野田秀樹が「エッグ」という長い戯曲を載せている。戯曲を文芸誌でじっくり読む機会というのも、あるようでなかなかない。
エッグというのは壊れやすい玉を運ぶスポーツ競技だ、ということになっている。舞台はオリンピックで盛り上がる日本。時代は過去に遡っているようだ。東京オリンピックの頃、というより満州国の記憶も新しい、戦後日本。
読む者 (観る者) にとって幸いなのは、この戦後への遡及がこのところよくある震災を契機に、といったものではないことだ。オリンピックなのだから、ロンドン五輪を契機としたものに違いなく、そしてその契機に「過剰な意味」はない。
私たちが「過剰な意味」を嫌うのは、それが結局は「嘘」だからだ。あの震災の直後、一瞬は誰もが戦後を想起したことは確かだ。特に直接被災した人々は、今も長い戦後、いや戦中を生きていると言っていい。けれども文学の、あるいは演劇の契機として、それがあの太平洋戦争の記憶に結びつく、といった御託は、通りよさげな「嘘」に過ぎない。
オリンピックは私たちにとって、つい先ごろの日常的な出来事である。それが日本で開催されても、現代の私たちにとっては同じことだ。それが何らかの「意味」をはらんでいた時代を思い起こすなら、それこそがまぎれもなく戦後だった。
野田秀樹の戯曲、演劇は音楽的だ。あらゆる言葉の意味は、その社会的な背景をぎりぎりまで削り取られていると思う。けれども、まったくなくなってしまったわけではない。言葉である以上、それを完全に剥ぎ取ることもまた欺瞞だと思う。
野田秀樹が素晴らしい劇作家なのかどうか、正直よくわからない。ただひとつ言えるのは、嘘とか欺瞞とかには敏感で、それを注意深く排除しているようだ。過剰な意味、力のこもったメッセージなどはたいてい埋め草の劇評とか、お上の補助金とかを当て込んだゴマスリみたいなものだ。そんなことをするために芝居をやってるわけじゃない、という潔癖な知性を感じる。
かつての野田秀樹の言説で忘れられないのは、あの『快刀乱麻』=「か・いとうらん・ま」で、「釜の中から伊藤蘭が飛び出した」と解いたことだった。その通りの芝居だったのだが、野田秀樹が言うように、それが本当に無意識的な偶然なのか。その読解があっての作劇だとする方が本当らしい。
そうであっても、それは「嘘」の部類ではない。重要なことは、そういった冗談、意味希薄でややくだらない言葉たちが寄せ集まり、その自重で妙な盛り上がりが生じ、さらに奇妙な劇的感動が生まれることがある、ということだ。あの傑作『小指の思い出』のように。
しかしそれはテキスト上ではなく、やはり存在の意義が希薄でややくだらない、私たち「人間」が寄せ集まった舞台の上でしか起きない、僥倖というものに違いあるまいが。
長岡しおり
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■