日タイ修好130周年記念特別展『タイ~仏の国の輝き~』展
於・東京国立博物館
会期=2017/07/04~08/27
入館料=1600円(一般)
カタログ=2500円
今年は明治二十年(一八八七年)に日タイ修好宣言が結ばれ、日本とタイの間で正式な国交が開始されてから一三〇周年記念になるようだ。僕のようにたまに海外に出かけるけど、長期間定住したことのない者にとっては、どの国も腹の底からわかったとは言えない未知の国である。中でも東南アジア諸国に関する知識は、地理的に近い割には本当に乏しいと思う。ただそれは日本という国の歴史を考えれば半ば当然だ。御維新で有史以来の中国文化をあっさり捨てて、政治から着るものに至るまでヨーロッパを見習ったのである。欧米文化は日本の先生だった。日本人の視線が欧米に向きがちな理由である。
しかしそんなことではイカンという思いも強くある。ヨーロッパやアメリカなどに比べれば、アジア諸国は近しい国であり文化なのだ。特に仏教国はそうだ。東南アジアを旅行した人はわかると思うが、インドなどのヒンドゥー教の国や、バングラデシュといったイスラム国から、スリランカ、タイなどの仏教国に入ると、ほっとするところがある。別にインドやバングラデシュをくさしているわけではないが、「やっぱり宗教が違うって大きいなぁ」と感じてしまうのだった。中でもタイは暮らしやすそうだなと感じる国の一つである。
ただタイについては断片的な知識が頭の中でこんがらがっているだけで、一つの全体像を結ばない。そこでいい機会だと思って『タイ~仏の国の輝き~』展を見に行った。こういった展覧会がなければタイについて考えてみる機会はないだろう。誰にとっても時間は貴重だが、長くもあり短くもある人生の数時間を使ってきっちり考えておけば、そこからいろいろな事柄がわかってくる。
タイ全図
まずタイの場所のおさらいから。タイはアンダマン海と南シナ海に囲まれた位置にあって、ミャンマー、ラオス、カンボジア、マレーシアと国境を接している。農耕に適した広大な平野を持っているが、北部は二千メートルを超える高地である。国境線が確定するのは仏領インドシナ連邦として今のラオス、ベトナム、カンボジアなどを植民地にしていたフランスと、インド、バングラデシュ、ミャンマーなどを植民地にしていたイギリスとの間で英泰条約(一九〇九年)が結ばれてからだ。フランスとイギリスはタイをお互いの植民地の緩衝地帯としたのである。タイもヨーロッパ列強国に翻弄されたわけだが、東南アジアで唯一植民地化をまぬかれたのは、比較的早い時期から近代化を推し進めていたためである。
南北に長く、肥沃な土地でもあるので、タイでは古代から文明が存在していた。タイが初めて歴史文書に登場するのは例によって中国の史書で、『陳書』や『旧唐書』に「頭和」や「堕和羅」国と記載されている。現在ではドヴァーラヴァティーと呼ばれる王国で、今でもタイに住んでいるモン族の王国だった。六世紀後半から十一世紀初頭まで存続したようだ。インドに行き数々の経典を中国にもたらし『西遊記』伝説となった玄奘三蔵や、玄奘の後を追うようにインドに渡った義浄は、ドヴァーラヴァティー国では盛んに仏教が信仰されていると書き残している。ドヴァーラヴァティーは七世紀にはすでに仏教国だった。
『法輪』
ドヴァーラヴァティー時代 七世紀 スパンブリー県ウートーン遺跡第十一号仏塔跡出土 砂岩 法輪:高一三〇×幅九五×奥二九センチ 頂板:高三七・二×幅五〇×奥四八センチ ウートーン国立博物館
初期仏教では、仏の姿をレリーフや像として表現しなかった。仏の足跡をかたどった仏足石や、法輪として象徴的に表現することが多かった。法輪は回転する車輪の意匠で、仏の教えが広く浸透する願いがこめられている。ドヴァーラヴァティー時代の遺跡からは、この法輪が数多く見つかっている。また結界石と呼ばれる聖域を確定するための指標的モニュメントの出土も多い。仏教を広めようとする為政者たちの意志が伝わってくる。
ドヴァーラヴァティー時代の法輪は、パッと見るとインドなどで作られた物かな、という感じである。しかし模様はタイエリア独自でヒンドゥー教などの影響が表れている。今のインド、パキスタン、アフガニスタンにまたがるインダス川流域では、紀元前二千年以上前から文明が栄えていた。人類最古の文明の一つである。ヒンドゥー教の元型もその頃からあったことが確認されている。ヒンドゥーは古い宗教なのだ。ヒンドゥーに比べれば仏教は比較的新しい宗教で、紀元前四五〇年頃に始まったのではないかと言われている。
その後インドエリアはヒンドゥー文化となるが、新興宗教の仏教は東南アジアから中国、極東の日本にまで伝播していった。その初期の方の影響がドヴァーラヴァティー時代の遺物に表れている。タイエリアにもヒンドゥーや仏教伝来以前にアニミズム的信仰があったはずで、それが太陽の形とも取れる法輪がたくさん作られた理由かもしれない。またこの時代の仏教遺物は石造がほとんどである。聖像を作る際は、オリジナルのインド・パキスタンエリアの素材を踏まえなければならないという意識があったようである。
『白褐釉刻花瑞鳥唐草文水注』
一口 スコータイ時代 十五世紀 スコータイ県ワット・マハータート遺跡出土 陶製 高一二×幅一六×径一三・三センチ サワンウォーラナーヨック国立博物館
ドヴァーラヴァティー王国はタイの古代文明だが、その後、お隣のカンボジアでクメール族が力を持つようになり、八〇二年に強大なアンコール帝国が生まれた。華麗なアンコールワット遺跡で有名だが、アンコール王朝は当初はヒンドゥー教で、十三世紀末のジャヤヴァルマン八世の時に仏教に改宗した。歴代の王が次々に寺院を建築していったので、アンコール遺跡にヒンドゥー教と仏教様式が混在しているのは周知の通りである。タイエリアもアンコール王朝の影響を強く受けた。
アンコール時代にタイでもハリプンチャイやシュリーヴィジャヤ王朝が生まれたが、十三世紀頃になるといよいよタイ族の国家が樹立される。タイ北部のラーンナータイ王朝と中部のスコータイ王朝である。中でも中原のスコータイを、タイ人はタイ国家の始まりと考えている。タイエリアでは古代から仏教が信仰されてきたが、スコータイ初期にはヒンドゥー教、大乗仏教、上座仏教が混在していた。それをスコータイ第三代ラームカムヘーン王が上座仏教に統一したのだった。現代まで続くタイの上座仏教はスコータイから始まる。
日本人がスコータイと言ってすぐに思い出すのは陶器である。タイ産の陶器がスコータイと総称されているほどだ。スコータイ陶器には他の地域には見られない特徴がある。製法は明らかに中国である。中華系の陶工が始めた陶器で、形は中国陶に倣った物が多い。しかし装飾文が独自である。ヒンドゥーやイスラームの影響を受けた幾何学文や草花文で覆われていることが多い。スコータイ陶器からは、タイエリアに流れ込んだ文化の複雑さを読み取ることができる。
『仏陀座像』
一軀 スコータイ時代 十五世紀 スコータイ県シーサッチャラーナイ郡ワット・サワンカラーム伝来 青銅、金 高一二〇・五×幅八七・五×奥四八センチ サワンウォーラナーヨック国立博物館
スコータイ陶器がタイの文化混交を表しているのに対して、仏像はタイ独自の様式に統一されてゆく。パッと見ただけでタイだとわかる仏像になる。スコータイ王朝期になると、インド・パキスタン様式にあった厳めしさはもうない。また中国、韓国、日本でずっと残った肉や衣の写実的表現もタイの仏像には見られない。肉髷の上にラミッサーと呼ばれる火炎飾りがあるのはタイ独自だが、全体としてのっぺりとした印象の仏像になる。この様式が現代に至るまでタイ仏の基本様式である。スコータイ時代の上座仏教の精神性が、はっきりと仏像の形として表現されるようになったのである。
約二百年続いたスコータイ王朝は一四三八年に滅び、タイ中原にアユタヤー王朝が樹立された。アユタヤーはスコータイ王朝がまだ存続していた一三五一年に始まり、一七六七年まで実に四百年以上続いた。前期・後期に分けるのが一般的だが、これは一五六九年から八四年までの十五年間、隣国で強大になったビルマ(ミャンマー)に併合されて、王朝が短期間途絶えたためである。
アユタヤー王朝は一七六七年にまたしてもビルマの侵攻を受けて滅亡するが、すぐにタクーシンがビルマ軍を追放してトンブリー王朝を立てた。この王朝はクーデターによりわずか十五年で滅んでしまうが、クーデターでタクーシンを倒したチャオプラヤー・チャックリーがラーマ一世王として即位し、ラタナコーシン王朝を樹立した。現代まで至るタイ王室である。
タイは何度もビルマやクメール(カンボジア)などに侵攻されたが、一貫して独立国家であり続けた。また王朝は何度も変わったが、タイ民族の国家的アイデンティティは常に仏教にあった。歴史学では固有の元号(暦)を持っているかどうかが独立国の一つの指標になる。タイは仏暦である。
『ラーマ二世王作の大扉』
一面 ラタナコーシン時代 十九世紀 バンコク郡ワット・スタット仏堂伝来 木製、金、彩色 高五八〇・五×幅一三九・五×厚二九・五センチ(右扉) バンコク国立博物館
現王朝名のラタナコーシンは「インドラ神の宝蔵」を意味し、バンコクを指す名称でもある。ラーマ一世王も深く仏教に帰依しており、バンコクに上座仏教を信仰したアユタヤーの寺院を再興した。戦火で焼失したアユタヤー仏教の栄華を再現するための建築だった。続くラーマ二世、三世も仏教を厚く庇護し、仏教寺院の建設を行った。中でも『ラーマ二世王作の大扉』は有名である。ワット・スタットテープワラーラムの仏堂正面を飾るための大扉で、ラーマ二世王が手ずから彫ったと言われるが、もちろん多くの職人たちが仕上げた。ただ王が自ら仏堂の扉を作る(寄進する)ことに、なみなみならぬ意欲を抱いていたのは確かである。
タイの憲法には「国王は仏教徒である」と規定されている。名実ともに仏教国であるわけだが、それはタイの上座仏教の解釈ゆえでもある。上座仏教伝は因果応報を世界原理とする。ただタイでは、はっきりと悪よりも善行による好循環を重視する。現世で功徳を積めば、将来必ず良い結果が生じると考えるのである。タイでは毎日僧侶たちが托鉢に出るが、お布施によって得た食物しか食べてはならないと定められている。また在家信者は僧侶たちにお布施をすることで現世的功徳を積む。そしてタイで最大の物質的援助を行うのが王である。
もちろん王には物質面だけでなく、崇高な内面的精神性が求められる。二〇一六年(タイ仏暦二五五九年)に崩御されたラーマ九世王がタイ国民から熱狂的に敬愛されていたのは、王が敬虔な仏教徒にふさわしい清廉な人柄だったからである。
『仏陀座像』
一軀 ラタナコーシン時代 一九〇三年 釈興然将来 青銅、金 高九一・五×幅四五・五センチ 神奈川・三會寺
明治から大正時代初期に活躍した日本で初めての上座仏教の僧侶、釈興然が修行のために訪れたタイから持ち帰った仏像の一つである。スコータイやアユタヤー王朝様式とは異なる点もあるが、どこから見てもタイの仏像だ。日本で伝来したので少し金箔が剥げているが、タイに伝来していたら金箔だらけになっていたかもしれない。タイでは仏像に、病気治癒や功徳を積むために金箔を貼る習慣がある。仏様はキンキラキンになるわけだが、成金趣味だとは言えない。
タイ仏は人間の身体の抽象だが、威圧するような肉の盛り上がりや、波乱を予感させる衣の翻りはない。その穏やかな表情はタイ人が考える人間の理想でもある。仏は人智を越えた領域におわすが現世的存在でもある。人々の願いを聞き届け、将来の幸福を約束してくれる。人々は一種の生き神様として仏像を拝み、そこに金箔を貼って功徳を積むのである。
もちろん人間の世界だから、タイ人全員がいい人ではない。かなり犯罪も多い。しかしタイでは文字通り仏教が生きており、多くの人々の生活や思想の規範となっている。
『金板装拵刀』
一口 ラタナコーシン時代 十九世紀 拵:木胎、金 刀:鉄 拵:長九八センチ バンコク国立博物館
日本とタイの交流は古く、室町南北朝時代にまで遡ることができる。徳川初期の元和七年(一六二一年)にはタイ国王使節が江戸城で二代将軍徳川秀忠に謁見している。江戸初期のタイとの貿易は盛んで、アユタヤーに日本人町が形成されるほどだった。彼らはアユタヤー国王から官位を与えられ、国王に仕えるのと同時に日本貿易の窓口になった。その後江戸幕府は鎖国に転じ日本人は帰国できなくなったが、日本人頭領では山田長政らが有名である。
当時の日本からの輸出品に日本刀があった。鎖国時代になると幕府は日本地図はもちろん武具などの輸出も禁じたので、江戸初期だけの輸出品である。ただタイでは日本刀が一種の宝物として扱われるようになった。『金板装拵刀』はラーマ三世王時代の民部大臣が使った佩刀で、タイで作られた日本式の刀である。
タイでは王族を含む上級貴族しか日本式の刀を帯びることができなかった。王位継承者も、日本式のタイ七宝模様の刀を帯びることになっていた。様々な文化が流入し、それを咀嚼して自国文化にしてしまうタイらしい日本刀の定着である。タイでの日本刀の定着はオランダのデルフト焼きと並んで、徳川鎖国時代に日本が外国文化に与えた数少ない物を通した文化的影響の一つである。
鶴山裕司
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