今月号には第47回九州芸術祭文学賞受賞作、尾形牛馬さんの「酒のかなたへ」が掲載されている。受賞の言葉で「酒を飲み始めた頃、自分が将来アルコール依存症になるなどとは夢にも思わなかったが、やがて立派な依存症になってしまった」と書いておられる。実体験に基づく小説だ。主人公は私で一人称一視点の語り手だから、技法から言えば古典的私小説である。しかしこの作品が優れているのは私小説のセオリーに沿っているからではない。もちろん事実そのままが書かれているわけでもない。
「酒のかなたへ」を読んでいると、純文学とはなんだろうという問いが浮かんでしまう。技術的に言えば「酒のかなたへ」は飛びきり上手い小説ではない。この作品のテーマの強さによって、作家の無意識的表現がまとまっている。またハッキリとした小説技術を認められないので、同じレベルの作品を量産できるとも断言できない。ただ「酒のかなたへ」は傑作である。語弊のある言い方をすれば、今月号に掲載されたどのプロ作家の作品をも遙かに凌いでいる。
極論を言えば、純文学作家はこういった作品を一作書ければそれでいいのではないかと思う。処女作近辺では切迫した表現意欲(テーマ)があっても、それを見失ってしまったら少なくとも純文学作家であり続ける必要はない。ただほとんどの純文学作家がテーマの引き伸ばしを行っている。私小説っぽい体裁だが私小説とは呼べないアトモスフィア私小説でお茶を濁している。そういった作家が狭い文壇内で功労賞的に評価されるのは決して健全ではない。文学作品は及第点のアベレージ(平均点)ではなく突出した最高点によってのみ文学史に残るからだ。70点で出発した純文学作家が継続して60点の作品を書けるからと言って、90点のハイスコアを叩き出した作品の評価が留保されるようではいけない。
この時評では文壇内で評価されている有名作家の作品に厳しい批評を書いているが、要するに僕はバランスを取りたいのだ。小説に限らずどの世界だって優れた作品が評価され売れるとは限らない。プロモーションの力がものを言うことも多い。しかし文壇と何の利害関係も持たない人の評価判断があってもいい。僕は文学作品の力を信じる理想主義者である。
五〇〇円玉を受け取った少年は公園の出口となっている生垣の方へ歩き出した。黒犬もそれに続いた。途中で少年と犬が突然走り始めた。走りながら、少年と黒犬がこちらを向いた。少年が私に向かって怒鳴った。
「マヌケ、バカ」
まだ声変わりもしていない幼い声であった。
(尾形牛馬「酒のかなたへ」「1」)
作品は主人公の私が公園のベンチに座っているところから始まる。なぜそうしているのかは明らかにされない。そこに次々に人がやって来て私に声をかける。最初に声をかけてきたのは黒犬を連れた中学生くらいの少年だ。近くに新たに弁当屋がオープンしたが、うまそうだから五〇〇円くれたら買ってきてやると私にもちかけた。私が五〇〇円玉を渡すと少年は「マヌケ、バカ」と叫んで走り去ってしまった。
次に声をかけてきたのは痩せた青年で、キャラメルを食わんかねと言う。私は戸惑いながら一粒もらう。口に入れてから青年が毒でも混ぜたのではないかと疑う。しかし何も起こらない。青年はパチンコで負けたんだと言い、キャラメルを箱ごとくれて去ってゆく。三人目はホームレスだ。タバコをくれという。吸わないから持っていないと答えると「はよ言え。爺さん、もっと真面目にやらないかんよ、もっと真面目に」と罵倒して去っていった。
「2」でも事件は起きる。行きつけの定食屋に行くと、ヤクザ風の男がクダを巻いて女将さんに絡んでいる。店では出していないラーメンをどうしても食わせろと言ってきかない。体格のいい料理人の主人が厨房から出てきて男を威圧し、近所のラーメン屋から出前を取るからそれを食べて済ませてくれと言う。女将相手では傍若無人だった男は、強そうな若主人の出現にひるんでいる。文句を言いながらラーメンを食べる。私は男と目が合い、彼の怒りが自分に向けられそうになるのを感じてそそくさと店を出た。
私はまったくもって受動的なのだ。小説の始まりにおいて空虚な存在だと言っていい。簡単に中学生に騙され、無防備に青年からキャラメルをもらい、故なくホームレスに罵倒される。アルコールで横柄になったヤクザ風の男の行動を苦々しく思いながら、累が及ばないうちに逃げ出す。こういった小説の書き方には、なんとなく書き始めてしまったという手触りがある。しかしこの小説ではそれが効いている。私は他者に試される存在になる。
五、六歩歩いた早馬が足を止めてそこに立ち止まっている私の方を振り返った。
「入院しとるなら、今日は試験外泊なんだな?」
「そうだよ。入院して一ヶ月たったからシラフで生活ができるかどうか今夜一晩の試験外泊なんだよ。明日の午前中には病院のバスでまた病棟に戻るよ」
そこに立ったまま私は答えた。
「じゃあ、今日は早くアパートに帰って寝て、明日はシラフで病院に戻れよ。酔っ払って病院に帰ると反省ミーティングとか保護室とかで煩かからな」
「うん。分かっとるよ」
「ではね。頑張れよ。僕は飲む方を頑張るよ」
そう言うと、早馬は背を向けてヨロヨロと歩き出した。
(同「3」)
「3」でようやく私がアル中で入院中で、試験外泊していることが明らかになる。それと同時に最後の他者が私の前に現れる。早馬次郎という男で、以前アル中の治療で入院した病院で知り合ったのだった。しかし早馬は酒をやめていない。やめられなかった。近所に住んでいるので道で偶然会ったがすでに泥酔していた。私は早馬と立ち話をして別れる。もちろんそれで済むはずがない。
比喩的に言えば、試験外泊した私は荒野を彷徨い悪魔の誘惑と戦う人になっている。最大の悪魔が、私を激しく試す人が早馬なのだ。しかし私は聖者ではない。どっぷりと人間だ。それは早馬も同じである。だが神の、人智を越えた摂理に従っているのは私なのだろうか、それとも早馬なのだろうか。
「僕はアル中が酒をやめるとは神のようなものへ対する変節じゃなかかと思うとだよ。(中略)僕らアル中は昼も夜も酒を飲む行為以外には何もしないという状態にたびたび陥るとだが、(中略)異常で狂的な行為は、酒に取りつかれた受身的な行為というより、その人間が異常な飲酒をすることによって何か命より大切なもの、命より価値あるものを主張し訴えている積極的な行為のように思えてならんのだ。それが何かは分からんよ。でも必死で叫んどるんだ。そうは思わんか? 古釘君」
しばらく考えて、私は言った。
「そういうことを思う時もある」
これは早馬をこれ以上興奮させないための言葉でもあったが、私の本心の一部でもあった。確かにアルコール依存症者の尋常ではない酒の飲み方は、その飲酒行為自体が何かを訴え、主張しているように思えてならない時があるのだ。(中略)それから又、酒をやめているアルコール依存症者については何かが変節したみたいな、そんな胡散臭さが感じられる時があるのだ。それは否定できない事実であった。
(同「5」)
深夜泥酔した早馬が私のアパートを訪ねてくる。早馬は酒を飲む理由を私に語る。それは通常の文脈で言えばアル中患者の屁理屈である。ただこの会話には生死の境を見た作家の思想がある。アル中を笑うことはできない。文学者だって同じなのだ。人によっては生活落伍者ギリギリのところで、あるいは生活破綻者になってまで文学活動を続ける。文学は「命より大切なもの、命より価値あるものを主張し訴えている積極的な行為」だと主張する人もいる。アルコールが飲みたい人の言葉が戯言なら、文学者の聖なる使命も戯言だ。
ここまで思想をえぐり出せば、少なくとも文学として価値がある。小説は読むに値する何事かが書かれていなければ表現する意味がない。その読むに値する何事かはある種の人間真理でもいい、面白さ、人を楽しませる要素でもいい。ただわたしたちが思い浮かべる、何か言いたげで、結局は何も言っておらず表現し切れていない、純文学が形骸化した純文学小説は不可である。それは文学の名に値しない。
私は「あんたは酒をやめられんから飲んでいるとじゃないのか? やめられんから屁理屈を言っとるんじゃないとか? 本当はやめたいけどやめきらんとじゃないとか?」と早馬に言って、酒を飲むことを拒否する。それはあり得べき小説の結末である。私はアル中から抜け出したのだとも言えるし、好きだから小説を書いている、文学をやっているんだというぬるい境地から、それを相対化して眺められる高次の審級に移行したのだとも言える。しかしそれだけではない。
私の拒絶の言葉は、論理としても倫理としても、社会常識としても正しい。ただわたしはそこに嘘が混じっていることを知っている。アル中の早馬の言葉の中に、私を惹きつけて止まない何かがあることを理解している。アルコールの力を借りず、私はそこに戻ってこなければならない。自らの言葉の虚偽に気付き、再び同じ小説思想の探求を行い、正しいが凡庸な常識にたどり着いたら、またそれを壊さなければならない。尾形牛馬さんは私小説作家としてアルコール依存症者の心理を一生書き続けても一定の読者を得られるはずである。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■