主に純文学系の文芸誌だが、少し前から文芸評論家に小説や自由詩を書かせることが増えている。乱暴だが文芸評論家は過去現在を問わず他者の作家の作品を批評するわけで、ちょっと偉そうだ。文学に一家言あるなら、つまりはあなたが停滞した現在の文学状況を活性化できるなら、どーぞ作品を書いて編集者と読者を説得してみてください、ということなのかもしれない。でもまあそんな便利な魔法の道具があるなら世話はない。批評と小説に限らないがジャンルの垣根はなかなか越えられない。実際小説と詩で優れた仕事を残した作家は歴史上皆無と言っていいのだ。
ただ編集部が批評家に小説を書かせるのは、文学の将来を思ってのことではないのかもしれない。一緒に飲んで腹を割れば、「あなた、マジで文学の未来を憂慮してるわけ? 奇特な御仁だなぁ。今は目立てば勝ちの時代なのよ。どこ見てもそうじゃん。文芸評論家がろくでもないなんて知ってらぁ。だけど結局週刊誌とかの花形編集者にはなれず、しょーもない文芸誌編集部に飛ばされていつ潰れるかわかんないエンタメ誌をたらい回しにされんのはもうヤなんだよ。批評家にコネ作って自分も批評家って顔して、大学なんかに潜り込んで大往生したいじゃない。小説家でおっきな顔するためには、十年石の上に座って芥川賞でももらわなきゃムリってこと、俺ら一番知ってるからさ」というくらいの本音は吐くかもしれない。
編集者の小説への情熱が薄れているのは確かだと思う。たとえば文學界は、同社の出しているエンタメ文芸誌オール讀物に比べればページ数が少ない。三分の二くらいだと思う。しかしこのところかなりの確率で、半分以上のページ数が批評やエッセイ、対談鼎談などで埋められている。純文学系作家が作品発表の場がなくて喘いでいるのは重々承知のはずだ。しかし小説が載らない。批評家が優遇され小説が刺身のつまになり始めている。にも関わらず文學界の華は芥川賞だ。三回に二回は文學界系の作家が受賞する。文芸誌は昔からお付き合いのある中堅大家作家の作品を載せなければならず、新人作家の作品掲載機会はただでさえ少ないわけだから、ほとんど決め打ちで次に誰が受賞するのか決まっているような雰囲気が漂う。そして純文学系作家は芥川賞でも受賞しなければ未来がない。じっと不満をこらえてスポットライトが当たる瞬間を待っている。
こんなことを書くのはこれが現実だからだ。いい作品を書いて評価されようなんて、少なくとも今の文学界では甘い。よほど突出した力を示さなければ、編集者はもちろん読者だって振り向いてくれない。誰もが自分のことしか考えていないからだ。なぜ自分のことしか考えられなくなったかというと、文学業界の将来が曇っているからである。文学が斜陽に向かうのはもう止められない。売れる本は出るだろうが、文学界全体が盛り上がること――つまりちょっとした作家の本でもそれなりに売れる時代はまず絶対来ない。作家も編集者も斜陽産業の文学界で、少なくとも自分一人はポジションを得て、生活の安定と社会的地位を得ることに必死だ。大局を憂うなんてバカのやることだ。パブリックなことをしようとしても、何がそれにあたるのかすらわからない。極私のセルフィッシュが文学関係者の基盤になる。
今の私は、携帯電話とかスマホといったものを、ほとんど使わない。何も歩きスマホとかしている連中を小面憎く思っているからではなく、使う用途がないからである。一応、近くのセブンイレブンで、なぜか贈答品として申し込み用紙が置いてあったエヴァンゲリオン・スマホというのを持っているのだが、まだうまく使える状態ではないし、その前に使っていた「老人用」だとかいう携帯も、実際にはろくに使わなかった。毎日のように自転車で図書館へ行く以外は、電車に乗っての外出というのはめったにないし、あっても半日もすれば帰ってくるからである。
(小谷野敦「東十条の女」)
小谷野敦氏の「東十条の女」は、冒頭を読めばその後の展開がある程度予測できる。スマホすら必要としてないわけだから、主人公の私が大きな事件を起こしたり巻き込まれたりすることはない。交友範囲も行動範囲も狭いのだ。ただあまり使わないのにわざわざエヴァンゲリオン・スマホを持っているので、サブカルに興味がある人だとわかる。現代風俗(カルチャー)には一定の興味を持ちながら、それにどっぷり漬かることはないということだ。ただし熱をもって事に当たらない自分に苛立ちやもどかしさを抱えているわけでもない。図書館に通う生活に満足している。
この小説は私が主人公だから私小説なのだろうか。なるほど小説の主人公には小谷野氏自身の面影がある(モデルになっている)ようだ。しかし私の内面を告白するという意味での私小説ではない。私を主人公にしてとりとめもない内面を描く小説は小島信夫がくどいくらい書いたが、そこから戦後文学的な社会性を剥ぎ取り極私を描く小説を、今盛んに保坂和志氏が書いている。多くの読者は獲得できていないようだが保坂氏の小説はどうも批評家に受けがいいらしい。特集なども組まれたりしている。図式的に言えば小谷野氏の小説は保坂和志ラインにある。私の感情や行動が他者との関わりにおいて生じるのはどんな場合でも変わらない。ただ常に極私を貫けばどうなるのか、ということである。
その頃は、四つくらいのネットお見合いに登録していたが、そのうち一つで、メールを出した人から返事が来た。これが、藤木素子さんという三十四歳の人だった。ネットお見合いに登録している女性は、三十四歳がとても多い。昔は二十九歳で結婚を焦った(その前は二十五歳くらいか)と言うが、それが上がって、高齢出産にならないぎりぎりの三十四歳で、ついにネットに頼るということになるのだろう。
(同)
私は別れた元妻(籍は入れていなかったとある)から損害賠償を起こされている。ただ別れた理由はこの小説では書かれていない。またなぜネット見合いまでして結婚相手を探しているのかという理由もわからない。物語(と一応言っておきます)は淡々と進んでゆく。ネット見合いで知り合った三十四歳の藤木素子という女性が表題の「十条の女」である。美人ではないがそれなりに知的な女性で性格もよかった。
わたしは付き合い始めてしばらくして素子の家に行き、「今日は泊まってゆく」と言う。それなりに世間ズレした中年男なのだ。素子も「いきなりですね」と戸惑うが拒んだりしない。「素子さんは、セックスがうまかった。(中略)寝かせない、などということで激しいセックスしたつもりになる女もいるが、むしろ柔らかな、適度な声と、液の溢出、やりすぎないフェラチオなどが、うまい女なのである。しかし素子さんは、二度目か三度目に気づいたのだが、名器の持ち主だった」とある。
では私が素子さんの身体に溺れる展開になるのかと言えば、そうはならない。じゃあ最初からやめておけばいいのにという突っ込みが入りそうだが、私は物を書く人でなければ好きになれないのだ。「そこからすると、素子さんはムリなのである」。また私は知的な感じの美人好きだ。私は結婚する気がないのに素子さんとズルズル付き合い、素子さんの務め先の弁護士事務所の美人弁護士・美也子とも数回だがセックスし、物書きの男が好きという変わった嗜好の真穂子とも関係を結ぶ。罪悪感はない。セックスした女たちも私に執着しない。もちろん私が女たちにとって、「この男に何を言っても求めてもムダ」という気持ちを起こさせる男だという可能性はあるが、この小説では当然そんな内面的描写は排除されている。
この「モテキ」というより「オフパコの日々」とも言うべきだったろう時代のことは、懐かしくも思えるし、何とも無軌道で悪人だったかとも思う。本当の色男なら、妻がいて愛人をもつのであろう。それにしても、私は自分とセックスしてくれた女に対しては、そのあと少々恐ろしい目に遭っていても、感謝の念を抱いている。
(同)
私は結局ネット見合いではなく、T大大学院生の女性と結婚した。それによって女性遍歴は終わったらしい。作品末尾の女性たちに対する、何とも凡庸な私の感想を責めても無意味だろう。この小説は小説として書くことなど何もない、というスタンスで貫かれている。小さくても事件は起こっている。女性たちの内面にも大きな感情の泡立ちがあったかもしれない。私にもそういう感情があった可能性は皆無ではない。「十条の女」というタイトルがそれを示唆しているだろう。しかし作品は最後まで小説として表現すべき事件も感情もない、あくまで私が結婚するのが当初からの目的なのであり、それとは別に私の男としての生理的欲求を満たしてくれた女はいい女だというラインで貫かれる。
これは確かにあり得べき小説の姿である。現代小説が一度はたどり着くべきデッドエンドかもしれない。極私の位相に留まれば、他者に、社会に求めることなどこんなものだ。相手があるとはいえ結局は自分の都合が優先される。すべての物語が書かれた現代において、小谷野氏が描いたようなデッドエンドから抜け出すのはけっこう難しいかもしれない。
ただまあ浅田次郎や夢枕獏や江國香織の小説を楽しく読めば、デットエンドだと思ったことが一時の気の迷いに思えてくることも絶賛請け合います。何かを決定的に終わらせることなんてできはしない。終わりたければ個人が個人のまま徹底して極私の殻に閉じて、美しい終焉の夢を見ればいいのである。
大篠夏彦
■ 小谷野敦氏の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■