今年上半期の芥川賞発表は記憶に残るイベントになった。そしてもしかすると文学史という記録にも残るかもしれない。当事者が今現在しかと把握しておらず、しかし時代と状況の無意識がそれを選択しつつある、という不可思議で重要な理由によって。
事態の中心は言うまでもなく、群像新人文学賞を受賞して6月号に掲載された北条裕子「美しい顔」であった。デビュー作にして芥川賞候補となり、前評判も非常に高かったが、複数のノンフィクション作品との類似箇所が多数見つかり、無断引用の問題として物議を醸した。盗作といった法的レベルに抵触するものではないが、出版における倫理規程というか、少なくとも仁義にはかかわるという点で大きな非難を浴びている。結果的に芥川賞受賞は逃したが、その判断に対し、この引用騒動が無関係であると見る向きはないだろう。
昨今は文壇でもちらほら言われるようになった通り(そして文学金魚の創刊以来、レビューアーたちが繰り返し注意喚起してきた通り)芥川賞は本来、単なる新人文学賞なのである。作家の将来に期待するだけなら、わざわざケチのついた作品に授賞することはない。また文学金魚では再三説明されていることだが、芥川賞・直木賞は実質的には文藝春秋社という一私企業の主催で、芥川賞については文學界が選考作業を含む実作業をしている。無断引用されたとするノンフィクション作品の版元各社との関係など、作品の文学的評価とは別の判断軸がはたらくのは当然だろう。
何も今に始まったことではないが、とりわけ出版不況の現在、文学はそのイメージを自身でなぞりながら定義を変えていっている。すなわち文学的判断に公的なものなどなく、「文壇の公器」という芥川賞・直木賞のイメージもまた一私企業の資産に過ぎない。(文学ファンの多くはあの『火花』でそれを察知したのではないか。)もはやこの流れは誰にも止められないし、それが時代と社会の要請なら、必ずしも嘆くべきことではあるまい。
では公正な文学的価値の評価、といったものは存在しないのか。そしてこれまで芥川賞はなぜ純文学のイメージを一身に担ってきたのか。
文学的価値というものは確かにある。そして「美しい顔」にはそれがある。多くの人がそれを感知したからこそ前評判が高く、それだけに無断引用騒動が大きくなった。結局この問題の中心は、多数の引用箇所があるとわかった今、「美しい顔」の文学的価値は損なわれたのかどうか、という一点に集約される。
群像に素晴らしい新人が登場したと聞いたとき、不思議に思ったのは、被災者でもなく被災地を訪れたこともなくて、どうしてそんなテキストを書くことができたのだろう、ということだった。書き手の倫理とかではなくて、純粋な技術論としてあり得ないと思った。今回その謎は解けたわけだが、別の疑問が湧いている。著者は現地を取材する代わりにノンフィクション作品から多数の引用を行ったわけだが、なぜその痕跡をそのまま誤魔化しもせずに放置したのか。
あらかじめはっきりさせておくと「美しい顔」の最も説得力のある部分、共感と感動を与える部分は引用箇所にはない。作品のテーマは、取り返しのつかない喪失の悲しみと自責の苦悩にある。これについてまさに、なぜここまで書けたのかと思わせる出来だったからこそ評価が高かった。このテーマは著者が固有の、おそらくは自らの体験とそれへの深い考察を経て表現しているものだ。それであれば北条裕子はすでに作家であろうし、「美しい顔」は読むに値する。
そして「美しい顔」は、メディアでわかりやすく喧伝されたような「震災小説」ではない。なぜならこの喪失の苦悩と悲しみは、東日本大震災に特有のものではない。引用箇所を含む震災や被災地のディテールは、別の災害たとえば阪神淡路大震災や、今回の西日本の水害にほぼ置換可能である。この著者の筆の力があれば、その作業はさして困難ではあるまい。そして置換可能なものは著者本来のテーマではない。だから人のを借りる、ということが成り立つ。もしテーマまで引っ張れば、すなわち盗用であるが、たいていは不出来に終わる。
しかしそれなら、自身の本質的なテーマではない部分なら、言葉をいじって引用をわかりにくくし、自身の言葉に混ぜ込み、少なくとも表立っては指摘できなくする作業は、なおいっそう容易なはずだ。芥川賞選考委員の言葉にあるような「努力が足りなかった」というほどにも値しない。作家にとっては、ちょっとした筆入れに過ぎない。
箇所の多さから、うっかり失念していたことはなかろうが、群像新人賞受賞から慌ただしく、また後から言い出すのを躊躇するだろうほどの評価の高さも、説明の一端にはなるかもしれない。もし言い出せば、興冷めさせる参考文献の付記だけでなく、書き直しも強いられたろう。だが北条裕子はすでに作家であり、「美しい顔」は自身のテーマを確信した書き方がされている。作家は本来、自分が納得していないテキストの公表には、何があっても抵抗する。たとえ真夜中に出張校正中の編集に割り込んででも。
結局のところ著者は今の「美しい顔」のかたち、他者が事実に肉薄したノンフィクションからの引用の痕跡を残す、というかたちに納得していた。それが一番自作に相応しく、正直な姿であると、どこかで認識していたのではないか。確かに、大人の作家たちが普段行っているように、上手に自分の言葉に紛らわせ、非難されないようにするというのも一種の「努力」だし、プロの技かもしれないけれど、それこそが本質的に「盗んで」いることにならないだろうか。
作家・北条裕子が新人らしいピュアな志から、それを潔しとしなかった、とまで言おうとは思わない。ただ金菱清氏に宛てられた彼女からの私信の一部によると、やはり本人は震災小説を書いたつもりはなく、その主眼は「自己の内面を理解することにあった」。実際「美しい顔」はそのようにしか読めず、彼女が応募した群像新人賞は純文学の賞である。舞台を東日本大震災に設えたのは、もちろん読者へのアピールを計算したもので、そんな算段はどんな物書きだってする。しかし一方で、著者本来のテーマは震災にはない。それへの微妙はバランス感覚が、あえて擁護して言えば著者の無意識の誠実が、結果として非難を浴びるようなテキストとして残されたように思う。意識的にそれが出来たなら騒ぎにもならなかったろう。たとえば本作はメディア批判も含んでいるのだから、本文中にカギ括弧を多用して、描写が他者目線やメディアからの引用であるとことさら強調するなど、自作の成立の過程をより正確かつ批判的に再現する、といったやり方だ。手腕が冴えていれば知性が際立ち、引用によって賞賛を浴びたかもしれない。だがそれは相当の手練れでなければ難しい芸当だ。
そんな技術を弄さず、新人作品「美しい顔」は冒頭から読者を激しく揺さぶる。避難所の段ボールの中にいる主人公の女子高生の、カメラマンの青年への悪態。メディアへの呪詛。テレビはなぜ一番ひどい本物を映さないか。あなたたちが吐くからだ、と主人公は読者に突きつける。執拗に、切迫感をもって。早くも泣けてくるではないか。なぜなら本当のことだから。主人公はかくも嘘と真実に敏感である。ただカメラを憎み、メディアを騙そうとする攻撃性は、実は彼女自身が直面することのできない事実から顔を背けるためのものだった。それを彼女に気づかせる「斎藤さんの奥さん」は、かつて幼い息子を自動車事故で失った壮絶な苦悩を経験している。
高浜虚子は「震災は俳句にならん」と言った。それは正しい。もし震災が文学になるとすれば、人智のおよばぬ超越的な何かを想定しなくてはならず、それは日本文学の系譜にはない。直面するべきは、取り返しのつかぬ事実を直視する苦しみであり、自らの内面だけだ。北条裕子の直観は正しい。そもそも散々試みられて成功例のなかった「東日本大震災小説」が7年の後に書かれる理由もない。風化しないのは震災の爪痕ではなく、人の悲しみだ。喪失の苦悩に、これは〇〇震災のもの、これは〇〇水害のもの、これは自動車事故のもの、とタグ付けすることはない。
それにしてもまあ、新人はおもしろい。技術や認識がおよばない分、全身で、その存在格で表現してくる。書いたものを読むしかないスタティックな文学業界において、新人のあり様こそがスター性を醸し、またその存在格=無意識が時代を象徴することがある。芥川賞が、単なる一私企業の新人賞が、とりわけ戦後の文学において文学的価値の象徴となり、文壇ジャーナリズムの中心のようにみなされてきたのは、新人という存在格で勝負するしかない未熟さのスター性、つい時代を表してしまう無防備なおもしろさに拠っている。
ならば手練れであるべき読者の我々は、もっと深く読まなければならない。未熟で当たり前の新人のテキストにただ点数をつけるなど、ガキの使いというものだ。読む方と読まれる方、どちらもガキでは収まらない。自分に不都合な事態が出来して、その作品が見出されたこと自体に八つ当たりするなど以てのほかだ。「私は字だけでなく事態も読めません」と言っているようなものだろう。そんなレベルの連中が今の文学業界の低迷を招いている。テレビの欺瞞を呪詛する主人公、自身の嘘にも過敏な主人公を描いた著者の、ノンフィクションという事実の記録への、最大の、しかし下手くそな敬意だったと、大人が一度は言ってやらなくてどうする。
引用された作品の社会的な権利については、もちろん講談社が十全に落とし前をつければよい。それが仕事なのだし、今回の経緯を漏れ聞くに編集部の責任は大きい。どうやってテキストが出現したのか腑に落ちるまで問い詰める、そんな根掘り葉掘りの編集者が、昔の群像編集部には確かにいた。
とはいえ無断引用騒動から、短期間だが「美しい顔」全文をネットで公開した編集部の判断はよく理解できる。ようするに自信があったのだ。自信がありすぎて、編集者もよもやと思ったに違いない。なにしろ「美しい顔」には、他者からの借り物で書かれた作品に特有の匂いがない。テーマの弱さ、右顧左眄するロジックが見当たらないのだ。私もまた本作を読み、文字通り朝までかかって一気に読んで「これに芥川賞やらないって、アタマいかれてるんじゃないか」と思った。それは今も変わらないが、芥川賞は一私企業の、つまりはヨソさまのものである。誰にやろうと文藝春秋の勝手だ。
しかし事態は、そして時代は少しずつ文藝春秋の思惑とはずれてきているかもしれない。たぶんに慌てただろう群像編集部が、作品の文学的価値の正当性を訴えるのにネットに駆け込んだ。多くのネット民が読んだろう。その影響か、ネットニュースでは「北条裕子さん、芥川賞受賞を逃す」と流れ、少なくとも第一報では誰が受賞したのかまるで書かれておらず、多くの人は(実は私も)いまだにそれを知らない。
受賞作を、そしてヨソさまの賞である芥川賞を貶める気持ちはさらさらない。それはきっと佳い作品なのだろうし、読めば感慨も湧くだろう。しかしそれは、我々にとってヨソさまの賞である芥川賞の価値観に沿った佳作ということだ。芥川賞は少しずつ変化球を交えながら、何とか時代を取り込もうとしてきた。そしてそれをやってのけているのは、やはりただの新人賞ではない。しかし新人の、時代の変化は、もしそれが本質的な変化なら、ストライクゾーンに収まってくれる保証はない。オリジナリティの神話と文学の制度幻想を壊さない程度のストライクゾーン。大きな時代の枠組みで見れば、そこから外れるものだけが「文学」となるだろう。
小原眞紀子
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