<安井浩司を囲む会>で安井氏の隣に座り、間近に氏の言動を見聞きして、その俳句から感じ取っていた印象と相当違う感じを受けた。懇親会で、<訥々とした能弁>と形容したが、これは何も悪口ではなく、思いが内に発してそれを表現する言葉が足りないという意味なのであった。おそらく優れた詩人は、作品自体が能弁となるか否かは別として、あふれる思いと、ままならぬ表現に悩むのが常であろう。
安井浩司の作品の端正さと、一方で近づきがたい難解さとが同居することは、矛盾のように見えながら、一つの魅力となっている。この矛盾ということを、今まで我々はやや軽く考えてしまっていたようである。それはまた、現代俳句全般に通用する誤解であるのかもしれないが---。例えば、安井浩司を代表する作品というと、必ずつぎのような俳句が上ってくることであろう。
鳥墜ちて青野に伏せり重き脳 『青年経』
姉とねて峠にふえるにがよもぎ 『中止観』
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき 『阿父学』
法華寺の空とぶ蛇の眇かな
;麦秋の厠ひらけばみなおみな 『密母集』
これを間違っているとは決して言わないが、安井浩司がこれだけで尽きてしまう訳でもないことは銘記しておきたい。それを感じたのは、三年前にあの膨大な『安井浩司全句集』(沖積社刊)を読んだときだった。全句集というものは、従来の作家像を大きく変更させるきっかけになることが多いが、三千句を超えようという安井浩司全句集(寡黙と思われる人の何という句の多さ!)を前にして、今まで断片で知ったと思っていた安井浩司の全貌が、すこぶる異質な姿で出現したのは壮観であった。とりわけ、『中止観』や『阿父学』のような人にも愛唱され、昭和の古典となっている句集と対比するとやや不遇な運命にある『青年経』『赤内楽』や、後期句集にあっては満を持したような大冊『汝と我』に対し句数は百句にも満たず、少部数しか発行されなかった『牛尾心抄』に不思議な味わいを感じ取れたのも興味深かった。
メーデーの山頂の椅子もたれる魚 『赤内楽』
遠い母艦ふと球根に鶏乗つたり
神の玄関足跡に白みみずが立つ
子供の石蹴り遊びのように、助詞の間を飛び跳ねながら名辞を伝ってゆくと、ある快感が伝わってくる。そこには安井浩司がすごした青春や、思念や、屈折や、いくばくかの希望が痕跡として残っているからだろう。『中止観』『阿父学』の完成した美学が、あえて切り落としている安井浩司の肌の温もりの懐かしさを味わうことができる。
もちろん旧版を知らない私にとって、全句集で底本化される以前の姿は想像するだけであるが、<第三集『中止観』をもって未見の旅に赴いたと自省する私は、『阿父学』に次ぐ本書がしんじつ第三句集のように思えてならない。>と『密母集』後記に述べ、全句集では、著者が<世を知らなかった蠻勇のはての産物>であり<この世から抹殺することにしたい>という哀れな扱いを受けた句集は、やはり不幸な巡り合わせというしかないであろう。
一方、後期句集の中で埋もれていた『牛尾心抄』を全句集で読み、一読心酔した。この句集は、出版当時百六十部しか出されなかったということで、多くの安井浩司ファンにとってもこの全句集がなかりせば長く知ることのできなかった作品集であろう。にもかかわらず、桃源郷を彷彿とさせ(多分作者は明確に桃源郷たることを自覚して作っていると思うが)、安井浩司における全く新しい世界を展望させるとともに、俳句の新しい可能性を信じさせてくれる作品集なのだ。私個人にとっても邂逅という言葉が最も相応しい。作者自身にとっても愛着度の高いことは後書きからうかがえるが、おそらく今回の全句集の中で正当に位置付けられることにより新しい安井浩司像が描かれるのではないか。
例えばその後記を見てみるに、
<どうやら私も魂の難解な季節に入ったようだが、されば東洋詩人の偉大な先達たちが、わが現在の危うき年齢(四十五歳)の前後から次第に霊的に上昇してゆくことの意味が、少しづつ判りかけてくるのである。そんな前方に予感される霊的なものこそ、なぜかみな個の哲学を超え行くように思われ、私もまたかく導かれるらしいのだ。---これは鏤刻、秘筐の作品として生涯愛着の深いものになるような気がしてならない。>
という、ここまで高潮した<あとがき>はそれまでの句集には絶えて見られなかったものであるし、この高潮こそさらに次の句集にまで影響を与えて、
<内容的に言えば、むしろ『牛尾心抄』が道づけした世界を、かなり意識的に継承発展させたものである。本著の主力作品は、それと等しくあらかたこの一、二年によって熟成されており、『牛尾心抄』なくしては、今日の場に到達することはなかっただろう。>
と第七句集『霊果』の後記で述べさせている。そして、この新しい影響は順次後続の句集に継承発展され、<『霊果』によって揺り起こされた精神の原理性をさらに追い上げた>と述べる第八句集『乾坤』、<前著『乾坤』以降の作品をまとめたものだが、同一主題を追い継ぐ意味で、初めから上下巻による一世界を意図していたことである。従って、いずれが姉たり妹たりえているかは俄かに断じがたいが、この『氾人』をもって、更なる交響化を果たしたとも言えるだろう>と語る第九句集『氾人』、<前著『氾人』上梓の直後、ある啓示に近い想をえて書き進めたものである。神女・氾人を経て「汝」なる対他幻想へわが思いをせり上げるのに、そんなに時間は要らなかった。>と言う第十句集『汝と我』まで、綿々としてつながる思想を意識できるとすれば、---そしてまた、既述したように第三句集『中止観』→第四句集『阿父学』→第五句集『密母集』の関係を意識し<私はそんなに遠くやってきたとは思うまい>(『密母集』後記)と述べている以上---『牛尾心抄』こそ安井浩司の中で最大の断層と見ることができる。余り論じられることの少なかったこの不運な句集を本論では特に注目しておきたいと思う。
* *
『牛尾心抄』は、句日記の体裁で綴られる。といって、その作品は完全に著者の日常を離れて、恐らくは古代中国の幻想の中で見える心象風景を描いている。昭和五十六年の仲春から晩春までの俳句が描く世界を、しばらく眺めてみたい。
三月十二日/木曜日/朝晴/日中暖気
国人破れて植える煙管となる竹を
三月十三日/金曜日/昼晴/夜星
睡蓮なれや忽ちおどる軽衫の母
三月十四日/土曜日/午前曇/午後雨
牛に挿すすももの枝の造化なれ
三月十五日/日曜日/朝曇/午後暴風雨
やや高所めまいの荘子と蝶遊ぶ
冒頭の句は杜甫の<国破山河在城春草木深>の句から生まれたものであろうし、十三日は(西遊記のもとともなった)元曲「合汗衫」を思い起こさせる。十四、五日の句は荘子斉物論編の図であろう。それぞれ当日の安井浩司の周辺の事実でなく、中国の古典を踏まえたり素材としたりしていることは、少なくとも虚子の句日記とは全く様相を異にしている。しかし全くの観念なり頭の産物かと言えば、それぞれの日の簡単な記録、「朝晴/日中暖気」「昼晴/夜星」「朝曇/午後暴風雨」という現実風景が合わさるとき、単に空想だけではない、妙な生々しさを読者に与える。
三月二十六日/木曜日/午前晴/午後曇
少し脱糞して遊ぶや峡の春
三月二十七日/金曜日/午前風雪/午後牡丹雪
旅ゆく人よ野に黒豚を見かけぬか
三月二十八日/土曜日/朝晴/日中曇
やまどりは古式の春と叫びけり
続けて見てみよう。現実の三月末日の花曇り、牡丹雪の風情が、濃厚に作品の中にも反映されていることに気付くであろう。遊びまわり、脱糞さえする駘蕩とした春の山奥の心安けさ、春野に豚を追い求める旅人の姿。やまどりの古式の春と言えばまず、萬葉の、あしひきのやまどりの尾のしだり尾の長々しき夜を思い出さずにはいられないが、これは季語という約束を使う使わないとは全く関係なく、作者の肌を通しての季節感であるからこそ生々しいのである。
四月四日/土曜日/日中晴/時々曇
夕空に柿満てりかの家家の妻
四月五日/日曜日/午前晴/午後曇
草に印度の貨物船は泊つるべし
四月六日/月曜日/朝雨/日中雨
永遠に浮きたる軍艦鳥に魂を寄す
やや気欝する花季の曇りと雨は作者に微妙な陰翳を落としていないかどうかを、これらの句から観察してみるのも興味深い。<永遠に浮きたる軍艦鳥に魂を寄す>をこの集の中でも傑出した佳作と感じる私は、これを「月曜日/朝雨/日中雨」の条件の中で解釈することは、この句集でなければ味わい得ない妙味と思う。小野小町の<長雨>の歌のあの王朝の美の陰欝もかすかにしか想像することのできない我々だが、この「月曜日/朝雨/日中雨」は説得力をもって<軍艦鳥>の句の消えかかっている下肢を現出させてくれる。
四月二十八日/火曜日/午前晴/午後晴
娘達と別れる歌棄のひるの川
四月二十九日/水曜日/朝晴/日中薄曇
白雲と老母うやむやの関に遊べ
四月三十日/木曜日/朝雨/午後雨
西方からきて蝦夷菊に終わる人
これをもって五十日間一日二句の『牛尾心抄』は終わる。名残の三十日はまた雨であったが、この頃になると唐色めいた面影は薄れ出し、萬葉の、純朴な色彩が浮かび上がってくる。しかし、この五十日間の修練のような期間は安井浩司にとって新しい俳句の世界をのぞく稀なる精神の旅であった。地方に定住しながらも、壮大な精神の旅は、狭い俳句の国にペルリが開国を迫ったような予言を発信する。
* *
安井浩司論の中で特に『牛尾心抄』を取り上げる人は少なかろうと思う。素材の狭さは筆者の狭量さを示すものであるが、一方で安井浩司の作品の豊饒さがより対照的に浮かび出せば幸いである。
筑紫磐井
(『未定』第70号・1996年・特別号・特集 安井浩司より転載)
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