今号の特集は「反戦特集 平和の礎となった俳句」だが、例によって例のごとくと言うべきか、何をしたいのかさっぱりわからない。「反戦」というのは誰が考えても〝戦争反対〟という立場であり意思表示だろう。北朝鮮と中国という、世界でも数少ない全体主義国家と全体主義体制の遺風を残す国のプレゼンス増大によって、またアメリカ・トランプ政権の不安定さから、現代は戦争前夜だと言う人もいる。そうすると「反戦特集」は時事ネタということになる。しかしそこに「平和の礎となった俳句」がくっつくと話が違ってくる。
「平和の礎」と言うからには第二次世界大戦(太平洋戦争)が前提になっているわけだが、この時代を背景とする「反戦」と「平和の礎」には大きな隔たりがある。言うまでもないが太平洋戦争中の日本で反戦の意思を表明するのはものすごく難しかった。ほぼ不可能だったと言ってよい。京大俳句事件を持ち出すまでもなく、日本の〝聖戦〟に反旗を翻す者は容赦なく弾圧され、その矛先は家族や親類にまで及んだ。作家・政治活動家を問わず反戦表明する者を、日本人の大半が白眼視していたわけだ。父や夫や息子が従軍している家庭が多かったのだから、それを単純に責めることはできない。できれば勝って早く戦争を終わらせて欲しいと願うのが人情だ。歴史の襞を探ればすぐわかることだが、戦中と戦後では反戦の重みがぜんぜん違う。
戦中の集団催眠から覚めたように、戦後になって多くの作家が反戦と平和への希求を表現するようになった。確かに戦争直後の表現には痛切な自己批判が含まれることが多かった。しかし次第に緩い表現に傾いていった。現代はそんな緩い反戦・平和の時代である。覚悟が試されるのは、当たり前だが危機が目の前に迫った時である。
日本に限らずどんな政府だってバカじゃない。良くも悪くも無責任な文学者よりも痛切に危機の自覚を持ち、その意思を示した上で現実制度を動かしてくる。戦争の危機が高まれば、ありとあらゆる手を使って言論を統制し、国論を誘導して戦争に突き進んでゆく。「自己責任」と言い放って、時に同胞を見殺しにできるのが政治家なのだ。またたとえば尖閣などで偶発的衝突が起こり、同胞が数人亡くなっただけでも世論の流れは大きく変わる。たいていはぬるいヒューマニストである文学者は右往左往するだけだろう。そういう状況の中でも反戦を叫び続けられるのかといえば、心許ない。たいていの人はすぐに沈黙する。それが人間というものだ。平和な時代の安全なシュプレヒコールなど、文学者のやることではない。
作家なら〝あいつは反体制を気取ってるけど、戦争になれば真っ先に大政翼賛会に参加するタイプだよ〟という作家の名前を、一人や二人すぐに挙げることができるはずだ。田村隆一は恐らく彼自身を含めて「詩人なんて人間のクズだ」と吐き捨てた。文学の世界は昔から、文学は無条件に崇高だ(崇高であるはずだ)と考えている(希求している)社会的落伍者の吹きだまりでもある。そういった社会落伍者の中から、戦争のどさくさに紛れて隠微な権力指向を満たそうとする輩が必ず現れてくる。先の大戦中もそうだった。文学者が信用できるわけではぜんぜんない。むしろ社会的落伍者の権力欲は邪悪だ。もちろん田村さんの放言は反語である。彼は落伍者を、乞食を徹底できたから孤独な聖なる詩人だった。中途半端な社会的落伍者がいつだって文学を腐らせる。たいていの詩人はスポットライトを浴びれば溶けて消えてしまう意気地なしに過ぎない。
国家が戦争状態に突入するときの反戦表明は、反権力・反国家思想の明確な宣言であり、それは必ず弾圧される。相当な覚悟が必要だ。戦争最中のとてつもなく厳しい状況を前提とすれば、反戦は究極的には政治的態度であり信念である。生ぬるい文学の問題ではない。政治闘争である。だが文学者の役割は違う。あえて戦争反対という善男善女の穏当な心を逆なでするようなことを言えば、作家が反戦から戦争翼賛へと進んでゆく自己の心性を、ウソと保身も含めて微細に描き出せば、それは文学作品として価値あるものになる可能性はある。
「反戦特集 平和の礎となった俳句」といった特集は、はっきり言えばジャーナリズムがその場限りの思いつきで生み出したお題目に過ぎない。誰だって「反戦」と「平和」を政治として、あるいは文学として考え詰めてゆけば、そう簡単でないことくらい脳を使わなくても脊椎でわかる。実際特集の「平和の名句」アンソロジーには正岡子規や尾崎放哉から特集執筆者の近作まで並んでいる。選択基準が曖昧で恣意的だ。つまりいつものことだが自分の作品を書くことしか考えていない自己中な俳人たちが、他者の名句・秀句をつまみ食いして参考にするためのアンソロジーになっている。反戦や平和を持ち出すのは本家を真似た、カッコよさげだが薄っぺらい作品を書くためである。
雑誌編集部の思いつき特集を、執筆者が必死になって忖度して特集ページを埋めている見飽きた光景である。なぜ編集部の思いつき特集を頑張って忖度しなければならないのかというと、編集部に自分は〝使える作家〟だとアピールするためである。もちろんそんなことは重々承知でハッとするような見識を表明できればいいのだが、そういう作家は一人も見当たらなかった。ジャーナリズムが思いついたお題目と同様に、その場限りの思いつきを書き散らしているだけである。うんざりする。
はっきり言えば、こんなふうにジャーナリズムに飼い慣らされ、依頼仕事をやっつけ仕事としてこなしながら作家はダメになってゆくのである。「反戦」「平和の礎」という文字が実体を持つ特集になるためには、まずそれらについて考え抜いた作家の先行する仕事が必要だ。「反戦」についても「平和」についてもあまり考えたことのない作家が、一ヶ月や二ヶ月で他人から頼まれた仕事で意味のある文章を書けると思う方がどうかしている。
太平洋戦争中の日本では、天皇家につながる表現を持つ者として、歌人たちが雪崩を打って大政翼賛に突き進んでいった。それにくらべれば俳句には救いがある。渡辺白泉「戦争が廊下の奥に立つてゐた」、富澤赤黄男「戛々とゆき戛々と征くばかり」などがすぐに思い浮かぶ。ただ戦中の俳人たちの優れた戦争関連句が〝反戦〟ではなく〝厭戦〟を強く感じさせるのは重要だろう。文学は政治的信条表現のための道具ではない。
反戦であれなんであれ〝思想のために死ねる〟人間なんてまずいない。文学はそこから始まる。赤黄男の「椿散るあゝなまぬるき昼の火事」は昭和十六年(一九四一年)刊の『天の狼』所収。この句で表現されているのは孤高の作家精神だ。仲間を求め、意味もなくつるみ、ジャーナリズムに従順な作家はぬるい。徹底してぬるくて甘い。信用できない。厳しい社会情勢になればなるほど甘くてぬるい作家たちはわずかな現世利益を求めて集団化する。今だってそうだ。どんな場合でも自己の表現を貫き通せるのは孤独な作家だけ、というのは間違いないことでしょうな。
3
きみは誰
の物 なのか いつでも
きみは 誰かの
物だ 所有者が替わっても
きみはいつでも 誰かの
物だ いま
きみを所有しようと し
ているのは 誰 か
それを意識せよ 意識せよ
きみが きみの内部に
私有している物 は 何か
きみは所有されて いる 巨大な 監視者に
眼も ことばも そして
死の形態も。
4
ことばを 私有せよ
非打算的に ことば
をつかうことをせよ
巨大な 監視者 に
は 理解 しがた い
ことばを 私有 せよ
巨大な怪物の 時の
巨大な監視者の 寒い細胞
を破壊す る ことば
を めいめい 私有
せよ ついには
あの殺戮者 の
機能を 麻痺させ よ。
(飯島耕一『所有者と被所有者の時のエスキス』より)
飯島耕一は昭和五年(一九三〇年)生まれで平成二十五年(二〇一三年)に八十三歳で亡くなった詩人である。戦中は熱狂的な皇国少年であり、天皇万歳主義者であり、一刻も早くお国のために死ぬことばかり考えていたと回想している。実際、昭和二十年(一九四五年)、十五歳の八月二十日に航空士官学校に入学する予定だった。戦闘機乗りとなり華々しく空で散る覚悟だったのだ。
終戦は八月十五日だが、戦争は終わったとわかっていながら、飯島少年は八月二十日に航空士官学校の門の前まで行った。門は閉ざされていて人の気配もなかった。「空は石を食ったように頭をかかえている。/物思いにふけっている。/もう流れ出すこともなかったので、/血は空に/他人のようにめぐっている」という『他人の空』という詩は、この時の経験から生まれた。
戦後に飯島は、彼の戦中体験を苛烈な真摯さで内面化しようとした。あまり言いたくはないが、飯島は自由詩の世界で実績のある有名作家であり、政府の勲章授与などの話もあった。しかしすべて断った。谷川俊太郎もそうだ。国家的な勲章栄典を断っている。歌人では馬場あき子や福島泰樹がそうだ。馬場あき子はいわゆる宮中御歌掛を断った。そういう戦中派作家も日本にはいる。もちろん反戦・反体制を口にしながら、国家的栄誉は別口だとあっさり受け取り弟子たちを集めて盛大な祝賀会を開く詩人たちに比べ、ある種の意地を通したから彼らは偉いと言っているわけではない。賞や勲章などは俗世の話であり、文学には関係ないとも言える。だけど飯島を始めとする作家たちには一貫した文学思想がある。戦中の反戦の難しさと戦後の平和の維持の難しさを知っている。大声で反戦や平和を叫ぶ詩人たちより信頼できる。
また飯島の姿勢は単純な反戦ではない。引用した『所有者と被所有者の時のエスキス』にあるように、あらゆるイデオロギーを否定した言葉の私有が彼の考える人間精神の矜恃である。かつての現代詩と呼ばれる表現は、飯島的な「非打算的に ことば/をつかうことをせよ」という命題の元に、すべての社会政治的イデオロギーから独立した、崇高なまでの孤独な人間精神を模索した。そこまで行かなければ反戦も平和の意思表明も信用できない。その場限りの反戦や平和なんて誰が信じるか。
飯島が戦中にわずか数篇だが翼賛詩を書いた瀧口修造に激しくこだわり、金子光晴を高く評価した理由がわかるだろう。金子は戦中に「おいら。/おっとせいのきらひなおっとせい。/だが、やっぱりおっとせいはおっとせいで/ただ/「むかうむきになってる/おっとせい。」」(『おっとせい』)という詩を書いた。金子は「ことばを 私有 せよ」という命題を先取りした偉大な詩人だった。金子の『おっとせい』は数少ない反戦詩である。しかし戦中には、金子ですら「むかうむきになってる/おっとせい。」と表現するのが精一杯だった。
よく読めばわかるが、飯島の『所有者と被所有者の時のエスキス』も、金子の『おっとせい』とほぼ同じ本質を詠っている。この勇気と断念が理解できなければ文学者は思想家になれない。〝思想のために死ねるのか〟と一度も真剣に考えたこのないぬるい詩人たちが、いくら反戦や平和の命題を弄んでも無駄だ。そんなもの、平和な時代の口当たりのいいお気楽なお遊びに過ぎない。
岡野隆
■ 飯島耕一さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■