今号は馬場あき子特集です。ちょっと曖昧な言い方になってしまいますが現在の歌壇で馬場さんは別格です。誰に対して別格なのかを言い出すと色々差し障りがあるので曖昧にしたいわけですがこの方が歌壇の中心であるのは確かだと思います。もっと曖昧で乱暴な賛辞を呈すればもはや今現在お書きになっている短歌や散文のレベルがどうこうといった問題では必ずしもありません。
作品や結社勢力を言えば今現在歌壇ではたくさんの星が輝いているわけですがそれを結びつける媒体のような存在として馬場さんの存在はあります。もちろん人間ですから毀誉褒貶はあると思います。ただ馬場さんのいない歌壇を想像すると恐ろしいですね。馬場さん的な無理のないリベラリズムが歌壇を有機的に結びつけている面があります。それはわたしだけの思い入れではありません。雑誌には一人の作家に複数の原稿を書かせないという不文律があります。短歌誌は馬場さんに関してしばしばこの不文律を破っています。それだけ評価が高いということだと思います。
村上 そもそも能に心が傾いたきっかけは何ですか。
馬場 面です。敗戦直後の喜多流の「隅田川」を見た時、演技なんて問題じゃないのね。曲見の面に吸い寄せられて、もう戦死者のお姉さんやお母さんや様々な顔がそこに重なって見えて。何とも言えない虚無的な寂しい、だけど心の芯に固いものを持っている、そういうものから目が離せなかったのです。次に武蔵の国と下総の国を分けるところ。今も覚えている、実さん(喜多実)がこうやって向こうの端の方とこっちとを指し分けて見せたの。実さん四十代ですかね。こうやって見た時「ああ大河が流れている」。すごいもんだ、この型は、と思った。熱烈に実さんに惚れ込みました。その「隅田川」一つで。
(馬場あき子対談「今、語り合いたい人 村上湛」)
こういった会話というか認識の大切さを理解するためにはある程度の年齢にならなければ無理かもしれません。若い作家は能など古くさくて退屈な伝統芸であり短歌を書くことと何の関係があるんだと思ったりもするでしょうね。しかし馬場さんがおっしゃっているのは能のお話に留まりません。本質的には思想の肉体化のことです。
馬場さんは東京で空襲を経験しているわけですがその時に見た「戦死者のお姉さんやお母さんや様々な顔」を能の曲見の面に見出した。それが能楽に夢中になったきっかけだとおっしゃっています。この体験は室町時代に能楽が成立した際とほぼ同じだと思います。幽鬼が現れ恨み辛みを述べ立てる能を戦いを生き残り現世の勝利者でもあった為政者たちが深い感慨をもって見ていた。ある意味リアルに死者たちと出会っていたわけです。
馬場さんの能楽に関する評論やエッセイは非常に優れています。ちょっと余計なことを言えば白州正子さんの能楽理解は馬場さんに遠く及びません。学問的考証が進んでいるので今では馬場能楽論に様々な難点を指摘することはできるでしょう。しかし直観として正しい姿を射貫いています。なぜそうなのかと言えば能の思想を肉体的に捉え理解しているからです。この姿勢は一貫しています。師や同世代や若い歌人をも馬場さんは常に肉体的に理解しようとしています。
村上 古典における型についてどういうお考えですか。
馬場 型があるからこそ自分が生まれる。型にはまりきらない部分が自分。やむにやまれないところではみ出すんだと思うのね。だけど、そうじゃない人たちもいる。例えば俵万智さんの世代ははみ出すもなにも初めから日頃使っている日常から歌が生まれてきている。自由詩ではなく口語を型に当てるということが新鮮だったんだと思う。自由すぎる言葉を一つの型に閉じ込めてみたいって欲求があるんじゃないの。何だってできると漠然と広がってイメージが薄いから、それを型に閉じ込めてみよう。そのときに、自分の茫漠として広がっている欲求がきゅっとまとまる。私はそれも型だと思ってる。ただね、あなたが短歌を選んだことは古典の型を選んでしまったんだということを自覚してほしい、と。
(同)
俵万智さんたちよりもさらに若い世代の口語歌人にとって馬場さんは自分たちの主義主張を阻む壁になっていると写る瞬間もあると思います。しかしそれは間違いです。歌を詠むことだけに夢中になっていると馬場さんの「自由詩ではなく口語を型に当てるということが新鮮だったんだと思う」という言葉は響かないと思いますが大局的に短歌を眺めればそうなります。型を破り新しげな思想を盛り込んでも口語短歌は絶対に自由詩にならない。原理が違い過ぎます。
どんな表現にも限界があります。ほとんどの口語歌人の悩みは「何だってできると漠然と広がってイメージが薄いから、それを型に閉じ込めてみよう」とするところから起こっています。歌を詠む前は無限で豊かだったはずの思想やイメージが歌にしてしまうと色あせて凡庸に見える。極論を言えばたいていの個人は最初は大した思想もイメージも持っていないのです。言語表現は個の貧しさを痛感させる最も初源的な通過儀礼表現でもあります。詩論というより既存詩人を痛烈に批判する状況論を書きながら作品表現は貧しいのは短歌に限らず若い詩人たちの通過儀礼でもあります。
ただそこからが勝負だということを馬場さんは知っておられる。どこかの時点で短歌は型であり古典に繋がる表現であることを受け入れなければ歌人の進歩も成熟もありません。しかし口語短歌から出発したならそれなりの変化を短歌史にもたらさなければなりません。その可能性を有している若い歌人を馬場さんは的確に評価しておられます。
梅咲けばツルゲーネフの『散文詩』きみの声きくごとく取り出す
衛星のごとく互にありたるをきみ流星となりて飛びゆく
丘にのぼれば空に春ある色みえて水無瀬の院のほのかほほゑむ
帰り来し人ありて一つ灯のともる一つなるくらしの色の親しさ
くらしとは灯の下にあり一灯の静かなる丘のゆふべ見ており
ポットに沸く湯、薬罐に沸く湯おのおのに湯の音ありてわが耳がきく
夫なくて大ぴらに老をうたふわれながらふしぎ椿咲きだす
地底まで落下するやうな助走距離息づまるその空無の時間
飛ぶ夢は落つるゆめなり若き日の夢は逃げつつ高所より飛びき
墜落のゆめの途中に俯瞰せし地底に小さくちちはははゐて
六十年ともに生きたる春秋や言はで思へば深き淵なり
たぶんわが鈍感力は天性のものなりなぜといふことなけれど
鉛筆を持ちたるままに眠りゐき覚めて明るき春におどろく
郵便受けにいろいろの鳥は来て止まりおしるしのやうに糞を残せり
(馬場あき子「衛星のごとく」連作より)
年を取った作家にとって最も重要なのは自在であることです。年齢と共に必ず人間の気力体力は衰えるわけですがそれを補うような自在さを身につけておかないとどんどん作品の数が減ってゆきます。それは辛い。作品を書きたいのに書けないことほど作家にとって辛いことはないのです。そして作品数の減少は気力体力の衰えだけが原因ではありません。創作の方法論が間違っていると年を取ると作品が書けなくなる。
多くの作家が若い頃の方が寡作です。分不相応で身の丈以上の表現を目指す高い志があるから寡作になったりするわけですがそれでは創作は続かない。どこかで言語表現と折り合いをつけなければなりません。短歌や俳句の場合はその型と折り合いをつけなければならない時期が必ず来ます。
馬場さんの表現は自在ですが崩れが見えません。結社主宰としてまた歌壇を代表する作家として多作も馬場さんの務めです。誰かが歌壇隆盛のために立ち働かなければなりません。馬場さんたちに反発する若手もその恩恵を受けています。そして長老歌人たちがやっている驚異的な仕事量を肩代わりしろと言われてもたいていの歌人にはできない。馬場さんは多作の王道として写生を基本技巧としておられますが日々の社会情勢を歌った作品は案外少ない。ささやかな日常から思想感情の大きな振幅を描こうとする。
「衛星のごとく」は昨年十一月三日にお亡くなりになった馬場さんの旦那さんで歌人の岩田正さんを詠んだ連作です。亡き夫への愛慕は確かなものですが歌は「墜落のゆめの途中に俯瞰せし地底に小さくちちはははゐて」から「六十年ともに生きたる春秋や言はで思へば深き淵なり」にまで至る。「淵」とは断絶のことでありそこまで書かなければ完結しないのが馬場短歌です。歌人としての業が深い。もちろん誉め言葉です。
高嶋秋穂
■ 馬場あき子さんの本 ■
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