久しぶりの故郷。思い出したくない過去。でも親族との縁は切れない。生まれ育った家と土地の記憶も消えない。そして生まれてくる子供と左腕に鮮やかな龍の入れ墨を入れた旦那。それはわたしにとって、牢のようなものなのか、それとも・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑による連載小説第3弾!。
by 寅間心閑
四 (前半)
外は少々肌寒いが、早く佳奈美を見つけなければという焦りから額に汗が滲む。時間は八時を少し過ぎたところ。来るときにタクシーで通ってきた道をたどり、周囲を見渡すが人通りはない。
とりあえず太ちゃんに「今日はもう戻らない」と連絡を入れておこう。そう思い携帯を取り出してはみたが、なかなか決心がつかない。直接話したくはないから、出来ればメールで済ませたい。でもメールアドレスは知らない。どうか留守電になりますようにと祈りながら、電話をかけようとした瞬間、「姉ちゃん」と声をかけられた。向こうから右手を高く上げながら佳奈美が歩いてくる。左手に何か持っているが、多分アルコールだろう。
「佳奈美、あんた……」
「さっすが姉ちゃん、バックば持ってきてくれとう」
私は責めようとした言葉をぐっと飲み込んだ。やめよう。この子のハンドバッグを持ってきた時点で私も同罪だ。共犯同士で仲間割れはしたくない。
「姉ちゃん、まさか店にもう一度戻ると?」
「そこまで心臓強くなか」
バッグを受け取り、「それもそうたいね」と笑う姿は、私が知っている佳奈美のままにも思える。昔の感覚で気軽に喋りかけてみた。
「ちょっとあんた、太ちゃんにだけは戻らんこと伝えんば」
「あ、それもそうね」
半ば冗談で面倒くさい役割を押し付けたつもりだったが、サングラスを頭の上に乗せた佳奈美は、スマホを取り出しメールを打ち始める。飲んでいたのはカップ酒だった。
「え、太ちゃんのアドレスば知っとうと?」
「ううん」
「や、でも今……」
「番号で届く方にした」
そういう方法があったか、と素直に感心する。私は普段、電話やメールをあまり使わない。
「よし、これでオーケー。さ、姉ちゃん、行こう」
「?」
「まずはタクシーばつかまえんと」そう言いながら、大通りの方へ歩き出す。「ここじゃ、つかまらんやろ? あと太ちゃんが探しに来るかもしれんし」
その落ち着いた様子は、連れていかれた方と置いていかれた方が全く違う人生だったことを想像させた。さっきまでは世慣れた仕草を心配していたが、今は私の方が頼りないだけだと認めざるを得ない。
すぐに見つかったタクシーに乗り、佳奈美が告げた行先はあの松原だった。あそこへ行くのは明日の午前中と言っていたはずだが、もう私は逆らわない。なるようになれ、だ。初老の運転手が「もうこの時間だと、あそこら辺は暗かですよ」と親切に教えてくれる。
「はい。でもよかでーす」
「あ、こっちの人でしたか。失礼しました」
案外、私たちは旅行客に見えているのかもしれない。
タクシーの窓の外は予想以上に暗かった。上京する前、こんな夜中にこの辺りを通ったことはない。太ちゃんの家で暮らし始めてからは、電車ばかり使っていた。カップ酒を飲みながらスマホをいじる佳奈美の横で、私は何となく携帯を手にする。いざこうして二人きりになると話のきっかけが難しい。
「今、仕事は何しようと?」
「母さんとは連絡ば取っとうと?」
「連れていかれた後の生活は、どんな感じやったと?」
尋ねたいことは幾つもあるが、順序を間違えるとこの子は一切を閉ざしてしまうだろう。今まで知らなくても大丈夫だったから、このままでも良いような気さえする。
「姉ちゃん、あれ、最後はデザート出たっちゃろ?」ぽん、と言葉が投げられた。「何が出たとかしらねえ」
甘ったるい日本酒の匂いを微かに嗅ぎながら、「さあねえ」と答える。全額払った件についても訊きたいが、このタイミングではないだろう。話を進める順序がなかなか掴めない。しばらくは他愛のない話を続けよう。
「佳奈美、何が出たら嬉しかった?」
「かりんとう」
「へ?」
「か、り、ん、と、う」
「ああ、黒い方やろ」
「そうたい」嬉しそうな声で笑い出す。「姉ちゃん、覚えとったと? 嬉しかあ」
昔、何度か買ってあげた記憶がある。あの松原や海岸を歩きながら、この子はぼりぼりと音をたてながら食べていた。
「運転手さん、もうちょっと行くとコンビニばあるんで、そこに寄って下さい」
かりんとうを買うんだな、ということは分かった。驚いたのは、佳奈美がコンビニの場所を知っていたことだ。しばらくすると看板が現れて、段々と窓の外が明るくなった。店舗自体の大きさに比べ、やけに広い駐車スペースにタクシーが停まる。街灯に群れているのは蛾だろう。こんな時間にあの松原に行くのは初めてだ。
「姉ちゃん、何か飲む?」
「じゃあウーロン茶」
「うん、分かった」
自分の違和感に確信が持てたので、店内に入る佳奈美の後ろ姿を見ながら運転手に尋ねてみる。
「このコンビニって新しいですよね?」
「うーん、新しいちゅうても三、四年は経ちますかねえ」
やはりそうだった。私が上京する前、こんな店はなかった。どうりで見覚えがないはずだ。でも、佳奈美は知っていた――。
「いやあ、てっきり都会の方から来られた観光のお客さんやと思いました」
「いえ、そんな……」間違ってはいないが、詳細を話すつもりもない。「全然です」
「お連れのお客さん、ほら、芸能人に似てる人のおるでしょう?」
「へ?」そんなことは考えてもみなかった。「そうですか?」
「うーん、もうこの歳になると名前がすぐに出らんですもんねえ」
コンビニから佳奈美が出てきた。心なしかふらついているようにも見えるが、あれだけ飲んでいれば無理もない。
「お待たせえ。はい、これは運転手さん」
袋の中にはワインのボトルが二本と缶コーヒー。かりんとうは入っていなかった。機嫌がいいならどれだけ酔っ払っても構わないが、さすがに飲み過ぎだ。缶コーヒーを貰った運転手は、「わあ、ありがとうございます」と何度も頭を下げながら車を発進させる。ここからは松原の真ん中を貫く一本道が続くはずだ。
コンビニから離れると、すぐにまた道は暗くなった。道の両側に連なる松の緑も闇に溶けている。さーてさて、と歌うように呟きながら、隣で佳奈美がワインのスクリューキャップを開けた。
「ここら辺はあまりタクシーの通らんでしょ? もしよかったらこの番号に連絡ば下さい。すぐに来ますけん」
降り際、そんな言葉をかけてくれたのは、缶コーヒーの効果、というよりお釣りを受け取らなかったからだろう。車中から気付いてはいたが、この時間の松原は本当に真っ暗だ。車のライトがなければ大きな闇の塊になってしまう。
でも、佳奈美は降りるべき場所をちゃんと知っていた。停車した場所は昔からあるお土産屋の前。店は住居を兼ねているらしく、漏れ出る光が闇から一帯を浮かび上がらせている。それに加えて街灯もあった。多分、ここが明るいと経験上知っているのだろう。それでも一応尋ねてみる。
「真っ暗やない。佳奈美、怖くないと?」
「うん、ここならまあまあ明るかろ? 裏に回れば庭がコテージんごとなってて、もう少しだけ明るいとよ」
そんなことを何で知っているの、という問いかけを呑み込み、ぬるくなり始めたウーロン茶を口に含んだ。佳奈美に続いて、松原の中に足を踏み入れる。
「姉ちゃん、ほら、月が出てるやない」
「うん」
「まだ満月には早かやろ」
「そうね」
「夏になるとさ、入ってすぐの所はセミのやたらうるさかったよねえ。でも私、意外とあのうるさいのが好きやったとよ」
「今でもうるさいとかしらね」
「うん、うるさかよ」
「……」
先を歩く佳奈美の背中から目が離せない。この子は多分、訊いてほしいのだ。そんなことを知っている理由を、ちゃんと問い質してほしいはずだ。そして、私にすべてを話してしまいたいのだろう。
けれど、迷う。
その話を聞いたが最後、私はズブズブとはまってしまい抜けられなくなる。思わず右手でお腹をかばった。この子に煩わしいあれやこれやを背負わせたくはない。
「いっちょん海の匂いがせんね」
ゆったりとした足取りで闇を進みながら、佳奈美は話を次に進めた。これで終わりではないだろうが、ひとまず先送りに出来たのでほっとする。
お土産屋の裏庭の明るさのおかげで、案外早く目が慣れてきた。たしかに海の匂いはしなかったが、私は何も答えず松の影を見上げている。上空で枝が幾重にも重なり合い、まるで包み込まれているようだ。ゆっくり視線を下ろせば、ワインをらっぱ飲みする度にがくがくと揺れる佳奈美の後頭部。これはやはり地毛ではない。ウィッグだ。
「姉ちゃん、目、慣れてきたやろ?」
「うん」
「ね、意外と早いとよ」
この子はこんな夜の時間に、大阪から何をしに来るのだろう。
「あ、あった、テーブル。ね、座ろう」
目を凝らしてみる。この頑丈そうなテーブルなら覚えている。この広い松原の中に、いくつか置かれている木製のテーブル。当時、佳奈美と座っておしゃべりをしたこともあるし、それよりも前、じいちゃんの車で来た小学生の頃に、お菓子を食べたりした記憶もある。
懐かしさは確実に芽生えている。でも、一向に大きく育たないのは薄気味悪さのせいだ。この闇も、そして私に何かを隠している佳奈美も、どちらも薄気味悪い。
「私、ここで姉ちゃんから自由研究のこと、教えてもらったったい」
「六年生の時やったっけ?」
「そう、よう覚えとうね」
よいしょ、と大袈裟な声を出しながら懐かしいテーブルに座る。飲みかけのワインとコンビニの袋に入ったワイン、そしてあの子の顔が目の前に並ぶ。きっと私の顔も、徐々に浮かび上がってきているのだろう。こうして向かい合ってしまったら、これ以上はごまかせない。右手でお腹をかばいつつ、私は口を開いた。
「佳奈美」
「ん?」
「あんた、今でもここに来ると?」
「まあ、たまにね……」
「でも、今大阪に……」
「ストレス、マックスになったら来るっちゃん」
「……最近も?」
「うん」
暗いせいだろうか、喋り終えた言葉がずっと周りに漂っているような気がする。少し前から海の匂いを感じるが、それは今伝えることではない。私からの質問が途切れたことを確認してから、佳奈美はバッグから何かを取り出し口に入れ、ワインで流し込んだ。私の怪訝な表情が読み取れるほど、目が闇に慣れてきたのか「今のはお薬。処方薬」と自分から教えてきた。
「具合、悪いと?」
「うん、心の病気たい」そう言って肩を揺らして笑っている姿が怖い。「高校の頃からずうっと治らんもん」
妹の大事な告白なのに、頼りない姉からは何も出てこない。ごめんね、という言葉が何故か浮かんでいるが、理由が曖昧な謝罪などしない方がいい。
「ああ、すっきりしたあ」大きく広げた両腕をばたつかせる。「薬のこと、姉ちゃんには何となく言いづらかったけん言わんやったけど、やっぱり言ってよかったあ」
ぐっとワインを飲み微笑みかける佳奈美に、出来るだけ軽い調子で訊いてみた。
「今日、お母さんは?」
暗い中でも表情が硬くなったのが分かる。でも、もう引き返せない。無理をして精一杯優しく微笑んでみる。
「何か用事があって来れんやったと?」
「知らんたい」
「でも連絡は取っ……」
「もう何年も連絡ばしとらん。番号も登録しとらんし、私の番号もとっくに変わっとうし」
微笑みを止めてはいけない、と言い聞かせる。私の知りたいことを、まだ聞き出せてはいない。
「大阪にはいつから?」
「十七」
「高校は?」思わず声がきつくなってしまう。「やめたと?」
「うん。で、通信で資格だけ取った」
「そうね」
「嘘。やっぱり卒業したっていうと安心するっちゃんねえ」
また人を試すようなことをして、と苛立つ余裕はない。ただただ驚いている。まったく知らなかった。
「大阪へはひとりで行ったけん、学校に通うなんて考えもせんやったねえ。年ばごまかして働いて、漫喫やらネカフェやらに泊まってさ……。あれよ、家出少女たい」
そういう女の子たちの特集をテレビで見たことがある。まさかこの子が、と驚きつつも、自分だって紙一重なんだと喉の辺りが震える。私も太ちゃんのお母さんが通帳を渡してくれなければ、きっと東京で同じようになっていたはずだ。
「姉ちゃん、苗字変わったっちゃろ?」
「うん。今はミヤノ」
「へえ。ミヤノミワコ。うーん、何かピンと来んねえ」
「私もよ」
「私はね、大阪に行くまで四回、苗字ば変わっとうとよ」
どうにか歯を噛み締め、その言葉を受け止める。わざとこんな残酷な順序で話しているのだろうか。それとも私は恨まれているのだろうか。もしそうだとしたら、いつからなのだろうか。
「姉ちゃんと会って遊んどった時も、一度変わっとっちゃん」
「…」
「苗字変わっても外見は変わらんけん、バレんかったったいね」
「何でその時に……」
「言えるもんね」
ぎょっとするほど優しい声だ。別に私を恨んでいるわけではないのかもしれない。もちろん、恨む・恨まないという単純な話ではないが、今はそれ以上受け止めようがない。
「ごめんね」
先に謝罪を口にしたのは佳奈美の方だった。曖昧な理由かも、と疑う間もなく言葉が続く。
「姉ちゃんのこと、本当に大好きたい。姉ちゃんに会いたいけんが、時々おばちゃんのところにも電話ばしよったし」
テーブルに突っ伏して沈黙した後、顔だけ上げて微笑む姿は昔を思い起こさせる。こういう可愛らしい仕草を私はしたことがない。
「でも、どこかで妬んどうとさ。おじいちゃん、おばあちゃんと一緒に暮らせる姉ちゃんが、ずーっと羨ましかったあ」
上体を起こし、ニコッと笑ったままワインを飲み干すと、すぐに二本目に手を伸ばす。もうやめんね、とは言えない。置いていかれた方にそんな資格はないのだ。
「やっぱ赤のが美味しかねえ」
立ち上がった弾みで空になった瓶が倒れたが、もちろん佳奈美は気にしない。そのままテーブルを離れ、ふらふらと薄闇の中を歩いている。スカートから伸びた脚が、発光しているように白い。
(第07回 了)
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* 『松の牢』は毎月07日に更新されます。
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