久しぶりの故郷。思い出したくない過去。でも親族との縁は切れない。生まれ育った家と土地の記憶も消えない。そして生まれてくる子供と左腕に鮮やかな龍の入れ墨を入れた旦那。それはわたしにとって、牢のようなものなのか、それとも・・・。辻原登奨励小説賞受賞作家・寅間心閑による連載小説第3弾!。
by 寅間心閑
三 (前半)
こういうのを高級料亭というのだろう。大仰な暖簾をくぐり一歩敷地に入ると、飛び石と砂利が敷き詰められた庭園風になっていた。ライトアップされたその眺めを、佳奈美はスマホのカメラで撮っている。すごかねえ、という呟きに頷きながら支払いのことを考えた。上京する前は学生だったので、こんな時にお金を出すことなどなかった。今、私たち姉妹は、「大人」として数えられているのだろうか。
木造りの扉を開け「田辺です」と告げると、着物姿の店員が恐縮するほど深々と頭を下げた。木製の鍵付き下駄箱が目に入る。どうやらスリッパに履き替えるようだ。脱いだ真新しいスニーカーを揃えようとすると、また店員が「そのままでどうぞ、お上がり下さいませ」と頭を下げた。化粧っ気がないせいか高校生くらいに見える。
「わ、靴下に穴ば開いとらんかしら。姉ちゃんはどう、大丈夫?」
「いいから早く」
こんなやり取りをしている私たちは、やはり「大人」ではないような気がする。佳奈美の用意を待って、別の中年の女店員が奥の個室へと案内してくれた。胸の小さな名札には「仲居」の二文字。私はそれだけで「やっぱり高級なのかしら」と身構えてしまうが、佳奈美はそうでもないらしい。辺りをキョロキョロしながら、「へえ」「なるほどねえ」とうるさい。
部屋の配置のせいか、また長くて広い廊下のせいか、店内は外観よりも広く感じる。三度目に角を曲がった時、「迷子になりそうやね」と後ろで笑う佳奈美の声を聞きながら、以前この場所を歩いた記憶が一瞬浮かんだ。砂壁に掛けられた絵や書、足元の廊下灯、障子戸の向こうから漏れる人の気配。ぼんやりとだが覚えている。多分、太ちゃんの家で暮らし始めてからのことだ。
「皆様、もうお見えになっとられますよ」
訛り気味の丁寧語に促されて障子戸を開け、履いたばかりのスリッパを脱ぐ。広めの和室に大きな木製の座卓が一台、その上にお皿やお椀が人数分並んでいる。
「こんばんは」五人とも揃っていた。「美和子と佳奈美です。遅れてすいません」
「お、俺たちも今来たとこばい」チエおばちゃんにジャケットを脱がせてもらいながら、泰邦おじちゃんが手を挙げる。「じゃあ、姉妹仲良くそこの席にせんね」
言われたとおり、入ってすぐの席に座ろうとすると、太ちゃんのお母さんに「美和子、ちょっと」と部屋の外に連れ出された。斎場では出来なかった、かしこまった大人の挨拶。それをしようとしていた矢先に出鼻をくじかれてしまった。
「どうしたと?」
「まずは骨葬にしたことば、謝らんとね」
「コツソウ?」
「ほら、おばあちゃんのさ。もう焼き場に行った後やったって、太から聞いたやろ?」
「ああ、はい」
「最後に顔ば見たかったやろ? 美和子、本当にごめんね」
深々と頭を下げられ、私は慌てるしかない。やめてやめて、と肩を揺する。だって、私が今でも好きなのは昔のばあちゃんだ。
「あとこれ、お義兄さんのところからね。で、こっちがうちから。本当、結婚おめでとうね」
もうそろそろ五十歳になるはずなのに、太ちゃんのお母さんは若々しい。ちっとも変わっていないから、こうして向き合っていると一緒に住んでいた頃みたいだ。日に焼けているのは、テニスを続けているからだろう。
「……いや、でも……そんな……」
「御祝儀やけん、何も遠慮せんでよかろうもん? こんな渡し方で悪いっちゃけど、ほら、佳奈美には何もないけんが」
「いえ、ありがとうございます」深々と頭を下げる。
「このことは今日はもういいけん、お義兄さんのところには、後でお礼ばちゃんとね」
「はい」
大人の挨拶どころか満足にお礼も言えず、ひたすら頭をペコペコ下げるだけの私は、やっぱり「大人」ではない。恥ずかしさのせいで、額に細かな汗が浮かぶ。
「あと美和子」声を潜め、太ちゃんのお母さんが顔を寄せる。「ちょっと正直に教えてほしいっちゃけど……」
「はい」
「佳奈美とはどれくらいぶりね?」
「えっと、最後に会ったのは高校生の時だったけん……」
「そうね。じゃあ、あんたも久しぶりに会ったったい」
あんた「も」、という言い回しに反応した私に、太ちゃんのお母さんは顔を寄せたまま頷いた。懐かしい化粧水の香りがする。
「うち達も会っとらんとよ。携帯の番号は知っとうとさ。普段からね、気まぐれに連絡ばくれると」
「そうなんだ」
みんなも(仮)だと感じていることに驚きはしない。ただ気まぐれとはいえ、あの子から連絡をしてくるのは意外だった。東京に出て以来、まったく連絡をしなかった私は曖昧に微笑むしかない。
「うん。でも電話だけやけん。顔見るのは……、十五年ぶりになるかしらね」
「……」
「ま、今日は色々考えんでよかよ。美味しい料理ば食べることに集中しなさい」
そう言い残して部屋に戻る後ろ姿を見送った後、お金を仕舞っておこうとトイレに入る。御祝儀袋を開けて驚いた。両方とも十万ずつ、合わせて二十万円。やっぱり土産物を買ってくればよかったなと思う。お世話になった親戚と、久しぶりに会うんじゃないか。葬儀のマナーがどうだとか、私は何を勘違いしていたんだろう。ただただ情けない。
別に用を足すでもなく、便座に座ったまましばらく目を閉じていた。太ちゃんのお母さんは何も言わなかったが、六年前に強引な形で上京したことを謝ろう。そう決めた。純粋な気持ちなんかではない。謝ることで、少なくとも私は楽になれる。結局、ただ甘えているだけだ。
六年前も当然甘えていた。
今振り返れば分かる。きっかけは些細なことだし、順序立てて考えれば気分を害す必要もない。でも当時は理解しようともしなかったし、実は今だってあの時の自分を完全には否定できない。だから今日、たとえ宿が決まらなくても、十年間暮らしていた太ちゃんの家にお世話になるつもりはなかった。
六年前、高校最後の夏休みが終わったばかりの夜。太ちゃんの両親は、揃って近所の居酒屋に出かけていた。
私の部屋は二階の端、階段に近い方の部屋で、太ちゃんの部屋との間には物置代わりの狭い部屋が二つ並んでいた。いつものようにベッドに寝転がってイヤホンでラジオを聞きながら、何人かの友達と雑談じみたメールを交わしていたと思う。
太ちゃんが入っていたので、一階のトイレを使おうと階段を降りていた時にその声は聞こえてきた。
「そういえば美和子さ、先生に福岡だけでなく大阪の専門学校も考えてるって相談しよるらしいったい」
太ちゃんのお母さんの声だ。まだ帰っていないと思っていたので驚いた。いつもより声が大きいのはお酒のせいだろうが、太ちゃんのお父さんの返事は小さくて聞こえない。
「そうたい。でもあれよね。もし大阪ってなったら、お義父さんからの振り込みはなくなるとやろ?」
ふと階段の途中で足が止まる。振り込み、とは何のことだろう。
「いや、ばってん仕送りばせんといかんたい。大阪の方がそりゃあ色々と高いっちゃけん。だけんさ、あんたからお義父さんに言っといてくれんと……。うん、そりゃそうたい。今までどおりでさ、美和子がここから通ってくれれば助かるっちゃけどねえ……」
トイレのことなど忘れ、私は足音をたてないようにして部屋へと戻った。私を育てているから、じいちゃんからお金が振り込まれている、という事実が気持ち悪かった。それだけではない。私がこの家を出ると、そのお金は振り込まれなくなる――。
今ならば当然のこととして理解できる。いくら姪とはいえ、他人を育てていくのだから、それ相応のお金は必要となる。でも、あの時の私にそんな理屈は通じない。まるで邪魔者の世話代みたいだと悲しくなった。裏切られたと感じたのは、佳奈美と会う時に貰っていた二枚の千円札を思い出したからだ。あれだってじいちゃんから振り込まれたお金じゃなかったのか。
太ちゃんの家から、いや、この近所から、佐賀県から、九州から逃げ出さないと、私はずっと邪魔者だ。あの瞬間、私は東京に行くことを決めた。大阪よりも遠くて有名な行ったことがない場所だから、だ。それが理由にならないなら、やはり理由などなかったのだ。
乗り越えるべき壁はふたつあった。まずは高校の先生。突然上京を希望し始めた私に戸惑っていたのか、あまり協力的ではなかった。複雑な境遇が役に立つのは、そんな場合しかない。実は家で色々あって……、と悲しい顔をしたら、それ以降は何も言われなかった。
次の壁は太ちゃんのお母さん。先生よりも難しい。下手な小細工は通じないと思い、率直な気持ちをぶつけることにした。
――上京はしたいがやりたいことが決まらないので、最初の一年はフリーターをしながらお金を貯めたい。
ちょっと正直すぎたかなと思ったが、話は最後まで聞いてもらえた。三日間だけ時間ばちょうだい、と言われたものの翌日には認めてくれた。もちろん、今ならば素直に感謝できる。でも、あの時の私はひねくれていた。邪魔者がいなくなってせいせいしてるんだわ、と逆恨みをしたまま東京に出てきてしまった。
きっと役に立つから、と太ちゃんのお母さんから押し付けられた預金通帳のおかげでずいぶんと助かったくせに、「どうせ私は邪魔者だから」と感謝の気持ちさえ持てなかった。最悪だ。
その後結婚をしてもハガキ一枚さえ出さず、突然六年ぶりに帰ってきた私は、果たしてどう思われているのだろうか。東京でろくでもない暮らしをした挙句、ろくでもない男をつかまえたと笑われているのだろうか。それとも期待や興味など端から持たれていないのだろうか。
――まずい。
一度気持ちを落ち着けないと、また「だろうか」「だろうか」で、頭がいっぱいになってしまう。考えるのは後まわし。何なら東京に帰ってからでいい。今は楽しいことを思い浮かべよう。
そう、かしこまった挨拶なんて必要ないんだ、ということを今は素直に喜びたい。美和子、と名前で呼んでくれる人に大人ぶっても仕方ない。昔のままでいいんだ、と思うと肩の力が抜けていく。
そして、揺らいだ。
みっともないが、「最後の帰郷だ」という曖昧な決意は、目の前の二十万円で簡単に揺らいでしまった。東京で結婚して妊娠している今の私は、学生の頃より経済的に頼りない。いっそのこと、旦那を連れてこっちに引っ越してしまえば、この頼りなさからは逃れられるような気もする。あまり余裕のない1DKのマンション暮らしよりはきっとマシだろうし、家賃だってもっと安くなるだろう――。とても綺麗なトイレの中、私は大きなため息を何度かこぼした。
気持ちの切り替えはうまく出来なかったらしい。部屋に戻ると佳奈美が「気分悪いと?」と心配そうにのぞきこむ。その表情は緊張のせいか少し強張っていて、独りきりにしたことを反省した。いくら親戚とはいえ、十五年ぶりに会う人ばかりでは心細かっただろう。そんな私も六、七年ぶりだが、今、この子が頼れるのは私だけだ。障子戸が開き、若い女店員が「すいません」と声をかける。
「最初はビールをお持ちすればよろしいでしょうか?」
そいでよか、と泰邦おじちゃんが対応した後、私は小声でウーロン茶を頼んだ。かしこまりました、と立ち去るところへ佳奈美が「ビールのグラスは人数分より一個多い八つでいいとよ。それプラスでウーロン茶ね」と口添えをする。その言葉で、座卓の上に置かれたばあちゃんの写真に気付いた。
「まだ学生やんね、あの子。おばあちゃんにも注ぐとか分からんやろうし」
大人ぶった言葉に、部屋のコンセントでスマホの充電を始めた太ちゃんも乗ってくる。
「いや、本当。酒飲むところは、高校生やと大変たい」
そういえば太ちゃんは高校生の時、夏休みと冬休みにはチェーン店の居酒屋でバイトをしていた。そんな昔話をしようと思ったが、また佳奈美を独りきりにしてしまいそうなのでやめる。
「俺も高校の頃、居酒屋でバイトばしよったけん分かるとさ」
こうして自分から話してくれれば大丈夫。私は控えめに相槌を打つだけでいい。しかも高校生って時給安かろ、と佳奈美が会話を受けてくれたので、気が楽になった。ウーロンハイに炭酸を入れてしまった、という太ちゃんの昔話で笑っている私たち三人は、仲の良い従兄妹同士に見えているはずだ。
ビールが来た。
「ほら、若い者たちはすぐ飲んでしまうやろうけん、あと半ダース持ってきて」
今にも立ち上がらんばかりに身振り手振りをつけ、泰邦おじちゃんが場を仕切る。従兄妹三人が入り口近くに並び、向かい合わせの上座には、太ちゃんの両親とチエおばちゃん。泰邦おじちゃんはいわゆる「誕生日席」で、ばあちゃんの写真の位置を何度も直している。
「お袋はビール好きやったもんなあ」
話しかけるようにしてグラスにビールを注ぐ姿は、ずいぶんと老け込んで見えた。ばあちゃんがビールを飲んでいる記憶は、私の中にはない。
呼子のイカの活き造りを中心に、アラカブの煮付けや焼き物、天ぷら、茶碗蒸し、と目の前に運ばれてくる料理に、佳奈美は「豪華やねえ」とはしゃいでいる。スマホを構えてイカを撮影する無邪気な妹に、「やめとかんね」と姉らしく注意をしたが、気持ちが分からないわけではない。私も活き造りなんて何年ぶりだろう。太ちゃんの家で暮らしているときに、何度かみんなで食べに行った記憶がある。それがこの店だったかは分からない。佳奈美がトイレに立ったら尋ねてみよう。
まずは美味しいうちに食べてしまわんね、という泰邦おじちゃんの声に従い、みんな「おいしかねえ」と感想を言い合いながら、料理を口に運んでいる。何も話さなくていい気楽さが心地いい。旦那との食事の際、特に外食の時など、いまだに私は話題を探してしまう。もちろん探してきたような話題で会話が弾むはずもなく、大概は妙にぎくしゃくするだけだ。
「ちょっと姉ちゃん、見て、イカ。ほら、足のまだ動きようやない」興奮した様子で、スマホを構えた佳奈美が肩を叩いてくる。「これは絶対動画よね。そう思わん?」
「見直す度にお腹が空くわよ」
「フフ、そうかもしれんね」
そう、こんな他愛もない会話が旦那とはなかなか出来ない。単純に結婚してから二年弱という期間の短さだけが、その理由であってほしい。独り言のように「おいしか」と感想を呟き合う太ちゃんの両親や、それすらもないチエおばちゃんと泰邦おじちゃん。この二組のベテラン夫婦も、新婚当初はぎくしゃくしていたのだろうか。
佳奈美がふと立ち上がり、竹製の運びから瓶ビールを一本取り出すと、器用に栓を抜き太ちゃんのグラスに注いだ。注ぎ返そうとする十五年ぶりの従兄妹に、笑いながら「気ば遣わんで。ここからは手酌にしよ?」と答える姿はとても自然だ。あまり深く考えずに佳奈美を真ん中にしたが、案外この並びは正解だったかもしれない。
「少しでいいけん、姉ちゃんもビール飲まん? この何? イカシュウマイ? 本当、これと相性抜群よ」
真正面に座る太ちゃんのお母さんが反応する。
「あれ、何ね。美和子はお酒飲めんと?」
「いや、飲めるけど弱いと。すぐ酔っぱらうし、真っ赤になる」
相手の目を見ながら嘘をつくのは本当に緊張するが、泰邦おじちゃんから助け舟が出た。
「無理して飲まんでよか。せっかくの御馳走の味が、分からんようになろうが。あとあれさ、女の呑兵衛はモテんやろう」
その助け舟に佳奈美がうまく乗った。
「おじちゃん、ひどかあ。だけん、私、モテんとね」
思わず吹き出した泰邦おじちゃんにつられ、一気に部屋の空気が和んだ。多分、佳奈美はこのタイミングを待っていたと思う。(仮)が取れた、というよりも(仮)が付いた状態のまま、場に打ち解けた感じだ。
「太ちゃんは仕事ば何しようと?」
「ん? 塾の先生」私も知らなかったので、思わず顔を向ける。「ま、ずっとやるかどうかはアレやけん、空いた時間ば使って資格を取ろうとは思っとうけどね」
「へえ、すごかあ。頭ばいいっちゃんね」
小さい頃からずっと一緒にいたかのように話し合う佳奈美と太ちゃんの会話や、バッグにしまった御祝儀の二十万円は、考えてもみなかった故郷の「利点」だった。もちろん、具体的にお金や親戚付き合いが欲しいわけではない。ただ、いざという時にそういうモノがあるという事実が、今の私には心強く感じられる。さっきから独演会さながらにばあちゃんの思い出を語っている泰邦おじちゃんでさえ、見方を変えれば頼もしい存在だ。
「ま、お袋はもう少し自由に生きてもよかったって思うとさ。親父があんなワンマンだったけん、そりゃ可哀相な時もあったもんねえ。ほら、親父はすぐ手が出るけん、今ならDVで捕まるところばい」
(第05回 了)
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