言でなくても男子は周囲の女子からバッシングを受けるでしょうね。その一方で女性誌では「オトコの胃袋をつかめ」的な特集がけっこうな頻度で組まれたりしています。
どちらかが正しいのかという話ではありません。給与や出世などの面で男女格差が解消されるのは絶対的にいいことです。ただその場合は男も女も同じ労働者として同じだけの量と質の仕事をこなさなければならなくなります。要するに人間は労働者として平等になるわけです。もちろん出産前後は別として家事や子育ても男女が等分に仕事を受け持つことになる。現実問題そうしなければ男女格差の解消は実現できませんよね。
しかしこの男女平等という建前を含む現実制度にあまりに忠実だと少なくとも文学はとたんにつまらなくなります。作家は現代の社会情勢から影響を受けるわけですから誰だって今は男女平等(を目指す)社会だということを知っています。だけど作家を含めたいていの人は中途半端に男女平等を受け入れ中途半端に男と女は違うという性差によりかかっている。そんな曖昧な認識のまま作品を書くと凡庸になりがちです。矛盾を抉る方が文学作品は人の心を打ちやすいですよね。
「厨房」という歌題はなよやかで優しい印象がありますが実は社会制度が先鋭化しやすいテーマです。文学は人間存在のある本質を描くためのものですから社会制度に抵触するテーマを扱う場合は制度をかいくぐり脱構築化してやる必要があります。そうでなければ作品が一種のプロパガンダ化してしまう。作家の社会性が試されてしまうようなテーマの場合は掟破りが必要でしょうね。真面目に社会的コードを考えれば考えるほどドツボにはまります。
しつかりと飯を食はせて陽にあてしふとんにくるみて寝かす仕合せ 河野裕子
河野さんの有名な歌です。いろんな読解が可能でしょうが河野さんの優れた短歌は自足しています。もっと言えば外部がない。もちろん家族を含む他者と交わらなければ歌は生まれないわけですが最後のところ他者を閉め出しているようなところがあります。「ご飯食べさせ」ではなく「飯を食わせ」は文字数の問題ではないと思います。日々の子育て仕事をやっつけでこなして清々してだけど完璧だわよくやった私と満足して仕合わせである。個の姿しか見えてきませんね。
ゆふあへの胡瓜もみ瓜 酢にひでゝ まだしき味を 喜びまほる
めうめうと あな うまくさき湯気ふきて、朝餉白飯 熟みにけるかも
くりやの夜ふけ
あかゝゝ 火をつけて、
鳥を煮 魚を焼き、
ひとり 楽しき
釈迢空
厨房短歌は意外と難しくて台所(キッチン)や料理や食べ物が詠み込まれていれば要件を満たすのかというとそうでもないと思います。それらをダシにして社会批評などを表現している歌はたくさんあります。主眼がどこに置かれているのかをはっきりさせなければ厨房短歌はほぼ無限大の広がりを持ってしまう。
釈迢空こと折口信夫は近現代にまたがる化け物じみた民俗学・国文学の大家です。この先生がホモセクシュアルだったことはよく知られていますがそれが知の化け物だった先生に一種の箔を付けている面があります。要は普通のヘテロセクシャルではなかったことが先生の偉大さにつながっているような。実際先生の短歌にはまあ独特の感触があります。
厨房短歌の原点のような歌を詠んでおられますが奥さんがいなかったからこういう歌が生まれたわけではないでしょうね。この先生の短歌は平面的でアメーバーのように蠢き広がってゆくようなところがあります。「めうめうと あな うまくさき湯気ふきて」とぬめる。それがある瞬間にフッと縦の時間軸を持つ。古代的な心性にまで遡行してゆくんですね。「ひとり 楽しき」もまた閉じた心性です。
厨房は閉じた空間として捉えなければ面白くありませんね。もちろん女の城でも男の城でもかまいません。外部である他者の影が差し込んでも閉じているのが厨房短歌の原点だと思います。籠もることで外部が内面化されるわけです。思考と感性が厨房から外部に抜けてゆく作品は歌題別分類としては厨房短歌にしない方がすっきりします。
大鍋に放り込むのはかつての恋よくもよくもと木べらを回す 松村由利子
手をしばし止めゐたるとき卵白の気泡消えゆく音をききたり 横山未来子
特集で厨房短歌としてあげられた歌を詠んでいると視覚表現の歌が多いですね。音や匂いは案外詠まれていません。横山未来子さんの短歌は書き下ろしですが珍しく音が詠み込まれています。ちょいと何か大事なものに接近している気配があります。
エクリチュール・フェミニンという文学動向がフランスでありました。代表的作家はマルグリット・デュラスです。直訳すれば女の書き物ということになりますがもちろん性差は関係ありません。ただエクリチュール・フェミニンが戦後の社会主題を扱った文学や実存主義など大上段に構えた哲学的問題に対する反措定として現れたのは確かです。
わかりやすい例でいえば男たちがサロンで交わす政治や哲学問題ではなく女たちが町角で果てしもなく繰り返すおしゃべり。母親が台所でまとわりつく子供に語ってやるちょっとした言葉や物語がエクリチュール・フェミニンの基盤です。つまり失われてゆく言葉ですね。
この失われてゆく言葉は音や匂いととても相性がいい。デュラス代表作の『愛人(ラ・マン)』ではベトナムからフランスへと帰国する船の上で突然天啓のようにショパンが鳴り響きます。騒音の中から一つの旋律が耳に届く。その音を聞いた瞬間に主人公の少女は自分を愛人にしていたベトナム人男のことを愛していなかったわけではないと気づきます。
消えてゆき失われてゆくものに本質を探るのがエクリチュール・フェミニンの一つのあり方です。それは視覚表現と対局を為します。フランスついでに言えばミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で視覚と権力を結びつけたのはよく知られていますね。比喩的に言えばこの権力の構造を無化する力として音や匂いがあります。
告げられし余命過ぎたり 山慈姑のはないつせいに顫ふときある
いつせいに顫ふとき楽響るごとし風のなだりの山慈姑のはな
「楽しかつたな」夫の笑顔を胸にしまふ とろみ付き珈琲のコーヒータイム
俯して山慈姑夕べの花となる 哀しきことは夫に告げず
音たてて食う蟷螂も食はれる飛蝗も草いろ 秋草のなか
志野暁子「山慈姑のはな」連作より
志野暁子さんの「山慈姑のはな」連作は余命宣告を受けた旦那さんの終末介護を詠った短歌です。「楽響るごとし」や「音たてて食う」と感覚に訴えかける表現があります。「いつせいに顫ふ」と動きもあります。また「珈琲」「食う-食はれる」という食の表現も活きています。「珈琲のコーヒータイム」「食う蟷螂も食はれる飛蝗も」といった重畳表現も作品を際立たせていますね。
短歌に限りませんが人生における一大事が起こった時には作家はそれを作品にしなければなりません。できれば傑作を書き残す義務がある。それが作家の業です。ただ「ああ」と呻いて絶句してしまうような感情の高ぶりを表現するのは難しい。その際消えてしまう音や匂いは表現を際立たせる大切な要素となるでしょうね。厨房短歌のようになにげない日常の一瞬を高みとして捉える歌でもそれは同じかもしれません。俳句ですが万太郎の「湯豆腐やいのちのはてのうすあかり」は消えゆく湯気が骨格です。
高嶋秋穂
■ 志野暁子さんの本 ■
■ 金魚屋の本 ■