尾崎谷斎作煙管筒
「(前略)お前は自身に供給するに足るほどの財があつたら、其上に望む必要は無いと言ふのぢやな、それが学者の考量じやと謂ふんぢやが。自身に足るほどの物があつたら、それで可えと満足して了うてからに手を退くやうな了簡であったら、国は忽ち亡るじや――社会の事業は発達せんじや。而して国中若隠居ばかりになつて了うたと為れば、お前奈何するか、あ。慾に限の無いのが国民の生命なんじや。
俺に那様に財を拵へて奈何するか、とお前は不審するじやね、俺は奈何も為ん、財は余計にあるだけ愉快なんじや。究竟財を拵へるのが極めて面白いんじや。お前の学問するのが面白い如く、俺は財の出来るのが面白いんじや。お前に本を読むのを好え加減に為い、一人前の学問が有つたら、其上望む必要は有るまいと言うたら、お前何と答へる、あ。
お前は能う此稼業を不正ぢやの、汚はしいのと言ふけど、財を儲くるに君子の道を行うてゆく商売が何処に在るか。我々が高利の金を貸す、如何にも高利じや、何為高利か、可えか、無抵当じや、(中略)我々は決して利の高い金を安いと詐つて貸しはせんぞ。(中略)其を承知で皆借りるんじゃ。それが何で不正か、何で汚はしいか。(中略)高利貸を不正と謂ふなら、其の不正の高利貸を作つた社会が不正なんじや。(中略)
財といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念うとる、獲たら離すまいと為とる、のう。其金を人より多く持たうと云ふぢやもの、尋常一様の手段で行くものではない。合意の上で貸借して、それで儲くるのが不正なら、総ての商業は皆不正でないか。学者の目からは、金儲する者は皆不正な事をしとるんじや」
(『金色夜叉』『後篇』明治三十三年[一九〇〇年])
『金色夜叉』は高利貸の物語でもある。貫一は鴫沢家を出奔してしばらくして、鰐淵直行という高利貸の手代になった。日清戦争後に困窮する人が増え、法的規制もなかったことから当時高利貸が社会問題化していた。紅葉は高利貸に「アイス=ice」というルビを振っている。冷酷で残忍な取り立てをすることから高利貸は蛇蝎の如く嫌われていた。まともな人間のする仕事ではないと思われていたのである。貫一は金を持っているという意味では社会的強者だが、人々から忌み嫌われ蔑まれる高利貸に自ら身を落とした。
ただ高利貸は人の恨みを買う危険な仕事だった。貫一は何者かに闇夜に襲われ大怪我を負ってしまう。翌日の新聞に高利貸襲わるという記事が出たがある新聞が間違って貫一の雇い主の鰐淵が襲われたと書いた。鰐淵の一人息子直道は学者になっていたが高利貸の家業を嫌い家を出ていた。しかし父親が大怪我をしたと読んで実家に駆けつける。父は無事だったがいずれ父にも災難が降りかかるだろう、どうかこれを機に高利貸の仕事を止めてくれと懇願した。しかし父の直行は引かない。それどころか息子の社会認識の甘さを厳しく指摘した。
直行の言葉は正しい。高利貸に限らず資本主義社会は「慾に限の無い」ことを是とする。富の平等分配という社会主義的理想は社会を停滞させるのだ。人間の知的欲求に限界がないのと同様に、資本も無限に自己増殖しようとする。誰にも止められない。高利貸が必要悪としての社会の歯車であるのも確かだ。禁止しても誰かが闇で始める。もしくは社会が別の抜け道を見つける。「財といふものは誰でも愛して、皆獲やうと念うとる、獲たら離すまいと為とる」というのも正しい現実認識だ。こういった冷酷な認識を持てなければ金を相対化できない。むしろ金など汚い、不要だとうそぶいている甘ちゃんの方が結局は金に振り回される。なんの幻想もなく一定の金を得る算段を整えなければ、社会的動物である人間は最低限の矜恃すら保てない。
漱石『それから』の平岡は、働きもせず遊民の暮らしを送る親友の代助から金を借りる。代助自身は金を持たないが実家が裕福だからだ。平岡は金のこと、つまり社会的苦労を知らない代助を「笑ひたいんだが、世間から見ると、笑つちや不可ないんだろう」と言う。その通りだ。金を持つ者は強者である。いい車に乗りいい家に住みブランド服を着て美男美女をはべらせ、世界旅行や宇宙旅行に出かけ野球の球団を持って高価な美術品に囲まれていても悪趣味と批判できない。その社会的な力が絶大だからだ。批判するには高次の観念が必要だ。倫理と道義の観念である。漱石は鋭い社会感覚を持つ現実主義者だったが、身勝手な人間の欲望を統御する高次観念が必ずあるはずだと考えた。倫理や道義の観念など現実世界ではあやふやで曖昧なものだと重々承知しながら生涯それを探求し続けた。
しかし紅葉は冷たい現実認識の底でピタリと止まる。『多情多恨』の柳之助は妻の死という残酷な現実から一歩も動かない。『金色夜叉』の貫一はお宮の裏切りで足を止めてしまう。また貫一がたくさんある職業の中で高利貸の仕事についたのは金の力を相対化するためである。金を持たない者が金を相対化することはできない。彼自身は金には興味がないと繰り返し言っている。実際稼いだ金で遊蕩に耽ったりすることがない。生活はむしろ質素だ。恋人も愛人もいない。高利貸になった理由は、もはや生きていてもしょうがない人間になってしまったのだから、情や道義を振り捨てて冷酷な取り立てをする、社会で忌み嫌われる高利貸に身を落とすのが分相応と考えたからである。
この絶望と紙一重の現実認識は恐らく観念ではない。痛切な肉体的体験として得たものだ。紅葉は裸眼で現実を見つめれば救いなどどこにもないと認識している。救済があるとすれば、それは無償かつ無媒介的に自己を愛してくれる母性だけだろう。しかし柳之助は母性そのものであった妻を失い、現世では友人の妻であるお種にわずかにそれを垣間見るだけだ。だが手は届かない。貫一も同様だ。彼の無媒介的愛を実現できる他者はお宮だけだった。お宮は生きているが彼の中ではすでに死んでいる。
「宮、待つて居ろ、俺も死ぬぞ! 貴様の死んでくれたのが余り嬉しいから、さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世で二人が夫婦に成る、是が結納だと思つて、幾久く受けてくれ。貴様も定めて本望だらう、俺も不足は少しも無いぞ。」
然らば往きて汝の陥りし淵に沈まん。沈まば諸共と、彼は宮が屍を引起して背に負えば、其の軽きこと一片の紙に等し。怪しと見返れば、更に怪し! 芳芬鼻を撲ちて、一朶の白百合大さ人面の若きが、満開の葩を垂れて肩に懸れり。
不思議に愕くと為れば目覚めぬ。覚むれば暁の夢なり。
(『金色夜叉』『続篇』明治三十五年[一九〇二年])
『金色夜叉』は『前篇』『中篇』『後篇』『続篇』『続続』『新続』と書き継がれた。『続篇』末尾でいくら手紙を書いて許しを請うても返事をしてくれない貫一の元にお宮が訪ねてくる。貫一は相変わらず拒絶の姿勢を貫く。しかしお宮は自ら刃の上に倒れ伏し自殺を図った。貫一は死にゆくお宮に「赦したぞ! もう赦した、もう堪・・・・・・堪・・・・・・堪忍・・・・・・した!」と叫んだ。お宮の裏切りは許しがたいがその身体と心が現世とは違う審級、つまり死の世界に移行すれば許すことができるということだ。「さあ、貫一の命も貴様に遣る! 来世で二人が夫婦に成る、是が結納だと思つて、幾久く受けてくれ」とあるように、貫一も自死を図る。貫一の苦悩も死によって初めて癒やされるのである。しかしそれは夢だった。
紅葉は『金色夜叉』で『二人比丘尼』以来の地の文は文語体、会話文は言文一致体の書き方に戻した。『多情多恨』で驚くほど完成度の高い言文一致体小説を書いたがこの文体は一般読者にはまだ早かった。評判は決してよくなかったのだ。しかしそれだけが理由ではない。自ら男女の機微を描く作家と規定し、すでに何作も小説を書いていた紅葉は『多情多恨』の単調さに気づいていたはずだ。しかし言文一致体小説では文語+口語文体で起こせた飛躍をどうしても設定できなかった。『金色夜叉』『続篇』で描かれた夢の中でのお宮の自殺はこの作品の結末の先取りである。『多情多恨』では冷酷な現世の軛を超脱できなかったが『金色夜叉』では先に進もうとしている。現実の厳しさはそのままに救済の道を探り始めている。
「私共の商売の者(芸者のこと)は善く然う申しますが、女の惚れるには、見惚に、気惚に、底惚と、恁う三様有つて、見惚と云ふと、些と見た所で惚込んで了ふので、是は十五六の赤襟盛に在る事で、唯綺麗事でありさへすれば可いのですから、全で酸いも甘いもあつた者ぢやないのです。
それから、十七八から廿そこそこの処は、少し解つて来て、生意気に成りますから、顔の好いのや、扮装の奇なのなんぞには余り迷ひません。気惚と云つて、様子が好いとか、気合が嬉しいとか、何とか、那様処に目を着けるので御座いますね。ですけれど、未だ未だ猶且浮気なので、(中略)お肚の中から惚れると云ふのぢやないのです。何でも廿三四からに成らなくては、心底から惚れると云ふ事は無いさうで。それからが本当の味が出るのだとか申しますが、那様ものかも知れませんよ。(中略)若い内は奈何したつて心が一人前に成つて居ないのですから、猶且それだけで、為方の無いものです。と言つて、お婆さんに成つてから、やいのやいのと言われた日には、殿方は御難ですね。」(中略)
「大きに感心した。」
「ぢや屹度胸に中る事がお有なさるんで御座いますね。」(中略)
「ははははははは。愈よ面白い。」
「あら、然なのですね。」(中略)
「然だつたら奈何かね。はははははは。」
「あら。それぢや愈よ然なので御座いますか!」
「ははははははははは。」
「可けませんよ、笑つてばかり被居つたつて。」
「はははははは。」
(『金色夜叉』『新続』明治三十六年[一九〇三年])
貫一は高利貸の仕事で那須塩原温泉に出かけた。季節外れで相客は一組しかいない。山深い宿の深夜に、貫一は相客男女の話を聞いてしまう。二人は駆け落ちして服毒自殺しようとしていた。貫一は部屋に飛び込んで心中を止めた。男は東京の紙問屋で支配人をしている狭山で、女は馴染みの芸者・お静だった。狭山は店の金を使い込み、それを内々で収める代わりに主人の姪との結婚を迫られていた。お静は狭山と恋仲だったが身請け話が起こった。首の回らない狭山はどうにもできない。また世間的には狭山の結婚話もお静の身請けも決して悪い話ではない。彼らが置かれた立場から言えばむしろ救済だ。しかし愛を貫き心中すると決めた。
貫一は狭山の使い込みの金とお静の身請け代金を出してやることにした。二人の姿にお宮と果たすべきだった愛の理想を見たのだ。それまでは高等学校の友人にさえ冷酷な取り立てをしていたのだから、えらい変わりようだ。二人は恩人の貫一の家に同居して狭山はそこから新たな勤め先に出かけ、お静は貫一の世話をするようになった。
狭山とお静と暮らし始めた『新続』で、お宮と暮らしていた学生時代以来初めて貫一は快活に笑う。お静を身請けしようとした男は美貌で女を選び、金の力で我がものとするお宮の夫・富山だと紐付けられはいる。しかし富山への意趣返しに二人を救ったわけではない。貫一はお静の話す「見惚」「気惚」「底惚」の恋の話に笑い声をあげる。お宮を念頭に置いた会話である。夢だが自死をもいとわず許しを請うたお宮を見たことで貫一の心は変わり始めている。
お宮は「心底から惚れると云ふ事」ができる「廿三四」になっている。その一方で『新続』には貫一の現況と、遺書と呼べるお宮の手紙が交互に現れる。お宮の手紙には「惜しむに足らぬ命の早く形付き不申るやうにも候はば、いつそ自害致候てなりと、潔く相果て候が、迥に愈と存付き候へば、万一の場合には、然やうの事にも可致と、覚悟極めまゐらせ候」とある。
『金色夜叉』は紅葉の死去で『新続』で中断したので、この長大な物語がどのような大団円を迎えたのかはわからない。しかし死という現世とは違う審級への飛躍であれ、紅葉が貫一とお宮のなんらかの和解を用意していたのはほぼ確実だと思われる。この飛躍には口語体(言文一致体)よりも昔ながらの文語体の方が効果的だったろう。またお宮との和解はいったん起こってしまったことは自己にも他者にも取り返しがつかない、冷酷で残酷で厭うべき現実世界との和解でもある。
『金色夜叉』を書く前にアメリカの通俗小説を読んでいたことからもわかるように、紅葉は英語に堪能だった。臨終の床で石橋思案に「曇天だな、なに、雨が降つてる? どうも天気の悪いのが一番いやだ。」(伊藤整『日本文壇史』)と言ったと伝えられる。洋行の経験はないが、いわゆるハイカラが骨身に染みついていた。
しかし紅葉が処女作から晩年まで書いたのは一貫して日本ドメスティックな男女の機微である。文学者の作品をその実人生からのみ読み解くのは危険であり、慎重に検討しなければならないことはよくわかっている。ただ青年期までの強烈な体験を持つ文学者の方が、早熟に自己の文学主題を明らかにできる面があるのも確かである。
紅葉は五歳の時に母と死別している。その後は母方の祖父母の手で育てられた。紅葉の学費を援助したのは母方の荒木家の親戚筋の横尾家だった。しかし父・谷斎の名は紅葉幼年期には一切出てこない。いっしょに暮らした時期があるのかどうかも定かではない。紅葉がなんの手がかりも書き残していないのだ。また谷斎の人生の機微に関する情報もえらく少ない。花柳界でそれなりに名の知られた幇間で人気の根付師であったことを考えれば、この情報の少なさはいささか不審である。
谷斎は幇間としては柳橋や新橋界隈で仕事をしていたようだ。江戸後期から幕末にかけては吉原などの遊郭が武士や高級町民の知的サークルの場だった。柳橋や新橋の遊郭・料理屋で仕事をしていたのだから、芝居方との交流も深かっただろう。実際九代団十郎が谷斎に根付を依頼したがなかなか品物を届けないので先に十両を送りつけたところ、谷斎が小判に「金十両確かに受領せり」と彫って送り返したという逸話が伝わっている。しかし河竹黙阿弥や其角堂永機、為永春水、花笠魯介文京、津藤香山人など随筆も書いたたくさんの文人がいるにも関わらず、谷斎について触れた文書はほとんどない。
幇間はお座敷で客と芸妓の宴席を盛り上げるだけが仕事ではない。幇間や三味線持ちなどの男衆は遊郭・料理屋には欠かせない灰色の存在だった。客と技芸との間を密かに取り持ち、その逆に見番や遊郭の密偵となって技芸を監視し、客同士や客と技芸のトラブルを丸く収める役回りでもあった。灰色のトラブルシューターであり時にあくどい役回りも担った。紅葉が父谷斎を恥じたのはそのような幇間の仕事をよく知っていたからだろう。一方で幇間は西洋宮廷のピエロのような存在でもあった。現在かなりの数の谷斎作品が残っているのは、彼が裕福なお大尽の客筋をつかんでいたからである。
紅葉小説のテーマや内容を考えれば、期間はともかく父谷斎と暮らしその仕事に間近で触れた時期があったのではないかと推測される。恐らく怜悧であった尾崎紅葉こと徳太郎少年は、父谷斎の仕事をまざまざと見て、人間同士はもちろん男女の機微をも心に刻みつける機会があったのではないか。そうでなければデビュー作『二人比丘尼』以降男女モノを書き続け、その現世でのあり方や心理的諸相を深化させていくことはできなかったろう。一般には紅葉は薄ぼんやりとした大衆小説を書いた作家と思われているが、その現実認識は非常に冷たい。人間を表からも裏からも〝見た〟経験がなければ書けない小説である。(了)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 尾崎紅葉の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■