久しぶりの故郷。思い出したくない過去。でも親族との縁は切れない。生まれ育った家と土地の記憶も消えない。そして生まれてくる子供と左腕に鮮やかな龍の入れ墨を入れた旦那。それはわたしにとって、牢のようなものなのか、それとも・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑による連載小説第3弾!。
by 寅間心閑
三 (後半)
段々とじいちゃんの悪口になっていっても、やはり頼もしい。太ちゃんの両親はそれを頷きながら聞いている。私は覚えていないが、昔、お正月に集まっていた時もあんな感じだったのだろうか。
「ちょっとあんた、最初っからそがんペースば上げて、後が続かんばい」チエおばちゃんがからかう。「そういう自分が、お義父さんごとなっとったい」
そうだ。どこか懐かしさや頼もしさを感じていたのは、泰邦おじいちゃんの立ち居振る舞いがじいちゃんに似ていたからだ。じいちゃんは私には優しく、みんなから「あんたは特別ね」とよく言われていた。太ちゃんに尋ねてみる。
「じいちゃん、怖かった?」
「そうねえ、あのギョロ目がまず怖かろ? あと『男の子はしっかりせんば』ってよく言われよったさ」
やっぱり無条件に可愛がられていたのは、私だけかもしれない。
少し顔が赤らんできた泰邦おじちゃんが芋焼酎を頼んだ。一杯目に口をつけるタイミングで「美和子」と呼ばれ、「へ」と声が出そうになる。
「結婚、おめでとうな。ほら、みんなで乾杯せな」
ありがとうございます、と頭を下げる。煩わしさもあるが、やはり悪い気はしない。祝福されるのは嬉しいものだ。
「旦那さんにもお会いしたかったばってん、今回は急やったもんね」
そんなチエおばちゃんの言葉に、思わず「うん、仕事ば休めんかったもんやけん。すいません」と余計なことを言ってしまった。案の定「仕事は何しよる人なの?」と質問がくる。
「最初の何年間かは、お金ば貯めようって話してて、今は宅配ドライバーばしてくれとうと。ばってん、将来のこともあるけん、休みの日は太ちゃんみたいに勉強ばしよるみたい」
大嘘だ。旦那は休日、スマホでゲームをしているだけだ。余計なことを喋ると、嘘をつかなければいけなくなる。
――実は前科があるっちゃん。
そう軽く伝えれば、案外みんなは「そうね」と軽く受け止めてくれるのかもしれない。
「本当は気が弱い人たい。でも喧嘩に巻き込まれてしまってさ、自分の後輩が危険やったとて。倒れたところにさ、道端に置いてあった自転車を叩きつけられそうになってたけん、ナイフで刺して助けたったい。ナイフはもちろん護身用よ。気が弱い人やけんね。東京は訳分からん人がたくさん歩きようもん……」
そんな風にぺらぺらと喋ってしまいたい誘惑に駆られる。でも、出来なかった。何故だろう。
「そうねえ、資格でも何でも手に職さえあればね」
「本当よ。こがん時代やけん、資格は大事たい」
口々に言い合うチエおばちゃん達を見ながら、私はどうして嘘をついてしまったのか分からなくなる。何故だろう。あんな形で東京に行った私が、不安定で感心しない暮らしをしていたって何の不思議もないはずなのに。
「お前は結婚、まだか」
そう尋ねた泰邦おじちゃんに「私、まだ二十一やもーん」とおどけてみせる佳奈美。その接客業めいた明るい受け答えが場を和ませ、会話を弾ませていく。
「佳奈美は今大阪やったな? 向こうに彼氏はおらんとか?」
「おらん。私、あっちの人の言葉、好かんちゃん」
「やっぱ、こっちの言葉がよかろうもん」
やっぱり言葉は大事かもしれんね、と太ちゃんまで会話の輪に加わっている。今日何度か感じた、あの不穏な雰囲気を微塵も感じさせないのは酒のせいなのだろうか。
整形しただけでなく、昔の面影がまったくないこの子を、みんな佳奈美(仮)として受け入れている。とても不思議だが、それさえも故郷ゆえ、親戚ゆえの頼もしさなのかもしれない。
「若いうちは男も女も毎日が楽しかろうが。それは結婚してようがしてまいが関係ないったい。昔と違って今はとにかく便利やけんね。楽しかことも色々やけん、自分で取捨選択せにゃならんもんな」
芋焼酎にしてから、泰邦おじちゃんは輪をかけて饒舌だ。隣でチエおばちゃんが、何度もゆっくり飲むように注意をしている。
「太、分かっとうやろ。じいさんみたいなワンマンじゃ、この平成の世の中は渡っていけんとばい。俺みたいに三歩下がってついていく男じゃないと」
その言い回しが気に入ったらしく、泰邦おじちゃんは話の流れに関係なく、何度か同じことを口にした。もちろん何の問題もない。親戚同士のよくある風景だ。佳奈美も太ちゃんも早いペースでビールを空けていく。この子もお酒強いんだわ、と妙なところで姉妹の証しを確認する。
「このお皿ば素敵ねえ。おじちゃん、これって唐津焼?」
佳奈美が尋ねた相手は太ちゃんのお父さんだ。無邪気さを装っているが、万遍なく会話を振り分ける辺り、やはり接客業めいている。
「いやあ、どうやろうか」
「一楽二萩三唐津、やっけ? こがん素敵やのに三位げなおかしかあ」
「佳奈美、それは茶道で使う茶碗の話よ」
太ちゃんのお母さんに指摘され、「あれ、頭いい振りバレた。恥ずかしかあ」と笑っているが、わざと間違えて道化役に回ったと疑うのは、私の性格の悪さ故だろうか。
「姉ちゃん、このアラカブのお吸い物ば、もう一杯貰わん?」
さすがに目ざとい。私のお椀は空っぽだ。東京での呼び方は「カサゴ」と本で読んだので、実際に買ってきて調理したがやはり何かが違った。理屈ではない。私が好きなのはカサゴではなくアラカブだ。だから今も無意識のうちに食べ終わってしまった。そして佳奈美はそれを見逃さなかった。
「でも……」
「よかさ。こういうところは、ちゃんとやってくれるったい」
てきぱきと仲居を呼び、瓶ビール半ダースと共にアラカブのお吸い物を頼む佳奈美の姿は、やはりバランスがどこか崩れている。ただ太ちゃんのお母さんに言われたとおり、今日は御馳走に集中しようと思い「ありがとね、佳奈美。アラカブ、食べたかったっちゃん」と微笑みかけた。
ばってんあれね、とチエおばちゃんが私と佳奈美の方を見る。
「こがんしてみんなが集まったら、きっとお義母さんも喜んどらすね」
みんな、の中に私たちの母親は含まれていないようだ。遺影のばあちゃんが、昔のばあちゃんでよかったと思いながら、「本当、そうね」と頷いた。
「ほんなこつ、美和子も佳奈美も仲良さそうで安心したばい」
さっきまでの賑やかさから一転し、しみじみと話す泰邦おじちゃんに違和感を覚える。「安心した」のは元気そうだからではなく、「仲良さそう」だから? どうやら私たち姉妹は仲が悪いと思われていたようだ。
「もう二人とも子どもじゃないっちゃけん、色々思うところもあるやろうけど、仲良うせんとつまらんぞ」
酔いが回った泰邦おじちゃんの悪気ない一言に、場の空気が微かに締まる気がした。チエおばちゃんが「ちょっとあんた、水ば飲まんね」と諭すように語りかける。
「何がか。まだ、俺は酔っとらんばい。いや、酔っ払ってしまう前にさ、俺はお前たち二人に謝らんばいかんとさ」
太ちゃんのお父さんまで「まあまあ」となだめに入ったのは、放っておくと厄介な話題になると勘付いたからだろう。この田辺家一同に共通する厄介者は、もちろん私たちの母親だ。
周囲が制するのも聞かず、立ち上がらんばかりにして泰邦おじちゃんは話を続ける。
「美和子、お前がまだ二、三歳だった頃さ。あの家にひとり残らんばいかんかったのは、あのワンマンじいさんの命令やったとさ」
「あんた、いい加減にせんねよ」
今までよりも強く制したチエおばちゃんに「よかよ、話ば聞きたか」と告げたのは、私ではなく隣に座る佳奈美だった。おどけた感じの一切ない冷たい声が、更に空気を引き締める。誰も目の前の料理に箸をつけていない。
「お前たちの母ちゃんは、両方とも、美和子も佳奈美も一緒に連れて出るって言いよった。それは間違いなか。ばってん親父が、あのワンマンじいさんが許さんかったとさ」
「何で?」小さな声で佳奈美が尋ねる。「何で私だけ連れていかれたと?」
連れていかれた、という言い回しが耳に残る。置いていかれた私に気を遣っているのだろうか。
「反りが合わんかったとさ。ワンマンじいさんもお前たちの母ちゃんも、よう似とるったい。気性の激しかもんね。売り言葉に買い言葉たい。出てく、出てけって、それだけたい。俺たちもその場には立ち会ったさ。なあ?」
もう止められないと思ったのか、芋焼酎を飲みながらチエおばちゃんが無言で頷く。
「多分、美和子ば残させたのはワンマンじいさんの意地さ」
「いや、違うとよ、美和子。あんたさえこっちにおれば、きっと佳奈美ば連れて戻ってくるやろって、お義父さんは思いよったとさ」
当の本人である私に真偽のほどは分からないが、その両方だったのだろう。
ビール半ダースとアラカブのお吸い物が来た。
しばらくの中断を使い、佳奈美がうまく場の空気を変えてくれないかと期待したが、横顔を盗み見る限りそれは難しそうだった。今日何度か見た、あの不穏な感じがある。私は慌ててアラカブに箸をつけ、弾んだ声でお礼を言う。
「佳奈美、頼んでくれてありがとうね。やっぱり一杯じゃ足りんかったあ」
でもこの子は力なく微笑むだけだ。危ない、と思う。空いた瓶を下げて仲居さんが部屋を出て行くのと同時に、泰邦おじちゃんが再び喋り出す。
「あの場にいたのに何とも出来んかったのは俺のせいさ。美和子、佳奈美、本当悪いことばした。このとおり、本当すまんかった」
胡坐から正座を経て土下座する泰邦おじちゃんを、みんなで止める。私も「そがんこと、もうよかよ」と声を出した。でも、隣の佳奈美は無言のまま箸を持ち、イカの天ぷらを口に運んでいる。こういう時にどんな言葉をかけるべきかは分からない。もし分かったとしても今の佳奈美には何も言えない。
程なくして泰邦おじちゃんは、土下座から正座を経ることなく直接胡坐に戻った。別に勘繰るつもりはないが、心なしか表情が落ち着いて見えるのは、一仕事終えた安堵感のおかげではないだろうか。
土下座をすることは前もって決めてあったのだろうか。
それ以前に私と佳奈美は、本当に土下座が必要になるほどの被害を被ったのだろうか。
そしてその被害の大きさは、置いていかれた側と連れていかれた側、どちらも同じなのだろうか。
また、こめかみの辺りがうずく。
うっすらと尺八や琴の音色が流れていた廊下やトイレと違い、この部屋にはBGMがない。今頃気が付いたのは、それまで長い静寂が訪れなかったからだ。沈黙の中、みんな伏し目がちに食べたり飲んだりを繰り返している。
最初に言葉を発したのは、やはり泰邦おじちゃんだ。氷が溶けてすっかり薄くなった芋焼酎に口をつけ、ぽつりぽつりと喋り出す。
「俺もこの頃ようやく理解できるごとなったけど、墓は大事たい。ほら、親父は元気なうちから立派な墓ば目指しとったろ?」
じいちゃんがお墓に凝っていたのは何となく覚えている。「美和子はどれがよかね?」とカタログを見せてもらったりもした。
「元々の墓が物足りなかったっちゃろうねえ。初めは付属品ばグレードアップさせてさ。香炉に花立て、手水鉢。塔婆立てに墓誌……。あ、あれにお袋の名前ば新しく彫ってもらわんとなあ」
そうだったのか、と今更ながら知る。子どもには分からない「大人の世界」の話だ。
「ひととおり付属品を揃えたら、最後は石、墓石たい。石屋の人間ば家に呼んで、よう話しこんどったなあ。あんまり体調も良くなかったばってん、墓の話ばしよる時は楽しそうやったもん」
じいちゃんは私が上京した一年後に肺がんで亡くなった。お葬式にも出なかった私は肩身が狭い。当然、その自慢のお墓も見たことはない。私が知っているのは、グレードアップする前の形だ。佳奈美も一緒に暮らしている時、何度かお墓参りに行ったはずだが覚えているだろうか。
「そりゃあ死んだ後にずっと入っとく場所やけん、立派なものに越したことなか。それにあがん立派な墓なら、自分が死んだ後も話のタネになるったい」
「まさに今がそうたいね」チエおばちゃんが微笑む。
「墓狂い、なんて俺もからかいよったばってん、今ならあの親父の考えも、まあ分からんではなか」
墓狂い、という言葉に太ちゃんの両親も苦笑しながら頷いていたが、まったく記憶にない。これもまた「大人の世界」の話だ。
「美和子、佳奈美」泰邦おじちゃんが、赤ら顔に軽く笑顔を浮かべる。「色々言って気分ば悪かったろうが、俺だって鬼じゃなか。お前たちの母さんだって、最後はあの立派な墓に入ってくれりゃあと思っとうとたい」
重苦しくなりがちな話題の落としどころとしては最適だったと思う。でも佳奈美はそれを許さなかった。
「入れんでよか」
緩みかけた空気がまた締まる。音もなくすっと立ち上がる佳奈美にかける言葉が見つからない。
「おじちゃん、何か勘違いばしようみたいやけど、あの人のこと一番憎んどっとは私よ。生きようが死のうが関係なか。死んだ後も勝手気ままにしとけばよかたいね」
その言葉よりも声色に私は息苦しくなる。まるで美味しい料理を褒める時のように幸せそうな澄んだ声だ。
「だけん、あんな人、お墓には入れんでよか。ね?」
そう言うと、そのまま滑るように部屋から出て行った。ハンドバッグは残してあるから大丈夫、勝手に帰ったりはしないはず。そう思い、「すいません、あの子ったら」と姉らしい言葉を口にしてみる。取って付けたようだったかなと照れ臭かったが、すぐに我に返った。いや、返らざるを得なかった、と言う方が正しい。それくらい、みんなの反応がおかしかった。
「いや、よかよか。仕方なかよ」
「そうたいね」
「ねえ、ああも言いたくなるさ」
佳奈美に対しての妙に優しい反応が、私をじりじりと不安にさせる。ビールば飲み過ぎたっちゃろ、と冗談にするならまだしも、全員が佳奈美をかばうようにして理解を示すなんて――。
思いつく理由はひとつしかない。
一番辛かったのは置いていかれた私ではなく、連れていかれた佳奈美の方。だから、みんながかばっている。これ以外に思いつかない。
それが真実か否かは永遠に証明できないが、ここにいるみんなが真実だと思っているのなら、やっぱりそれは真実だ。母親に置いていかれた小学校三年の冬休みからずっと、私は真実を踏み外したまま、ここまで来てしまったのかもしれない。
ずっと母親に選ばれた佳奈美が羨ましかった。妬んでいた。すぐにでも立場を交換したいと願っていた。そんな私の想いが、見当外れで意味のない勘違いだったとしたら、今日までの日々――上京や結婚やこのお腹の子もまた、意味を失ってしまうのではないか。
いつものこめかみの痛みとは別のうずきが内側にある。一枚膜がかかったように、感覚が鈍くなっている。俺も吸い物ば貰おうかな、という太ちゃんの声を仲居さんに伝えるのが精一杯だ。
この部屋に似つかわしくない電子音が、突然鳴り響く。あらあら、とチエおばちゃんが立ち上がり、ハンガーに掛けた泰邦おじちゃんのジャケットから携帯を取り出す。
「慌てんでよか。この音はメールの方たい」
そんなやり取りを合図に、太ちゃん親子も携帯を出して何やら確認を始める。私もそれに便乗することにした。気付けば佳奈美の帰りが遅い。電話をかける振りをしながら部屋の外へ出る。もちろん、自分のトートバッグだけではなく、佳奈美のハンドバッグも持った。
念のため確認したが、トイレには誰もいない。くねくねと曲がる廊下を歩き下駄箱までたどり着くと、入店した時と同じ着物姿の店員の姿が見えた。
「あの、すいません」
「ああ、お連れ様でしたら……」
「もう帰りました?」
「はい」
やっぱりだ。すぐにスニーカーを出してもらう。今ならそんなに遠くへは行っていないだろう。こんなことなら携帯の番号を交換しておくんだった。そう後悔したが、そもそも連絡先の交換に消極的だったのは私だ。鈍くて勘の悪い私は、今日までこんな風にして踏み外してきたに違いない。
「あの……」
慌てている私の様子に気圧されたらしく、遠慮がちに店員が声をかける。
「はい?」
「あの、お連れ様からお支払いの代金をお預かりしております。お釣りの分は他のお客様にお渡しして下さいとのことでしたが、どちらのお客様にお渡しすれば失礼にあたらないでしょうか?」
いったい、いくら渡したというのだろう。尋ねたい気持ちをぐっとこらえ、「誰でも大丈夫です」と答えながら真新しいスニーカーを履く。結局、この店に来たことがあるかどうかは分からずじまいだったし、太ちゃんのお母さんにも謝れなかった。
「途中ですいません。お料理、本当に美味しかったです」
扉を開けてからそう告げると、店員は「またおいで下さいませ」と恭しく頭を下げた。
(第06回 了)
縦書きでもお読みいただけます。左のボタンをクリックしてファイルを表示させてください。
* 『松の牢』は毎月07日に更新されます。
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■