今号の特集は「俳句にタブーはあるのか?」で、孫俳句、ペット俳句、カタカナ俳句、エロス、季重なり、切れ字重複、三段切れなどが検証されている。これらの俳句は基本的に御法度らしい。編集部の意図は「タブーと言われるものには、禁止というより、なるべく避けた方がいいというニュアンスを感じる。それはなぜか?を考えてみたい」ということである。
ただタブーの例句には芭蕉や蕪村、虚子ら大物俳人の作品が並んでいる。作家として俳句の表現可能性を追求するなら、むしろタブーに抵触するのが普通だろう。〝名人は危うきに遊ぶ〟のである。「なるべく避けた方がいい」のは初心者に対する忠告である。ただ初心者はずっと初心者レベルに留まっているものだというのでは、初心者啓蒙を主眼とする商業句誌や結社誌にとっては絶対矛盾になる。
本当にタブーに切り込むなら、一種の絶対階級社会として、主宰の先生を神聖不可侵とする俳壇風土が一番の問題である。俳壇は実態として、独立して自分の結社を持ち、なおかつ相当数の門弟を集めなければストレートに物すら言えない場所だ。多行、無季無韻を含め、タブーと言われる表現を探求する結社や同人誌はいくらでもある。ただたいていは少人数の集団なので、作品の善し悪しを云々する以前に、俳壇のメインストリームから完全シカトされている――存在していないという扱いを受けているだけのことである。
さて今号では「杉田久女と橋本多佳子~二人が愛した北九州」の小特集が組まれている。杉田久女は明治二十三年(一八九〇年)生まれで昭和二十一年(一九四六年)没、享年五十六歳の俳人である。「ホトトギス」系の最も優れた初期女流俳人として知られる。久女を有名にしたのは、その苛烈な俳句狂いの姿勢だろう。田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる・・・・・・』を始め、松本清張らの小説家も久女に強い興味を抱いた。虚子も『國子の手紙』で久女について書いている(虚子全集では小説に分類されている)。久女は熱狂的な虚子崇拝者だったが虚子は彼女の手紙を黙殺し、久女が上京した際も会おうとしなかった。
はじめこの國子(久女のこと)の手紙を見ておかしいなと気がついたとき、まさかGのような病気とは思わなかったが、兎に角普通の状態とは違っていると思われたので、念のためにその手紙をとって置くことにしたのである。それは六年間続いて、二百三十通に達したのであった。が、その後昭和十五年からはふっつり来なくなった。どうしたのかと思っていると、昭和二十一年に死んだという知らせがあった。
國子はその頃の女子としては、教育を受けていた方であって、よこす手紙などは、所謂水茎の跡が麗しくて達筆であった。それに女流俳人のうちで優れた作家であるばかりでなく、男女を通じても立派な作家の一人であった。が、不幸にして遂にここに掲げる手紙のような精神状態になって、その手紙にも後には全く意味をなさない文字が乱雑に書き散らしてあるようになった。
又私の外、他の多くの人にも手紙を出しているらしかった。それは俳人仲間ばかりでなく、その頃文壇で有名であった人にも出しているらしかった。それらの手紙はどうなったか、恐らく狂人の手紙として打ち棄てられたものと思う。
(高濱虚子「國子の手紙」)
久女好きにとってはなかなか辛い文章だが、「あーなるほど」と言ってしまうような内容ではある。虚子は功罪相半ばする近代俳句の超大物だが、大結社を束ねる常識人だった。久女の手紙に危うさを感じ、用心深く距離を置いたのである。
昭和十一年(一九三六年)に、久女はなんの理由も通告されずに日野草城らとともに「ホトトギス」を除名されたが、久女の除名に関しては、虚子の教育的指導だったかもしれない。虚子は久女の過剰な思い込みに応えられる何物も持っておらず、頭を冷やせということである。
再三にわたって久女は句集序文を書いてくれるよう頼んだが、虚子は応じなかった。序文を書けば書いたで、その後に起こる波乱を危惧したのだろう。ただ『久女句集』は彼女の死後に長女の石昌子によって刊行されたが、虚子はその序文を引き受けた。久女は虚子の冷淡を恨みに思っただろうが、周囲の人間は久女と虚子の関係を冷静に見つめていたということだ。虚子は序文で久女俳句を高く評価している。こういった形でしか友愛を示せない文学者はいる。それほど珍しくないとも言える。ただ久女が優れた俳人だったのは確かである。
うらゝかや斎き祀れる瓊の帯
藤挿頭す宇佐の女禰宜はいま在さず
丹の欄にさへづる鳥も惜春譜
雉子なくや宇佐の磐境禰宜独り
春惜しむ納蘇利の面ンは青丹さび
(杉田久女「ホトトギス」昭和八年[一九三三年]七月号雑詠欄巻頭)
「ホトトギス」昭和八年(一九三三年)七月号雑詠欄の巻頭を飾った久女の句である。当時「ホトトギス」の巻頭を占めるのは大変な栄誉だった。大分県の宇佐神宮を訪問した際の連作句である。
「ホトトギス」的写生句だが、一読してすぐ気づくように見慣れない漢字が多い。現代の俳句でも、このくらいすんなり無理なく古語の漢字を並べてまとめた句は少ない。この時期の久女は画数の多い難解な漢語で埋めることで、写生句を立体化しようとしている。久女の句は常に過剰なのだ。それが表記面に表れた連作である。
蝶追うて春山深く迷ひけり
花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ
われにつきゐしサタン離れぬ曼珠沙華
夏草に愛慕濃く踏む道ありぬ
朝顔や濁り初めたる市の空
谺して山ほととぎすほしいまゝ
ぬかづけばわれも善女や仏生会
風に落つ楊貴妃桜房のまゝ
紫の雲の上なる手毬唄
張りとほす女の意地や藍ゆたか
蟬涼し汝の殻をぬぎしより
龍胆も鯨も掴むわが双手
(杉田久女 特集「句セレクション」より)
「花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ」にあるように、久女の内面には複雑な想念が蠢いていた。「朝顔や濁り初めたる市の空」は、工場が操業し始めて煙がたちこめた空を描写した写生句だが、久女の場合は内面表現だと言っていい。ただその想念は「紫の雲の上なる手毬唄」のように天上へと駆け上り、「龍胆も鯨も掴むわが双手」で表現されていているように、微視から巨視の間を大胆に往還する。
この作家が俳句を作ることで、文学に没入することで、どれほどの精神の救いを得られたのかと考えるとちょっと息苦しい。しかし「張りとほす女の意地や藍ゆたか」にあるように久女は自ら選んだのだ。虚子的に突き放せば、この作家は自らの文学のために、他者からは苦悩ばかりと思われるような、混乱と反発の坩堝を必要としていたのだとも言える。
星空へ店より林檎あふれをり
蟻地獄孤独地獄のつゞきけり
螢籠昏ければ揺り炎えたゝす
乳母車夏の怒濤によこむきに
日を射よと草矢もつ子をそゝのかす
一ところくらきをくゞる踊の輪
祭笛吹くとき男佳かりける
いなびかり北よりすれば北を見る
青蘆原をんなの一生透きとほる
この雪嶺わが命終に顕ちて来よ
(橋本多佳子 特集「句セレクション」より)
橋本多佳子は明治三十二年(一八九九年)生まれで昭和三十八年(一九六三年)没、享年六十四歳。虚子「ホトトギス」の俳人として出発したが、山口誓子に師事し秋櫻子主宰「馬酔木」で活躍した。戦後は女流俳人の第一人者とみなされるようになった。
多佳子は実業家・橋本豊次郎の妻で、豊次郎死後に苦労することなるが、いわば有閑夫人として俳句を始めた。虚子が豊次郎と住んでいた福岡小倉の櫓山荘を訪ねて来たことが句作を始めたきっかけて、久女が多佳子の俳句の手ほどきをした。久女の方が九歳年長である。
虚子は多佳子の句集『海燕』の序で「橋本多佳子さんは、男の道を歩くその稀な女流作家の一人である」と書いている。的確な評だと思う。「蟻地獄孤独地獄のつゞきけり」「蛍籠昏ければ揺り炎えたゝす」といった句は、その気になれば女の情念の文脈で読むこともできる。しかしそうではない。多佳子の句には一般論の手触りがある。男女を問わず「蟻地獄孤独地獄」は続くのだ。情熱を燃え立たすために「螢籠」を揺するのは誰でもやっている。俳句王道に沿った写生句の文脈にいる。
多佳子の資質は「星空へ店より林檎あふれをり」「いなびかり北よりすれば北を見る」といった、お嬢さんらしい素直な句に最もよく表現されている。表現が中性的な普遍を目指している。その意味で久女俳句とは大きく質が異なる。「青蘆原をんなの一生透きとほる」は久女悼句だが、久女という作家の内面深くに立ち入らない。終わってみれば誰の人生も透明ということだ。
もちろん多佳子をくさしているわけではない。若い頃に九州で師弟として交わった二人だが、多佳子を指導したのは久女だけではない。多佳子が最も影響を受けた俳人は誓子である。また久女的俳句は同時代の中村汀女が濃く受け継いだ。同郷で同じ時期を過ごした女同士だから、深く理解し合っていたはずだというのは男が抱く一種の性差別的幻想に過ぎない。現代の女性なら「んなわけねーだろ。自分の胸に手を当ててよーく考えてみろよ」と言うでしょうね。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■