文学部の学生だった頃から、文学といえばもっぱら小説と詩を指すことだと思っていたので、正直なところ俳句や短歌にはほとんど興味が無かった。とにかく小説といえば、やれジョイスだぁプルーストだぁ、詩といえば田村隆一だぁ吉増剛造だぁのなかで、短歌は夢見る少女たちの、俳句なんて御隠居様の趣味だくらいにしか考えていなかった。仏文学者桑原武夫の第二芸術だけは聞きかじっていたことも一因かもしれない。とにかく生意気盛りの学生にとって俳句は文学では無かったってことだ。
その頃、文学仲間の間で吉岡実の評価が一挙に高まったことがあった。ちょうど詩集『薬玉』が出た頃だった。もちろんそれまでも凄い詩を書いてはいたんだけど、なにせ詩集が高価で手に入らなかったし、マイナーなイメージもあったりでなかなかとっつきづらかったんだと思う。そして何よりも若手をリードする詩人たちがこぞって吉岡実を持ち上げだしたってのが大きかった。それは「書紀」の平出隆とか「麒麟」の松浦寿輝、朝吹亮二ってところのことだ。松浦寿輝なんかは処女詩集「ウサギのダンス」の函に、吉岡実の推薦文を印刷しちゃってたくらいだから。
『薬玉』が衝撃的だったのは、日本古来の土俗的な文化を再認識させられたってことだと思う。つまり外国文学専攻特有の翻訳文学理論かぶれの仮面を引っ剥がしてくれちゃったってことに尽きる。日本語の世界に秘められてきた奥義に、理屈っぽいポストモダニズムなんか吹っ飛んじゃったってわけ。それからはとにかく吉岡実を読みまくった。詩はもとより数少ない散文まで。散文は『「死児」という絵』という書名で一冊にまとめられ少部数刊行されていたが、その後の散文を加えた増補版と改められて、筑摩叢書の一冊として安価に買えるようになったから助かった。さっそく買ってむさぼるように読んだ。そしてたちまちその、潔いほどむだの無い文章に酔い痴れることとなった。
『「死児」という絵』の散文はいずれもが、どちらかというと短いエセーともいうべき小品だが、俳句に関する文章のあまりの多さと、そこに登場する名前も聞いたことのない俳人たちに驚いた。
少年時代から好きだった俳句にいまだ大変愛情をもっている。虚子、芽舎、誓子、赤黄男、三鬼、楸邨、草田男、波郷から前衛俳句の加藤郁乎までたえず読んでいる。むしろ読まずにいられないのである。こころの一つの慰めといえようか。とりわけ、神戸隠棲の永田耕衣を逸するわけにはいかない。
〈「読書遍歴」より〉
虚子や誓子くらいならわかるが、赤黄男、永田耕衣とは何者か。加藤郁乎の詩なら読んだことはあるが、前衛俳句ってなんだそれ。そもそも俳句に前衛とは。吉岡曰く。
昭和三十六、七年ごろ大岡信の紹介で、私は高柳重信と出合ったように思う。なぜなら、第二回「俳句評論賞」の選考を強引にもさせられているからだ。その席で、岡井隆、金子兜太とも初めて会った。「遠い空家に灰満つ必死に交む貝」「雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う」の作者、安井浩司を推したが入賞を逸している。この頃より、前衛俳人たちの句集を読み、私は「前衛俳句」に関心を持つようになった。
〈「高柳重信断想」より〉
この200字足らずの文章を読んで、安井浩司という名が前衛俳句のさらに最前線であるがごとく、脳裏に刻み込まれてしまったのだ。
だが、安井浩司はそうやすやすと前衛俳句をわからせてくれたわけではなかった。そういう意味では高柳重信はわかり易かった。俳句を数行に分けて表記するその独特の方法自体は、行分け表記が当たり前の詩からみればそれほど奇異だったわけではない。しかも重信はどちらかというと仏文学系統の匂いがしたし、作品も象徴詩と同じように読み解けるものが多かったから、前衛俳句としては親しみ易かったといってもよい。それに反して安井浩司の俳句は、けっしてとっつき易かったとはいえない。
『「死児」という絵』にもどるが、「重信と弟子」と題した小文で列挙された3人の弟子のなかでも、吉岡が筆頭に挙げているのが安井浩司である。その「諧謔と妖気」と題された文章の全文を引用してみたい。
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 安井浩司
安井浩司は永田耕衣を師と仰いでいる。だから、高柳重信の弟子と言うのはためらわれるが、しかし兄事していたことは確かである。この句は「麦秋の厠ひらけばみなおみな」とともに、私の好きな句である。ものうい昼さがり、小屋も人も瞬時に消滅して、辺りは一面のすすきの原。もしかしたら、小屋などは最初から無かったのかもしれない。
昭和三十七年ごろ、高柳重信に乞われて、私は一度だけ「俳句評論」の賞の選考に加わったことがあった。その折、「遠い空家に灰満つ必死に交む貝」「雁よ死ぬ段畑で妹は縄使う」の作者を推した。それが安井浩司であった。惜しくも入賞は逸したが、以来この若い俳人の作品営為を、私はずっと見守ってきた。
処女句集『青年経』から一貫して、安井浩司は「カオスを今日的に創造する」ために、試行錯誤をかさねているようだ。じつに永い年月を。そして今、一つの達成を思わせる『乾坤』と『氾人』の二句集をつづけて上梓している。まさに、地霊と人間とが交感し合う野の祝祭の世界である。
麦秋の大地を掏摸(すり)と歩みけり
箒草殖えても悲しき鶉かな
わが農園に神は尿せり雨燕
永遠にのこぎり草が食卓に
〈「重信と弟子」より「2.諧謔と妖気」全文〉
文末に引用した4句は『乾坤』と『氾人』の掲載句だろうが、歩いていく相棒としてなぜか掏摸を呼び出したり、神をして農園に立小便をさせたりと、まさに吉岡好みの諧謔の句ではある。しかし、一方で「妖気」というところの何ものかを、この句の言葉から指摘するのは難しい。それは言葉の背後に立ち昇ってくる陽炎のようなもので、確かに存在を感じるのだが触れることができない類のものに違いない。それが今日的に創造された「カオス(混沌)」なのかもしれない。
さて、吉岡が安井のことを単独で書いた文章は、実は1ページにも満たないわずかにこれだけである。安井の師である耕衣や重信や、重信の師である富澤赤黄男などは特別として、安井と同年代の俳人である河原枇杷男に関しては、「枇杷男の美学」と題して6ページにも亘って書いている。しかもそれぞれの初出を較べるに、「枇杷男の美学」は「諧謔と妖気」を遡ること7年余り前に書かれている。
一見ふたりの待遇に格差があるかのように思えるが、もちろんそれぞれを評した文章を読めば、吉岡が安井よりも枇杷男を特段高く評価していたとは限らないことはわかる。しかし、いまこうして二つを並べて読み返すに、吉岡にとって枇杷男の俳句が美学という概念に還元し得たのに対し、安井の俳句は「カオス」とか「妖気」としか言いようのない、概念として抽象化し得ないある種の神秘性を感じ取っていたのではないだろうか。そしてそれこそが吉岡にとって、逆の意味で「癪の種」であった、といっては言い過ぎだろうか。
『薬玉』によって日本的風土の土俗性を暴いた吉岡実をして、「妖気」と言わしめた安井浩司の俳句は、それから4半世紀を経て、「地霊と人間とが交感し合う野」という現世を離れ、天上をも巻き込んだ絶対的空間を獲得せんばかりの勢いである。いずれその俳句世界が、吉岡の眠るあの世へと辿り着く日は近い。
高木高志
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■