国際俳句交流協会会長で結社誌「天為」主宰の有馬朗人さんを中心に、ユネスコの無形文化遺産に俳句を登録しようという運動が進められている。先頃富士山がユネスコ世界遺産に登録されて話題になったが、ユネスコ無形文化遺産はそれとはまた別で、世界各地の文化遺産を大事にするきっかけにしましょうという登録システムらしい。
知らなかったが、日本ではすでに十二の団体がユネスコ無形文化遺産に登録されているのだという。アイヌ古式舞踏、秋田の田植踊、京都の山鉾行事など様々である。特集では登録団体へのアンケートも行われているが、「登録して良かったこと」という質問に対して、「特になし」と答えている団体もある。世間的な高い関心を呼ぶ登録ではないようだ。
俳句がユネスコ無形文化遺産に登録されようとされまいと、どうでもいいのだが、正直言って、有馬さんへのインタビューを読んでいて強烈な違和感を覚えた。たとえば高柳重信が俳壇で孤独に戦っていた時代に、これほどゆるい議論がなんの批判もなくまかり通っただろうか。今は、特に長老格の俳人の言動に対しては誰も何も言わない、批判も批評もしない時代のようだ。しかし俳人たちは、どうせやるならもう少し実りある議論をした方がいい。
まず俳句は五七五の詩である、ということ。そして季語、季題を大切にする。つまり、自然を大切にする文学だということを決めた。私はそれを実証するために和歌、短歌、漢詩などをあらためて調べました。和歌では柿本人麻呂、山部赤人が自然を詠っているけれど、それらの人が活躍した『万葉集』は自然を詠うというより抒情が主ですね。(中略)もちろん漢詩でも和歌でも自然は大きなテーマ。それは東洋の詩の特徴の一つです。でも、漢詩も、唐詩選などを見てみると主なものは抒情ですね。それに対し俳句は自然を詠うことが本質。ヨーロッパの詩でも叙景や自然はほとんど出てこない。西洋絵画もそうだけど、自然が芸術や文学に登場してくるのは十七、十八世紀からで、それまでは宗教的要素が多い。俳句は、百パーセントとは言わないけど自然を詠っている。生活であろうと、どこかで自然と関わりを持つ。でも、季語を重視しない俳句もある。だから例外も認める、ということになった。俳句は今や日本だけでなく、西欧や南米、インドやアフリカのセネガルなどでも作っている人がちがいるんですよ。その人たちの作品を見ると、季語があっても、日本の季語とは違う。季語のない短詩のような俳句を作る人もいる。五七五も、国によって違っている、日本でも尾崎放哉や種田山頭火のような自由律俳句もある。そういう〝俳句的〟な短詩も俳句として認めたらよかろうと。そうすれば皆が納得してくれるわけです。
(有馬朗人インタビュー「ユネスコ登録に向けての現状と今後」)
言うまでもなく俳句の母体は短歌である。俳句はせいぜい五百年弱の歴史だが、短歌は千年以上の歴史を持つ。『万葉集』には雄略天皇御製の歌が二首収録されているので、その源流は千五百年くらいは遡ることができるだろう。ただ短歌をユネスコの無形文化遺産に登録しようという運動はないらしい。有馬さんは「『万葉集』を文化遺産にと考えている人はいますが、俳句のように、短歌そのものを遺産に考えている人はあまりいないのでね。先の事はわからないけど、こちらは俳句という詩そのものを登録しようとしているので、現時点ではちょっと違うんですね」と言っておられる。なにが「ちょっと違う」のかよくわからない。〝文化遺産〟の問題なら短歌と俳句は当然足並みそろえなければならない。むしろ短歌の方が日本古来の文化・文学と言えるはずだが、例によって例のごとく、俳壇セクショナリズムの悪癖が蠢いている。
もちろん有馬さんらの登録活動自体を批判しているわけではない。俳句で文学の名に値するのはほんの一握りの作家の作品だけであり、大半が実態として趣味の生きがい表現である。八十、九十、百歳になってもまだ頭がシャッキリしていて、その上短いとはいえ俳句まで詠めるのは掛け値なくすごいことだ。誰だって年を取って心身が弱ってくると、俳句を書いている、書き続けているだけで「すごいなー、えらいなー」と思うようになる。俳句が心と体の健康に寄与しているのならそれでいいじゃないかというのはその通り。人間、何歳になっても生きがいがあった方がいい。俳句ユネスコの無形文化遺産登録運動も、結社運営と一脈通じる生きがい活動である。
短歌は今でも宮中歌会始の儀が行われているように、天皇家と密接な関係にある。歴史的にも和歌(短歌)は貴族のもの、俳句(俳諧)は庶民のものという不文律があった。短歌は漠然としたものであれ、日本文学では俳句より格が高いのだ。皇族方は歌会始の儀で和歌を詠まなければならないので、現代歌人からも歌会始選者と皇族方に和歌を指導する宮内庁御用掛が選ばれる。退任すれば当然○○勲章といった政府系の社会的栄誉が与えられる。
俳句には天皇家とのつながりはないが、俳句人口は短歌を大きく上回る。また短歌よりも手軽だと思われているので、社会的地位の高い人で俳句を詠む人も多い。有馬さんは俳句ユネスコ無形文化遺産登録運動では、中曽根元首相や岸田元外務大臣らの国会議員が名誉職に就いているとおっしゃっている。また「ゆくゆくは賛同者から五百円でも千円でも献金をいただいて、申請のための資料作成やフランスのユネスコ本部に行って交渉する予算を作らなければならない」と語っておられる。そうなれば各種事務作業は俳人たちが請け負うわけで、これはこれでまた一つささやかな経済システムが俳壇に増える。それは結構なことじゃないかと俳人たちが考えるのは自然だが、文学とは別の利権団体の側面はある。
有馬さんに限らないが、たいての俳人は、「俳句は五七五に季語」の表現で、それに沿ってさえいれば基本的に無条件で〝文学としての詩〟だと定義している。じゃあ俳句の詩としての定義は何かというと、「抒情や自我意識を表現しているのではなく自然を詠っていること」になる。その裏付けになるのは芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」や蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」、子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」などの古典的名句である。
もっと噛み砕いて言うと、「皆がすぐ頭に思い浮かべる俳句の名作では風景描写しか為されてないけど、日本人なら直感的に、これらが優れた詩だとわかるよね。なぜかって聞かれても困る。でも直感としてわかるならそれでいいじゃないか。文学理論なんて明治維新以降のもので、この日本人独自の直感は論理を超えた古い古いもので、いわく言い難いもの、表現し難いものであって、つまりは日本の神様のように神聖不可侵なんだ。だから日本的神様とも言える俳句にかしずき、その形式を守り続けている俳人はすべて芭蕉らと肩を並べる詩人で、風景描写の句はどれも平等に文学だよね。だけど困ったことに現実にはいろんな俳句を詠む人がいる。だからやんちゃな連中でも芭蕉らを御本尊として心の中で崇拝・尊重している人たちの作品は、五七五に季語の形式を外れていても俳句ってことにしようや。ほら、重信なんかはマイナーだから無視してもいいけど、山頭火は俳句じゃないとか言ったら、一般人のファンが多いから面倒じゃないの」という話である。
俳人はずーっとヤンキーのように、こういった俳句サイコー説に居直って来たわけだ。しかし日本人はなぜ単純な風景描写句を詩だと捉えるのかを、現代のヨーロッパ的な用語定義と論理によって明らかにするのが文学の問題である。そうしなければ、日本文化の本質は「侘び寂びだ」という空疎なお題目を唱えているのと同じだ。また実際、定義でも本質でもない一種の俳句神格化幻想にひたり切っている俳人たちの姿は異様だ。端から見ていると、この人ちょっと頭がおかしいんじゃないかと思えるような俳壇内大俳人の傍若無人ぶりも、マジで自己神格化してるんじゃないか、としか思えないところがある。俳句以外の文学ジャンルでもあきらかに勘違いした作家はいるが、その生息数は俳壇に遠く及ばない。
有馬さんはまた「これは私の考えですが、俳句の持つ〝自然と共生する〟という考えが世界にもたらす効果です。イスラム教、キリスト教、ユダヤ教は喧嘩ばかりしている。その喧嘩している人達も俳句を作り、自然を詠えばお互いを理解し合える。俳句は世界平和に貢献出来る、とわたしは考えています」とおっしゃっている。あまり言いたくないが、現実には絶対ムリだ。俳壇でいくら偉い人でも、俳句が世界一素晴らしいと思い込んでいても、俳人にも俳句にもそんな力はない。むしろ芭蕉をご本尊にするなら俳人は〝無能無芸の人〟のはずだ。俳句教皇が俳句宣教師たちを世界各地に派遣して、異文化・異民族・異宗教の人たちを俳句文化に改宗させられるなどと夢見ていてもしょうがない。また俳句宣教師たちは間違っても危険な紛争地域に行ったりしない。相手側からもどうせならもっと現実的に役立つ人を寄越してくれと言われるだろう。文化は平和で豊かな社会の余剰品なのだ。
俳句に関わる人たちは、本当に俳句を愛しているのなら、自己の作品とそれに与えられる社会的栄誉や利権ばかり求めるのではなく、もっと真剣に俳句文学について考え、それに合致する理想の作品を生み出す努力をした方がいい。俳句ユネスコの無形文化遺産登録運動は文学の問題ではない。ぜんぜん文学の問題になり得ない方向に進んでいる。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■