(一通目)
拝啓
御健勝のこととお慶び申し上げます。
このたびは私どもの身の丈を越えた願いを快くお聞き入れくださり、貴殿の作品原稿を頂戴いたしましたこと誠にありがたく、同人一同心より感謝の念を申し上げる次第です。
さて、原稿を拝見するに、『句篇』というその題名からして、安井さんの作品創出の道行きに新たな次元を布告しているのではないかという予感を抱きました。「新たな」と申しましたが、前衛俳句を出自とする安井さんにとってその前衛性とは、伝統俳句という腐肉に斬りつけて新しい血を流すことではなく、伝統であれ新興であれ身に纏わざるをえない俳句という血肉そのものの探求にあり、俳句作品に新しい表現領域を求めることとは一線を画していると理解しています。
しかし、そうした安井さんの俳句論とは別に、我々読者が安井俳句をどのように読むべきなのか、ここら辺で改めて安井俳句の読みを考えるべきときがきたのではないでしょうか。それは、『汝と我』後記に書き記された「私は特に意図的でなかったにせよ、意識の流れによる俳句作品の群れの出現と展開を考え、一句集一作品の在りようを思い描いたのは事実である。」という一文に始まり、ここに書き継がれている作品の題名が『句篇』であるという事実が、私に妙な胸騒ぎを起こさせるのです。
『句篇』という題名からまず想起されるのは、エズラ・パウンドの長編詩『詩篇(カントオズ)』です。パウンドは二十世紀初頭の欧米において文学の前衛運動を導きましたが、とかく破壊的方法論に傾きがちな前衛の渦中で本質的な詩の在り方を問い続け、それは初期のイマジズム運動として結実しました。そしてこのイマジズムを作品化する過程において、パウンドは文学形式としての日本の俳句に着目し、一つのイメージで完結するような短詩を数多く発表しました。その後パウンドは、現代の叙事詩という構想のもと『詩篇』を書き継ぐのですが、御存知の通りそれは二万七千行にも及ぶ長大な詩で、一見して俳句とは似ても似つかないものです。しかし、その一行一行は具象的な強いイメージで完結しており、しいて例えれば二万七千句の俳句が奏でる現代という交響楽のようでもあります。もちろんそこから一直線に安井さんとパウンドを結び付けるのは時期尚早に過ぎるでしょう。が、『詩篇』を読む方法で『句篇』を読むことができれば、ひいてはそれが安井俳句を読み解く可能性につながりそうだと予感せざるを得ません。
しかし私はいささか性急に過ぎたようです。この可能性を論じる前に、安井さんの俳句の射程を来し方から辿り直す必要があります。その時間をもう少しおおめに見ていただければ幸いです。ご自愛をお祈り申し上げます。
敬具
平成十一年 盛夏
安井浩司様
田沼泰彦拝
(二通目)
拝啓
御健勝のこととお慶び申し上げます。
このたびは『海辺のアポリア』御出版おめでとうございます。
掲載された俳論のほとんどが三十年近く前に書かれた散文にもかかわらず、俳句の本質を問い続ける思考のドキュメントが、オデッセウスの地獄降りにも似て胸に迫ります。
安井さんの『句篇』とパウンドの『詩篇』を同じ俎上にあげ、安井俳句の読み方を考え始めてから十年余りが経過しました。その間、暗い闇の中を彷徨うように安井俳句を読み続けてきた私ですが、『海辺のアポリア』の所々に立ち現れる俳句に対する疑義を読むにつけ、俳句を俳句自身の論理に封じ込めるべきではないと直感しました。巻頭の表題作「海辺のアポリア」に、「極言すれば、私自身の、私自身でありきることによって俳句を際立たせていたもの、そういう私自身の反性としてあるものが、次第に蒼ざめ失われてゆく。要するに、私が私としてありえる部分が大きく薄らいでゆくのだ。そして、そこに残るのが、たかだか一片の俳句であるに過ぎないとすれば、これが形式保存の俳句の詐術でなくてなんであろう。」とありますが、本来自己表出の道具として飼い馴らしていたはずの俳句が、あるときを境に一転して自身を引きずり込む陥穽となるなら、その本性を俳句以外の角度から探り直さねばならない。安井さんが御自身の俳論を詩論とお呼びになるのも、敢えて詩という観点から俳句を問うことで、俳句の詐術によって逃げていく俳句自身を捕まえることができるとの目論見ではないでしょうか。「海辺のアポリア」の次の一文。「俳句とは何か、と問うことは正しいであろう。(中略)だが、俳句を問うことの陰に隠されているもの、埋没されているもの、それは一人の俳人にとってなぜ俳句なのか、という俳句なる形式からの問い返しの問題であった。」には、背中合わせにもうひとつの問いが孕まれているのではないでしょうか。それは、一人の俳人にとってなぜ詩ではないのか、という自問です。
詩という文学ジャンルを、その発生形態である叙事詩にまで遡って考えれば、その中核をなすのは思想であると思います。端的に言って優れた詩作品はみな思想を胚胎しているといえます。日本の近代詩史を見渡しても、時を経て残っているのは思想を孕んだ詩だけです。詩史とは絶えることなく続く前衛実験だともいえますが、いくら優れた方法論で書かれた詩でも、そこに思想が宿らない限り、言葉遊びとしていつしか忘れられてしまいます。
そして詩における形式は、胚胎する思想によって形作られるといえるでしょう。誤解の無い様に申し添えるなら、ある特定の思想を表現する目的で書かれた詩のことではありません。そのように考えていきますと、俳句という短詩は、一句の完結性にこだわり続ける限り、思想を胚胎するには適さない器であるように思われます。
そこに極めて意識的だったのが他でもない安井さんの師、高柳重信です。重信は、処女句集『蕗子』と第二句集『伯爵領』に続く第三句集『黒弥撒』を、新句集『罪囚植民地』に前二句集を採録する、いわば全句集として刊行しています。また晩年の句集『山海集』や『日本海軍』では、地霊や戦艦名にまつわる大和古霊を、一句集を貫くライトモチーフとして取り入れました。重信は多行形式による俳句を書き続けましたが、一句における詩的完成度の追求にとどまらず、さらなるその先にあるであろう、集合体としての俳句が宿し得る思想、という可能性を自覚していたのではないでしょうか。
そこで「渇仰のはて」の次の一文です。「俳句を構造として捉えるとき、そこに対応してくる時間(世界)は、これまた構造を持ちつつ、それは少なくとも文体が醸成した俳句観とは違うはずである。」つまり、重信は確かに思想に関して自覚的だったが、俳句に求めたのはあくまでも文体が形成した俳句観だった。そして俳句の一句完結性に執着し、完成した一句の力にすがるあまり、集合体としての俳句の構造まで辿り着くことはなかった。
「時間(世界)」が構造を持つように、思想もまた元来構造体であります。ゆえに思想を胚胎するための器もまた構造を持たねばなりません。しかしそれを俳句一句の構造に委ねるには到底無理があります。十七文字からなる俳句は思想を入れる器として小さ過ぎるのです。であるなら集合体としての俳句を器に見立ててはどうか。俳句における構造という考えを、集合体としての俳句にまで敷衍させるのです。安井さんがお書きになったこの文体から構造への転換は、安井俳句の射程を思想へと導く可能性を示唆したものだと思います。そしてその可能性を具現しているのが他でもない『句篇』なのです。『句篇』を、思想を胚胎した構造として読むこと。ここに至りいよいよ、安井さん一人が重信の前衛性を超え出ようとしていると言えるのです。
春だというのに雪がちらつく今日この頃。御自愛お祈り申し上げます。
敬具
平成二十一年 春分
安井浩司様
田沼泰彦拝
(三通目)
拝啓
御健勝のこととお慶び申し上げます。
このたびは『増補全句集』の御刊行おめでとうございます。
それにしても改めて驚くのは、『汝と我』から『句篇』に至るまでの束が、本全体の半分を優に超えるという事実です。もちろん分量が何かを語るとは言いませんが、それでもここにこそ安井俳句の思想が詰まっているはず、との思いを強く抱いた次第です。
さて、問題はその思想が何であるのかに尽きます。そもそもここに至る安井俳句の読み方は、パウンドの『詩篇』からの類推を発端としていましたが、『詩篇』の思想を抽出するほど事は簡単ではありません。なぜならそれが俳句であるからです。
『詩篇』は一行一行の叙述を積み重ねることにより、二万七千行全体が構造を為すことで、思想を宿すことに成功しました。現代の叙事詩たる所以ですが、その一行一行は作品としての完成をなさない、いわば断片に過ぎません。しかし断片であるからこそ、行から行へと意味が共鳴し合い、あるいは反発し合い、挙句構造体としての交響が思想を奏でるのです。しかし『句篇』の構造を為すのは、一句一句が作品として独立した俳句です。俳句を並べただけで、思想の交響楽が聞こえるはずもありません。
ここに来て私は改めて「海辺のアポリア」の地獄降りを想起せずにはいられません。「そして、そこに残るのが、たかだか一片の俳句であるに過ぎないとすれば、これが形式保存の俳句の詐術でなくてなんであろう。」一片と呼ぶにしかない残骸のごとき俳句も、詐術にも似た形式保存の恩寵により、されど俳句と呼ばざるを得なくなる。そのとき「それは一人の俳人にとってなぜ俳句なのか、という俳句なる形式からの問い返しの問題であった。」やはりこの問題に突き当たるのです。
私はここに、安井俳句は俳句形式の詐術を逆に利用している、とあえて告発します。安井俳句の一句一句は、俳句形式を利用し俳句としての保証を得た上で、物事を叙述することを可能ならしめています。大方の俳句作品は、俳句を成立させるために、俳味やら抒情やら挨拶やら滑稽やら美学やらといったポエジーを受肉します。安井俳句のどこを探してもこのポエジーは見つかりません。安井俳句は言葉の叙述力だけで成り立っています。いわば叙事詩として成立した俳句です。そしてそれを俳句たらしめているものこそ俳句形式なのです。先の「なぜ俳句なのか」という問い返しへのこれがひとつの答えです。
『汝と我』、『四大にあらず』、そして『句篇』の三句集を合わせて私は『句篇』と呼びますが、『句篇』の一句一句は、俳句形式に支えられた俳句作品としての自立を保ちながら、その万物を叙述し得る力によって俳句の外部へと触手を絡め、緊密な構造体を可能ならしめています。その構造は、拡散へと向かうことでより多様な思想を手に入れた『詩篇』とは異なり、俳句作品の集合体としてのより堅固な細胞組織を形成し、一つへと収斂するより強い思想を孕んでいます。
先の問題に立ち返らねばなりません。『句篇』の思想とは何か、という難題です。ヒントとなりうる一文が評論集『海辺のアポリア』にあります。「行く方に就いて」の中の次の一文です。「少なくとも、私なる、唯一の、生命的存在の絶対性は、俳句形式の絶対性を通過してのみありうるのではないか。私は、そこを誤解を恐れずにいえば、宗教的尊厳と、緊張と、歓喜と、たまさかの極楽性をふくみつつ、私有を最大に許された最後の言語形式として念願しておきたいのであった。」つまり『句篇』の思想とは、「宗教的尊厳と、緊張と、歓喜と、たまさかの極楽性」だといえます。あるいは「心的カオスと、霊性と、形而上学と、禅」だともいえます。そういった極端過ぎるほど幅の広い思想をも胚胎するほど、安井俳句に汎性をもたらしているもの。いうまでもなくそれが俳句形式なのです。ならば『句篇』の思想とは、「俳句形式の恩寵」そのものなのです。そして「俳句形式の絶対性」こそ、安井俳句が体現し続ける思想に違いありません。
気がつけば風花が舞い始めていました。秋田はそろそろ積雪の便りが届く頃でしょうか。お風邪を召されませんように、御自愛お祈り申し上げます。
敬具
平成二十一年 晩秋
安井浩司様
田沼泰彦拝
(『夏夷 leaflet』第5号 2009年11月30日刊 より)
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