荻野アンナさんの「ダクト」は三十枚くらいの短編小説である。三十枚は短いようだが、小説でも文芸評論でもたいていのことは書ける。特に私小説では十分な枚数だ。私小説はごく単純に言うと、その名の通り、自分が体験した出来事をベースにそれに基づく自我意識の動きを書き綴る小説形式のことである。もちろんフィクション(架空の設定)が入り交じってはいけないというルールはない。主人公が〝私〟でなければならないという決まり事もない。そう考えてゆくと、私小説という小説ジャンルもずいぶんと幅の広いものとなる。では「ダクト」は私小説なのだろうか。
「あなたはうちの母子密着をご存じだから、話が早いかもしれない」
彼女は手帳をやぶいて、直線を引き、それを時間軸に見立てた。4年前の5月に手術。3年前の春、僕に会っている。昨年の正月過ぎに母を亡くした。そして、今。
僕の脳裏に、彼女の黒いオーラが蘇った。その見えない黒いものは、ほどなく彼女の首に巻きつく海藻に姿を変えたのだった。僕の幻視は彼女の思い出に裏打ちされていた。赤ん坊の彼女の首には、へその緒が二回り半、巻き付いてた。僕に見えた海藻も、首を二回り半していた。母親との強すぎる絆に首を絞められて、半分窒息しながら生きている、という印象を当時の僕は持った。
「お母さんを亡くされたそうで、辛かったですね」
「辛くない、と決めました」
これがわたしの抜け殻です、とダクトを指して見せた。彼女が春の手術を乗り越えた夏に「ダクト事件」は起こった。
(荻野アンナ「ダクト」)
「ダクト」の主人公は美術家の僕である。僕は数年前に〝彼女〟と偶然出会った。「僕が黒いオーラの人間を見たのはそれが初めてで、思わず声をかけた。彼女は前の年に大腸がんの手術をし、抗がん剤治療を受けていた。彼女の語るがん体験を、僕は映像作品にまとめた」とある。その彼女と僕は横浜の公園で再会する。彼女は全身にエアコンのダクトを巻き付けていた。ただ彼女は精神に異常をきたして身体にダクトを巻き付けていたわけではない。だから作品の主題は、なぜ彼女がそんなことをするようになったか、理由を解き明かすことにある。
荻野さん自身が小説やエッセイ、インタビューなどで明らかにされているので、彼女が事実婚のパートナーと父母の三人を献身的な介護で看取ったことはよく知られている。またご自身も大腸がんの手術を受けて療養された。つまり「ダクト」の彼女には荻野さんの実体験が強く反映されている。しかし〝私〟という一人称で同様の主題を扱った小説も書いておられるわけだから、この作品で主人公(語り手)を僕にしているのは、原則として作家自身の体験を相対化するためということになる。
「そんな声を出してもアカン」
「薬のせいだってば」
しかし副作用の効果が母に届くことを期待するスケベ心が無かったと言えば嘘になる。娘が畳に頭を擦り付けるたび、頭上から「偉うなった」が降ってくる。それでも不思議と娘の心は静かだった。善意のつもりのおせっかいで、人に迷惑をかける質だと、自分が一番よく知っている。エアコンの件も見事に「すべった」わけだ。事態を収拾するには、感情をゼロにしてやり過ごせばいい。
(同)
彼女には画家の母がいた。「うちの母子密着」と彼女が言っていることからわかるように、母子の愛憎入り交じる関係がある。母親は画家で芸術に一心にのめり込んだ厳しい人だが、年老いてどんどん体力が衰えていた。認知症とまでは書いていないが、少なくとも老いるにつれてわがままになり、気高く自己中心的な性格が先鋭化していた。その上娘の彼女の方も大腸がんをわずらい体調が万全ではない。それでも彼女は母親を気遣う。
母親のアトリエは冬は寒く夏は暑かった。特に問題なのは夏の暑さだった。古い家であり、またアトリエ用の特殊な作りなので、一般的なエアコンを取り付けることができない。そこで彼女は据え置き型のクーラーを設置して、ダクトを長く伸ばして外に排気する方法を思いついた。しかし母親は気に入らない。「ダクトが目に入るだけで、絵が描かれへん」と娘を責める。いつものように彼女は母親に謝る。土下座して畳に頭を擦りつけて謝り続けるのである。ただ彼女は単純に「エアコンの件も見事に「すべった」わけ」ではない。
母親の怒りともわがままともつかない感情の爆発に対して、彼女が「事態を収拾するには、感情をゼロにしてやり過ごせばいい」と考えているように、エアコンの導入が波乱を巻き起こすだろうことは決して予想外の事態ではない。むしろそういった波乱が母と娘のコミュニケーションだと言えるほどだ。ただもはや母親の心は動かない。娘に「偉うなった」という罵声を浴びせかけるのは、彼女の方が絶対的に上位に、支配者の位置にいるからである。それは変わらない。こういった母親の硬直した心理を描いても意味はない。問題が生じるのは常に娘の方である。
母の死後、主を亡くしたアトリエは、彼女にとって母そのものとなった。その事実を受け入れるのに時間がかかった。白いキャンバスをたてかけたままの空間に、再び足を踏み入れたとき、彼女の目を射たのはエアコンから延びるダクトだった。
「母の繊細すぎる神経を、初めて理解したと思いました」
彼女は小屋からダクトの残りを取り出した。
「私の目を使って、眺めているのは母でした」
「捨てる、という発想はなかったのですか?」
「折り合いのつかない思い出ほど、大切なんです。それに私・・・」
工場フェチ、と付け加えた。
「自分が巨大な建屋の中の点になるとき、部品をつなぐダクトが血管となって私に命を吹き込んでくれます」
「お母さんの対局じゃないですか」
「両極は合致します。ただし、この世じゃないどこかで」
(同)
この記述が「ダクト」という小説のクライマックスである。僕が彼女を自分のアート個展に招待して、ある種のパフォーマンスとしてダクトを身体に巻き付けたまま会場の一角に座らせておいたといった話は、物語の付けたりに過ぎない。むしろ主人公(語り手)の僕に話を流したことで、小説の主題から遠ざかっている。
これも端的に言えば母子密着型の娘が、母親が生きているより死んだ後の方が怖い、という感情を抱くのは決して珍しくない。なぜか。母親の支配が幼い頃から精神に食い入っているからである。娘の方が大人になりきれていないと言えばその通り。母親が子離れできず、支配的に娘と依存関係を結んでしまっていると言っても同じことである。ただそういった説明はもちろんあまり意味がない。小説ではそのような母子密着の実際と、その苦しみとわずかな喜びを、底の底まで描き出さなければならない。
それが「ダクト」という小説で十分に描かれているのか。できていないと思う。様々な理由が指摘できるだろうが、小説的に言えば、「ダクト」が私小説風の見た目を持ちながら、私小説の一番厳しいところにまで食い込んでいないからである。この小説で彼女が身にまとうダクトは保身の鎧である。比喩的に言えばダクトを脱ぐところから私小説は始まる。私小説は小説形式として説明することができるがその本質は違う。作家がどこまで自己の心の奥底をさらけ出せるかにかかっている。体験をネタしただけでは読者はつかない。事の本質を抉ることなく曖昧に放置した小説よりも、通り一辺倒だが誰も批判できないヒューマニズムで締めくくられた手記の方が読者を喜ばせられる。
小説家は一般社会常識に照らし合わせれば時にロクデナシだ。普通は隠しておきたい家族の恥を書き、自分の恥をさらす。介護でも母子密着病理でも癌でも、小説に使えるものは結局のところ全部使う。それが小説家の性というものだ。その恥さらしが小説家としての自己顕示欲を満たすための手段でないなら、必ずある真理にまで届かなければならない。同じ体験をした人の視線を惹きつけられない小説には問題がある。作家はどこまでも傷を抉る覚悟を据える必要がある。
大篠夏彦
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