今号の特集は「現代歌人特集シリーズ「永田和宏」」です。永田さんは昭和二十二年(一九四七年)生まれの歌人で世界的な細胞生物学者です。奥様は河野裕子さんですね。結社歌誌「塔」の主宰を長く続けられました。大新聞の選者や賞の選考委員なども務められる歌壇の重鎮のお一人です。口語短歌全盛の風潮に歯に衣着せずに厳しい批評をなさる論客というか頑固親父のお一人でもあります。若手歌人にとっては格好の仮想敵ともみなし得る歌人ですがティピカルな仮想敵を措定できるのは若手にとってはいずれポスト仮想敵になる自分自身の立ち位置を考える上で恰好な歌人ということでもあります。
日本の詩には短歌・俳句・自由詩の三つのジャンルがありますがいずれのジャンルも戦後に〝前衛の時代〟を経験しました。表現と内容両面で前衛を理想とした時代が確かにあったのです。今やこの前衛というか理想は綺麗に霧散しました。ただ近過去の前衛運動を批判的に乗り越えようとしているのは短歌だけです。
俳句の世界では前衛は実質的になかったのものとみなされています。そんなものは存在しなかったのであり俳句は大昔から有季定型であったしこれからもあり続けるという認識が主流です。自由詩の詩人は歌人や俳人ですら「昔現代詩の時代があったけどもう見る影もないよね」と言っているのにいまだに現代詩に固執しています。日本の詩のジャンルで前衛を宿命づけられた自由詩が現代詩を否定するとアイデンティティそのものを喪失してしまうからですが現代詩はもはや偉大だけど空疎な〝父〟と化してしまっています。自由詩の世界では一九八〇年代以降に登場して来た詩人で確実に詩史に爪痕を残すだろう詩人を恐らく一人も措定できない。このような悲惨に陥らなかっただけでも若手歌人は先輩歌人たちの努力に感謝すべきでしょうね。
肩車にはじめて海を見し日よりなべてことばは逆光に顕つ
背を抱けば四肢かろうじて耐えているなだれおつるを紅葉と呼べり
駆けてくる髪の速度を受けとめてわが胸青き地平をなせり
バー越えて夕日を越えてみずからの影に嵌絵のごとく沈みぬ
(永田和宏『メビウスの地平』昭和五十年[一九七五年]より)
林檎の花に胸より上は埋まりおり そこならば神が見えるか、どうか
大き蛾が頭上を横切りきらめきて鱗粉はしずかに降りはじめたり
水底にさくら花咲くこの暗き地上に人を抱くということ
ひくひくと水飲むごとく攣るる咽喉、美しければさらばわが夏
(『黄金分割』昭和五十二年[一九七七年]より)
呼び寄せることもできねば遠くより母が唄えり風に痩せつつ
ずぶ濡れの母がかなしく笑いつつ辛夷の闇に明るみいたる
草色の重き鉄扉を開きたり死者ありて死臭なき部屋のあかるさ
線香花火の雫なす火は膨れつつ泣いて女は身軽になれり
(『無限軌道』昭和五十六年[一九八一年]より)
永田 よく言うんだけど、我々は同時代の影響ってすごく大きい。僕は歌壇史というのをきちんと作らんといかん、と思っているんです。短歌史じゃなくて人物交流史ね。(中略)『私の前衛短歌』で書いたのは、前衛短歌の歴史ではない。一人の若い男が前衛をどういう風に受容していったか、なにが当時の自分にとって大事で、最終的にはどのように批判的に摂取していったかという話ですね。(中略)最初は身も世もあらず前衛という、それ以外のなんでもなかったのだけれど。
(「永田和宏インタビュー 前衛の頃、そして今」聞き手=大辻隆弘)
永田さんの歌業はおおむね三期に分類することができます。一期目は『メビウスの地平』から『無限軌道』までの三歌集で前衛短歌の時代です。二期目は『やぐるま』から『饗宴』の時期で転調の時代と言えましょうか。三期目は『荒神』から現在にまで続く時代で自らの歌風をしっかりとつかんだ時代です。
初期の三歌集の表現は観念的です。「林檎の花に胸より上は埋まりおり そこならば神が見えるか、どうか」に表現されているようにある観念の極点を目指しています。もちろんそこには塚本邦雄・岡井隆らが先鞭をつけた前衛短歌の影響があります。永田さんはインタビューで「あの頃は「現代詩手帖」「ユリイカ」を角川『短歌』や「短歌研究」と同じように毎月読んでました。現代詩と現代短歌を近づけたのは前衛短歌の力が大きいと思う」とも語っておられます。
現代短歌・俳句は現代詩の修辞・思想表現に大きな影響を受けました。シュルレアリスムに代表されるような遠い言葉やイメージを連結して作家の身の丈以上の観念を作品で表現する詩法の影響を受けた時代です。もちろん現代詩の世界でも安東次男や那珂太郎など短歌・俳句の特徴を取り入れた詩人はいましたがその数は圧倒的に少ない。前衛短歌の時代とは短歌・俳句が史上初めて現代詩というヨーロッパ的近・現代詩の影響を直接的に受けた時代だったと言えます。
それは「最初は身も世もあらず前衛という、それ以外のなんでもなかった」時代ですがもちろんそれだけで済むはずがありません。短歌・俳句・自由詩がジャンルとして成立しており数々のジャンル混交や越境の試みが為されたにも関わらずそれらがことごとく失敗しているのには理由があります。短歌独自のゆずれない表現基盤があるのです。永田さんは「なにが当時の自分にとって大事で、最終的にはどのように批判的に摂取していったかという話です」と当時を振り返っておられます。第三歌集『無限軌道』になると永田さんの大きな表現テーマである母の歌が増えます。このあたりから前衛短歌の批判的超克が始まっています。
土壇場で論理さらりと脱ぎ捨てて女たのしもほろほろと笑む
かの日歌わずいまは歌えぬ数々のせつせつとして雪降るを見よ
星の一生を子に教えつつ〈一生〉とう時間の長さのみ伝わらぬ
眠りたるを負いて帰れる道遠し月光の重さを子は知らざらむ
(『やぐるま』昭和六十一年[一九八六年]より)
寒の夜を頬かむりして歌を書くわが妻にしてこれは何者
ときおりは呼びかわし位置を確かむる秋の林に家族は散りて
うたびととうたびととの妻ゆうぐれのごみをあつめて燃やしいたれば
もうどうにでもなってしまえと、こんな夜は自動販売機など抱きて眠りたし
(『華氏』平成八年[一九九六年]より)
大きければそれだけで悪、とりあえず今夜は妻の結論を容る
つまらなそうに小さき石を蹴りながら橋を渡りてくる妻が見ゆ
年々の教室写真の真んなかに我のみが確実に老けてゆくなり
枝付きの柿が届けり形わろき不揃いの柿はふるさとの柿
(『饗宴』平成十年[一九九八年]より)
大辻 (前略)昔、河野(裕子)さんから「アメリカから帰った時、日本は俵万智ブームになっていて、ちょっと焦った」みたいな話を聞いたんですが、永田さんにもそのような違和感があったんですか。
永田 ただそうは言っても、河野は自在に歌ってたと思う。(中略)僕らにはまだ、やっぱり歌ってはいけないものとして日常があったんですよ、前衛短歌では。日常が歌になるというのは、近代への逆行だという考え方です。そういうことで自分を縛っていたんだけど、やっぱり歌いたいという欲求がある。
(「永田和宏インタビュー」)
永田さんは昭和五十九年(一九八四年)にアメリカ国立がん研究所客員助教授となって家族とともにアメリカに赴任され六十一年(八六年)に帰国されました。わずか三年の赴任ですがこの期間は短歌を外から客観的に見つめる良い機会になったようです。また帰国翌年の六十二年(八七年)に俵万智の『サラダ記念日』が大ヒットしていわゆるニューウエーブ短歌が始まりました。河野裕子さんは「アメリカから帰った時、日本は俵万智ブームになっていて、ちょっと焦った」とおっしゃったようですが永田さんは「(『サラダ記念日』以前から)河野は自在に歌ってたと思う」と話しておられます。この言葉の意味は永田さんの歌にも表れています。
永田短歌の大きな主題の一つに物心ついた時にはすでに亡くなっていて写真も一枚きりしかない母親のイメージがあります。歌集『やぐるま』あたりから妻河野裕子さんを詠んだ歌が増えるわけですがそれは必ずしも母性を求めてのことではありません。「土壇場で論理さらりと脱ぎ捨てて女たのしもほろほろと笑む」という歌にあるように永田さんが河野さんに見たのはいわゆる〝妹の力〟です。民族学的にいうと女性が持っている霊的な力ということになりますが近現代の文脈では男性的観念を力強く突き崩す女性性の力ということになるでしょうね。
男性性の特徴は前衛短歌に顕著なように高い観念性にあります。あれよあれよという間に天にまで届くような観念の軌跡を描いて昇ってゆく。しかしそれはしばしば現実遊離した抽象観念です。たいていの男の作家は口をあんぐり開けて高い観念の頂に届いた先行者に憧れ後追いしようとするわけですがある時期になると女性作家の中から「やっぱり間違ってると思う」といった表現が表れるようになる。俵万智『サラダ記念日』ほどのセンセーションはありませんでしたが河野さんはそういった地に足のついた表現者でした。永田さんは「大きければそれだけで悪、とりあえず今夜は妻の結論を容る」と妹の力に従っています。前衛短歌に感じていた微かな違和感を身近な河野さんの短歌を手がかりに明確にしていったわけです。
芙蓉のように脳ゆるらかに萎えゆくか日向の猫のように老いるか
あるいは泣いているのかもしれぬ向こうむきにいつまでも鍋を洗いつづけて
(『荒神』平成十三年[二〇〇一年]より)
ヤジロベエの両方の手のさびしさよ影単純にいつも男は
忘れられたくないためにだけ生きている そうとも言える夜の鳶尾
(『風位』平成十五年[二〇〇三年]より)
母を知らぬわれに母無き五十年湖に降る雪ふりながら消ゆ
荒神橋半ばの時雨君が死ののちもつづける此の世の時間
(『百万遍界隈』平成十七年[二〇〇五年]より)
君よりも不安はわれに大きければ椋鳥のように目をつむるのみ
名前のみとなりたる母の名を書けりわが知らねどもいつまでも母
(『後の日々』平成十九年[二〇〇七年]より)
一度しか死ぬことはなし夕暮れのほのかな気配に雪虫流るる
こんなにもぼろぼろのわれを知る人の無くて拍手のなか降壇す
(『日和』平成二十一年[二〇〇九年]より)
コスモスを踏まないでとまた声が飛び背に聞く声は昔の声だ
口を開けて眠れる人よ口を閉じよ隙間を見せれば死がすべりこむ
(『夏・二〇一〇』平成二十四年[二〇一二年]より)
大辻 (前略)前衛短歌以降、僕たちは「新しさ」ばかりを追い求めてきた、ということを述べた上で、永田さんはこう言っています。「どこかで『新しくないこと』に対する許容度を保証しておかないと、短歌はぶ厚さ、幅、あるいは奥行きといった、先端の試みだけでは計れない大切な部分を失ってしまうのではないだろうか」(『私の前衛短歌』)。(後略)
永田 前衛短歌を体験して、近代短歌そっくりのものを作り続けるとは思ってないけど、前衛短歌がしんどかったのは、「私というのは現実の私ではいけない」という規定。今は、我々は現実の私であってもいいけど、ない場合もある、それを全部許せる。これは当たり前のことみたいだけど、大変なことですよ。
(「永田和宏インタビュー」)
二〇〇〇年代に入って永田さんは歌集を量産なさるようになります。初期の苦しげな寡作を考えると短歌表現に折り合いがついたのだと言っていいでしょうね。それが前衛短歌の超克に当たるわけですが永田さんは「我々は現実の私であってもいいけど、ない場合もある、それを全部許せる。これは当たり前のことみたいだけど、大変なことですよ」とも表現しておられます。
ものすごく単純化して言えば表現者として自由であること。この自由は前衛短歌的な抽象観念から俗な日常的私性までを自在に往還できるものでなければならない。永田さんの歌業がそれを十全に為し得ているのかについてはまた稿を改めて論じたいと思います。ただ永田さんが辿ってきた歌の歴史は今現在の若手歌人にとって過去の経験ではないですね。
エクストリームな口語短歌歌人はその前衛的身振りによって独自の歌の表現形式で自らを束縛しています。そのため歌は寡作になり歌えない事柄も増えてくる。ストレートな悲しみや喜びを歌ってしまうと〝ああアイツも堕落したな〟と言われてしまうような恐怖と戦わなければならない。それは永田さんたちが前衛短歌に感じた違和と同じです。
これをどう乗り越えてゆくのかが口語歌人のアポリアであり結論を先取りすればどう足掻いても伝統的短歌形式が目に入ってくるはずです。そこにどうやって従来とは少しだけ違う形でソフトランディングできるのかが口語歌人の作家寿命に直結するでしょうね。
角川短歌では巻末の歌壇時評で若手歌人に気炎を吐かせています。先行歌人を激しく批判し現在の歌壇を糞味噌に批判するのはもちろんアリです。そうしなければ何も変わらない。今現在の表現や体制に違和感があるから新しい表現が生まれ出てくるのです。ただし批判するからには既存歌壇・歌人以上の〝高い理想〟を持っていなくてはならない。歌壇での出世くらいでは話にならない。一通り思う存分批判したらそれを繰り返すことなく具体的な理想の実現に向かうべきです。
高嶋秋穂
■ 永田和宏さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■