文学業界、特に純文学の世界は本当に厳しくなっている。芥川賞が授与される小説が文芸五誌に掲載された作品か、その母体の版元から出版された単行本に限られるのは常識である。ただそのほかに数社だけ芥川賞作家を出した文芸出版社がある。しかし経営はなかなか厳しい。ただ文学はいまだにノーブルなアトモスフィアを喚起するようで、文学書を出版していることはそれなりにビジネスとして活用できるようだ。
先日健康分野で著名なある医者の方と話していたら、名前の通った文芸出版社から本を出さないかと誘われたと話してくれた。営業マンがシステムを説明しに来たという。もちろん企画ではなく自費出版である。その費用が六〇〇万円だと言われたのだが、どう思うかと聞かれたのだった。
当たり前だが本一冊出すのに六〇〇万のコストをかけていたら出版業は成り立たない。よく話を聞いてみると、大新聞に広告を出す費用も含まれるのだという。出版費用だけでなく広告費も著者に出させる仕組みということだ。大新聞に自著の広告が出ることが、いたく自尊心を満足させる社会的名士の方もたくさんおられるらしい。ただ文芸出版を表看板にして自費のビジネス本を出しているとは聞いていたが、ここまで高額だとは知らなかった。
これに比べれば詩書出版社の自費出版はかわいいものだ。著者がいくら金を持っているのか足下を見る傾向はあるが、最低レベルなら一〇〇万くらいで本を作ってくれる。自分で印刷所と交渉すれば半額くらいで済むが、一応流通に乗る約束なのだから著者も納得できるだろう。詩書出版社はたいてい自費出版が経営の屋台骨だから高いというイメージがある。しかし現実には小説出版社の方が思い切った自費出版費用を設定することが多い。世間知らずの詩人さん集団よりも世の中のことをよく知っているということかもしれない。
詩人さんたちと話をしていると、詩の世界は人間関係で物事が動くことが多く不公平だ、それに比べると小説の世界は公平で・・・という話になることがある。しかし小説の世界だって似たようなものというより同じだ。どこの世界に行ったって公平無私な人間世界があるわけがない。隣の芝生は青く見えるだろうが、相手の立場に立って考えればたいていのことは理解できる。詩書は売れないから自費出版。単純明快だ。しかし小説本は一定部数売れなければ、作家も版元も小説に関わっているとは言えないという不文律がある。だから若さ、美貌、学歴など持っているものは全部使えと言われる。きれい事では済まない。
「この度は・・・・・・、ありがとうございます・・・・・・」
いや、違う。ありがとうございます、なんて言っちゃ駄目。
「この度は・・・・・・、心よりお悔やみ申し上げます・・・・・・」
これも違う。大体お悔やみなんて私が散々言われている側だってば。
洗面台の鏡の前で「悲しそうな顔」と作りながら、そこに映る自分に向かってあれこれ台詞をぶつけてみる。夕食を食べてすぐに始めたからかれこれ十五分は経過している。買い物するのも億劫で、冷凍庫で霜をつけながら長いこと眠っていたうどんを取り出し、出来合いのめんつゆを薄めて温めた鍋の中に入れた。(中略)3倍に薄めたはずなのに塩からかったことの方が気になった。どんぶりに盛って、食べてから気づく。ああ、味見を忘れたんだ・・・・・・と。
(壇蜜「はんぶんのユウジと」)
壇蜜さんは対談、エッセイ、小説などで頻繁にオール讀物に登場しているが、文學界にも小説をお書きになるようになったようだ。何作か読んでいるが、「はんぶんのユウジと」と同様にミステリアスな滑り出しが多い。事件が起こっているのだが、出だしだけ読んだのではそれが何かわからない。ただ小説の最後まで謎をひっぱるサスペンスではない。
「はんぶんのユウジと」の主人公は二十七歳のイオリだ。まだ親元にいてスネをかじっている。聞き分けのいい子だが、主体性がないのでつい親の言うことを聞いてしまう女性でもある。ある日イオリの売れ残りを心配した両親が見合い話を持ってきた。微かな抵抗はあったがイオリは見合いをし、親の期待通りユウジと結婚した。ところが結婚後わずか三ヶ月でユウジが心臓発作で亡くなってしまった。物語はここから始まる。それなりに決定的な事件は起こるが、そこに醒めた現実感覚がまとわりついてくるのがこの作家の特徴である。
好きで好きでたまらない二人・・・・・・ではなかったので、デートも「見合いの延長として済ませておかなくてはいけない儀式」のつもりで数回重ね、結婚式も「両家の面子を保つためにも済ませておかなくてはいけない儀式」としてのぞんだ。ユウジさんは出会った当初とかわらず猫背で声も小さく、引っ込み思案だったが、夫婦になるまでの過程で逃げ出すことも反抗することもなく、素直に流れに身を任せているようだった。
私たちは似ていた。自分で決められない所も、流れに任せてしまう癖があることも、期待されていないことをすぐに察せられるところも。私もユウジさんも「親の期待」を感じる機会が少なかったと思う。
(同)
うんと自己評価の低い女性も壇蜜さんの小説にはしばしば登場する。何かを成し遂げようとしてできなかったという忸怩たる思いも抱えている。だが弱い女性ではない。
なぜか過剰なまでに自分は底辺の人間だという意識があるから醒めているのだ。自分にも他人にも大きな期待を抱かないので、流されたまま平気なのだとも言える。そして冷静に周囲を観察し分析しているので驚くほど危機的状況に強い。こういう女性(男性も)はいる。イオリは悲劇のヒロインとしか言いようのない立場に押し込められてしまったが一切動揺しない。自分の両親と夫の両親を観察して適切な自分の立ち位置を選ぶ。そして彼女なりに短い結婚生活を送った夫を理解しようとする。
結婚前にイオリはユウジと動物園でデートした。敷地内のカフェで食事することになったのだが、優柔不断なイオリは「ビーフシチューもいいけど、ハンバーグもいいな」と思わず呟いた。するとユウジが「僕もその二つがいいなと思っていましたから、半分にしませんか」と言ったのだった。ビーフシチューもハンバーグも分けにくい。イオリが危惧したとおり、取り皿に分けた料理はちょっと汚なく見え、冷めてしまっておいしくなかった。しかしそれが独身時代を含めてユウジが唯一自分の意見を押し通した出来事だった。
わずか三ヶ月の結婚生活でまだ二十七歳のイオリは、葬儀が済んでしばらくしてから両輪といっしょにユウジの実家に挨拶に行った。いずれ縁が切れてしまうのは明白だ。それがわかっていてもいつまでも息子の嫁と思いたいのか、ユウジの母親は「イオリさんがお嫌でなければ遺骨をお分けします」と言う。イオリの両親は娘のことを思い、当然婉曲に断ろうとする。しかしイオリは迷った末に分骨を承諾し「ユウジさん、お家に帰ろう」と言う。ヒューマニスティックな湿っぽさは一切ない。イオリと結婚する前にユウジが一度だけ動物園で自我を押し通したように、イオリにとってそれが両親に背き自己の意志を通した最初の選択だったのかもしれない。ユウジは半人前で遺骨も「はんぶんのユウジ」になってしまったが、イオリだって同じなのだ。
新聞の折り込みチラシを玄関に置き、台所から手掴みで持ってきた「尖った骨」を置く。膝立ちになってビニール傘の真ん中を持ち、上から力を入れて骨を砕く。すぐに骨は割れ、チラシの中で砕けた。広げたチラシの外に骨が飛び出さないように注意しながら四回同じことを繰り返すと、尖りはすっかり粉々になった。傘をしまい、チラシの中心にそれらをあつめ、台所に置きっぱなしの蓋の開いた容器にサッと流し込む。今度はこぼさずに出来た。
蓋を閉める前にユウジさんの使っていた香水を容器に向かってシュッと吹き付ける。突然の水気に粉になった表面の骨たちが「わっ」と驚くように浮き上がった気がした。
(同)
マンションに帰るとイオリは骨壺の蓋を開き、骨をつまんで匂いを嗅いだ。強烈な異臭だった。イオリは異臭を取り除いてやり、骨を辛気くさい骨壺から出してやることに決めた。キッチンの流しでキレイに洗い、尖った骨はチラシに包んでビニール傘の石突きで砕いた。そうしなければ新しい骨壺に入らないのだった。イオリが用意した骨壺は、冷蔵庫の中にあったショッキングピンクのフルーツポンチのプラスチック容器だ。そこに収まった骨にユウジが愛用していた柑橘系の香水を振りかけた。これもユウジの数少ないこだわりの品だった。イオリは新しい骨壺を枕元に置いて寝た。朝起きて「昨日までは不安だった。しかし、今日枕元に「ユウジさん」を見つけ、少し違う気持ちだった」とある。何かが変わり始めている。
ただ「はんぶんのユウジと」ではその〝何か〟が突き詰めて描かれていない。描き尽くすには枚数と事件の起伏が不足している。また骨壺を開けて骨を見て、迷わず触り、それを自分の物にしてしまうこと――つまり他者と世間(社会)の底の底まで見てやりたいという主人公の欲望も十全に描かれているとは言えない。ただ壇蜜さんの小説は同じような欲望を巡ることが多い。テーマがある作家だということだ。あと少しの小説作法を体得すればさらに魅力的な作品になる。小説家には多かれ少なかれ付加価値的魅力が必要だが、それには事欠かない作家であるのは言うまでもない。
大篠夏彦
■ 壇蜜さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■