OM-2 『ハムレットマシーン』
鑑賞日:2018年3月22日
於:SUNNY HALL
作 ハイナー・ミュラー
構成・演出 真壁茂夫
出演
佐々木敦 柴崎直子 金原知輝 村岡尚子 鈴木瑛貴 ポチ 畠山佳乃 田村亮太 笠松環 坂口奈々 相良ゆみ 高橋あきら 高松章子 田中ぽっぽ 丹沢美緒 ふくおかかつひこ 山口ゆりあ 他
舞台監督 田中新一
舞台美術原案 若松久男
舞台監督助手 長堀博士(楽園王)
映像 金子昭彦 町山葵
照明 三枝淳 安達直美 針谷あゆみ 伊藤侑貴 和田光里 西村菫
音響 佐久間修一 川村和央
舞台スタッフ
株式会社ステージワーク URAK
小澤真史 武田左京 長津ゆかり 松島ちひろ 中野雄斗 齊藤理恵 三浦寛士 近藤康弘 香川望 記録写真 田中英世 塚田洋一 山口真由子 田中館裕介
記録撮影 PLASTIC RAIN
記録映像 船橋貞信
演技アシスト 中井尋央 丹生谷真由子
サイトデザイン 川村和央
宣伝美術/制作 金原知輝
企画・制作 Workom
円形舞台を縁取って取り囲む二階建て観客席のめいめい好きな席に座すと、観客の視線は舞台中央の巨大な白い板張りのスクリーンに集中する。舞台を二つの半円に分かつこのスクリーンの手前と向こう、それぞれの半円舞台に「ハムレットだった男1」と「オフィーリア1」が立ち、観客席の前後の通路ではロードバイクに乗った「マシーン1」と「マシーン2」がぐるぐると周回する。それぞれの半円舞台で五幕仕立ての『ハムレットマシーン』の第一幕「家族のアルバム」と第二幕「女のヨーロッパ」が同時進行する。私は半円舞台のハムレット側をほぼ正面から眺める席を選んだ。そのためスクリーンの向こうでオフィーリアがどのような振る舞いをしていたかわからない。片や「ハムレットだった男」は「生か死か」から始まる第四独白の演説をビデオ撮影し、テレビに映して再生し、また撮り直す。二台のロードバイクの無限の周回とハムレットだった男の出口の見えない反復は、円形舞台構造と相まって「時計」を思わせる。時間、あるいはその一形態としての歴史は、戯曲『ハムレットマシーン』の主題、というよりはその迷宮的な〈テクスト〉の発生源だ。時計が機械なら、歴史も機械である。動力を食って、噛み合わせた組織が回転し、磨り減る。
ハムレットだった男がスクリーンの向こうのオフィーリアに電話をする。『ハムレットマシーン』第一幕の冒頭ならびに第二幕の冒頭が二人の極めて現代的な会話の中に再現される。しかし会話には次第にズレが生じ、ダイアローグと思われたものはモノローグの応酬とすり替わり、理由なく反復される。反復はビデオ録画とその再生によってさらに複製される。ハムレットだった男は「私はハムレットだった」と幾度となく発話し、その台詞を床に、その肉体に書き込んでは抹消するのを繰り返す。狂気じみた反復はすなわち、舞台上に反復・複製され、無数の上演を重ねてきた『ハムレット』の上演史でもある。本当のところ、我々観客は真実のハムレット王子を我が目で見極めようなんてことにはちっとも興味がない、ハムレット王子の無数の複製品が無数の真実らしさでありさえすればいい――上演史はそういう鑑賞史でもあった(観客は作らない、食すだけでよかった)。歴史を時計の架構をもって表象するOM-2の舞台は、上演史と鑑賞史を同時に眺める視野を観客に提供している。私の席からはハムレットだった男と、スクリーンの向こうで行われているオフィーリアの上演を眺める観客の顔が見える。無数に複製される『ハムレット』と無数に反復される観劇行為が時計のムーブメントとなって回転し、いまもどこかで磨り減っている。しかし今この舞台にあるのは、『ハムレット』上演の舞台裏、上演前、上演後、つまりこれから始まりすでに終わった『ハムレット』の廃棄物の集約である。
『ハムレット』の無数の上演/反復が、戯曲『ハムレット』に無限の摩耗をもたらした。我々はじつになめらかに動作する『ハムレット』を容易に想像できる。言葉を燃料にして発生した肉体の躍動が少しのロスもなくその味わいに還元されていくような――そのような理想の上演さえも夢見ることができる。いっぽう摩耗によって削れた無数の破片はどこに消えてしまったのか。一度公演が終われば舞台から掃き清められてしまうのか。我々の口に入ったその塵は、血にも肉にもならずに排泄されてしまうのか。『ハムレット』上演史の時計の滑らかなムーブメントのために、なにが削り取られてきたのかを晒しあげた円形舞台は、仕切りのスクリーンが上昇して水平な天井となったところで、ある俳優の「部屋」へと変貌した。『ハムレット』から『ハムレットマシーン』へ、俳優と観客の焦点が移ったように感じられた。第三幕「スケルツォ」。ただしこの一幕は、そのほかの四幕をも内包する。
『ハムレットマシーン』は『ハムレット』の無数の破片、『ハムレット』上演史の無数の断章、『ハムレット』の劇場を周囲する社会史の無数の記事を、わずか3ページ足らずの戯曲の肉体に書きつけ、抹消し、消し残されたうえにさらに書きつけたような、様々な〈テクスト〉の小さな堆積である。言葉は劇の内外、劇場の内外、俳優と観客の双方向に拡散する。想起されうる〈テクスト〉は戯曲の外からやってきて、戯曲内に布置された言葉の周りに靄のように仮留めされている。作者ハイナー・ミュラーは、1986年の『ハムレットマシーン』上演を演出したロバート・ウィルソンの仕事について、次のようなコメントを残しているという。「彼はテクストの解釈など決してしないだろう。[. . .] いいテクストというのは演出家や俳優による解釈など必要としない。テクストが言うことはテクストが言う。[. . .] 解釈は観客の仕事であって、舞台で起こってはならないのだ。観客からこの仕事を奪ってはならない。観客からこの仕事を奪うのは消費主義、噛んだものを食べさせる」(『ハムレットマシーン――シェイクスピア・ファクトリー』岩渕達治訳 谷川道子解説 1992 p.317)。ミュラーは『ハムレットマシーン』の言葉と付随する〈テクスト〉がその未編集の、あるいは無限の草稿状態のままに観客/読者に提示されることを望み、解釈によって完成され方向付けられることを怖れた。OM-2の『ハムレットマシーン』はこのミュラーの怖れに同調するものだった。
冷蔵庫、テレビ、2ℓのコーラ、ポテトチップス、それらの破壊。舞台上の事物と俳優「ハムレットだった男2」の振る舞いは戯曲の断片を逐語的に体現するように布置されている。「部屋」の内装をあらかた破壊し尽くしたところで、俳優はおもむろに舞台に掃除機をかける。その排気口には巨大な透明ビニールの袋が取り付けられていて、排気でむくむくと膨らんでいく。俳優がビニール袋の中に入ると、赤いドレスを身にまとい、ハムレット/オフィーリアに変貌する。ハムレットとオフィーリア、双方の台詞を発話しながら、ビニール袋の中に用意してあった消火器を手にする。子供を抱き寄せてその首を締め上げるように慈しみ、俳優はビニール袋の密室の中で消火器を噴出する。白く濁った舞台の排気。俳優は舞台の塵と排気を吸い込みながら発話を続ける。それは窒息をもたらす白い靄となってわかりやすく提示された、俳優の呼吸/言葉そのものであった。言葉は俳優の肺を膨らませるとそのまま喉を通り出ていく。そして「部屋」を満たし、俳優の肉体を白く染め上げる。
やがてビニールを破いた俳優は、消火剤で真っ白に汚れた肉体を引きずるようにして、舞台上を徘徊する。第四幕「ブダのペスト グリーンランドをめぐる闘い」に移行。俳優の部屋になかにまで暴動に猛る民衆がプラカードを手に押し寄せる。一斉射撃によって暴動が鎮圧され民衆の骸が転がる。俳優はその骸に寄り添い、掻き抱く。何千枚という数の俳優の写真が降り注ぐ。台詞の発話は続く。発話は最後まで続く。「私はもう食べることも、飲むことも、息をすることも、女や男や子供や動物を愛することもしたくない。私はもう死にたくない。私はもう殺したくない。」「わたしの産んだ世界を回収します。わたしの産んだこの世界を、股の間で窒息させます。」ハムレット/オフィーリアは、自らの「部屋」の中で「私の消滅」「世界の消滅」を宣言する。第五幕「激しく待ち焦がれながら/恐ろしい甲冑を身にまとって/数千年世紀」。俳優たちが皆去ったあとの舞台に一人立つのは「オフィーリア2(エレクトラ)」生魚をかじりながら、観客を不思議な目つきで眺め回す。
OM-2が『ハムレットマシーン』の中心に据えたのは、俳優の肉体のメカニズムそのものであった。俳優の肉体を一個の「部屋」としたときに、その空間を満たす上演反復行為の塵と排気が、俳優の肉体を成立させる。しかしそこに窒息をもたらす白い靄、すなわち〈テクスト〉が立ちこめていく。俳優が〈テクスト〉に窒息するその間際にビニールを破るという破壊は、俳優の肉体が〈テクスト〉に充満することを危険視することを観客に知らしめる直接的な提示であった。一つの完結した存在が破り捨てられることで、無害で安逸な上演(史)と観劇(史)の不成立を宣言した。それは同時に、ある特定の〈テクスト〉で満たされることなく、暴動のなかで民衆とともに撃ち殺されることもできない、俳優の宿命でもある。たとえ言葉が死に絶えて、ある特定の〈テクスト〉の氾濫によって世界が海中に没することがあっても、俳優は海底に存続する。あらゆる〈テクスト〉に隷属することなく、ただ台詞が回ってくるのを待ち続ける、したたかで無防備な、しかし決して窒息することのない開かれた存在なのである。
星隆弘
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