Ⅰ
俳句は、二十世紀も終焉を迎えようとする今になって、ついにとてつもないものを生んでしまった。それが「世界」であることは確かなのだが、かつて見たこともない世界である。倒立した現世なのかといえばそれほど構造は規格化されてはおらず、視点ははるか上空にある。地上の存在物ひとつひとつに向かって、おまえはそれでよいのかと問うたあげくに、問われたものはたちまちまばたきのあいだに別乾坤へ放り出される仕儀である。この世界は球体かといえばそうではない。なにかふわふわくねくねと動いている気配がする不定形の成長物である。読者は読みつつ、草深い藪を感じるが、それは無数の問を一瞬呈示しすぐに閉ざされる別乾坤への扉の跡のようでもある。
この、安井浩司の「世界」という不定形の成長物について読者はおそらく自己最高の知をもって迎え討つことになるだろう。そのような知の誘惑の果実がそこここに実り、枝から垂れているのである。密教、荘子、ギリシャ哲学、アニミズム。エトセトラ。どの切り口を用いてもいくつかの木の実は落とせるだろう。既存の物差しが、安井浩司の世界のどこかにふれたことで得たりと思う読者は、それはそれでよい。藪はしらん顔でさまざまな仮象を増殖させ我々にどうだどうだと迫ってくるのである。小さな自我や、既成概念を念持仏とする人々にとって、この世界は無縁である。いや、無縁なふりをしなければ持っていかれてしまう。一切放下とはいかないまでも、その「世界」に向かって自我を極力解放しようとするその途次において、藪は扉をひらいてみせてくれるのである。
安井浩司の作品を読むと、私は自分が蛇とか蟇か芋虫になって、ひかりを抱きこんだ藪の中をたずねあるく法悦を感じる。山を歩けばなぜかけもの径の方へ誘われてしまう私にとって、藪は不安な迷路ではなく、さまざまな秘密の世界をそのたずね方次第で呈示してくれる魅力的な場なのだ。藪は人を変える。
法華寺の空とぶ蛇のかな 『阿父学』
安井浩司との出会いはこの一句に遡る。詩は澄むことが尊いと思いこんできた私は、〔濁りの生命力〕を瞬時に悟らされたのだった。華麗にひろげられたエロスの世界に、リアリティの裏付けをする「眇」の求心力。法華寺十一面観音のたっぷりとした肉感に対するいじけた蛇の姿。聖に抱えこまれた俗のようでいて、俗は一句全体に逆に紗をかけ、どちらもゆずらず、がっぷりと組み合って強いエネルギーを発する。空をとぶ夢は、フロイトによれば性的な意味をもつのだが、折から熱帯の空をとぶ蛇の映像を目にしたこともふしぎな偶然であった。蛇は風の抵抗をうけるためにからだを扁平にしてリボンのように空をとんだ。その後何年も経って夏石番矢の「飛翔論」(『俳句のポエティック』)なる安井論に出会ったのである。
Ⅱ
『青年経』跋文の中で永田耕衣により「安井浩司はそういうカオスを今日的に創造することを、常に念願しているのではあるまいか」と書かれたためか、安井浩司には常にカオスの俳人の名称がつきまとい、さまざまな検証もおおかた結論はそこへ吸収されてきたような気がする。たしかに、現世日常の風景や秩序を攪拌する作品群は、どこへどうその根拠を結びつけてよいのやらわけがわからず、これぞカオスと叫んでしまってやっと読者は我にかえるといったことになるのかもしれない。しかし難解とか意味不明と思われる俳句も、原型が手近にあったりするのではないかと思われるふしもあるのだ。
ある沖へ魚より低く神社出づ 『青年経』
ふるさとの沖にみえたる畠かな 『中止観』
これらは、生まれ育った能代に近く、昭和三十二年より干拓がはじまった八郎潟を脳裏に映しているかもしれない。つい最近では『汝と我』所収の「汝も我みえず大鋸(おが)を押し合うや」の句を、あれは純然たる写生句だと作者はいたずらっぽく笑うのである。まさにそうなのだが、これら三句に限らず、手のうちが見えたと思われる句がそうい簡単に底を割らぬというのも、安井浩司の一筋縄ではいかぬところなのである。安井浩司はこれまでに『青年経』『赤内楽』『中止観』『阿父学』『密母集』『牛尾心抄』『霊果』『乾坤』『氾人』『汝と我』の十冊の句集を開板している。多作の人である。全句集を刊行したとはいえ、まだ二冊分の句数を保持しているとの噂も耳にするので、今後どのように展開するか予測できないが、とりあえず十冊の句集を読み通してみると、安井浩司の地上的な感情、たましいの有り様が底深く秘められているのが窺える。私自身の勝手な解釈ではあるが、十冊というながい道のりをつらぬく安井浩司のたましいの怒り、絶望、諦観、救済といった、形而上の世界を支えるなま身の声に耳を澄ませてみたいのである。そうすることによって、難解なカオスといわれる安井浩司の世界の血肉の部分にふれることができはしないかという試みである。そのために、私は句集中の秀句だの代表句だのという視点に足をとられないようにしたい。なぜなら、安井浩司自身その「あとがき」をみれば、一句集に一つのテーマを掲げているからである。だからといって、私はテーマをなぞることはなるべくしまいと思う。一匹の蛇となって藪の根元をめぐり、その五官をたよりに「世界」に分け入りたいと思うのである。
さて、十冊の句集という長い時間の集積は、三つに区分できそうである。第一期『青年経』『赤内楽』、第二期『中止観』『阿父学』『密母集』、第三期を『霊果』以後『乾坤』『氾人』『汝と我』とする。
第一期は、青年期特有の苦悩が、その当時の「時代」そのものというべき前衛俳句の詰屈した文体と相俟って、ねじれを伴い濃厚に出現している時期。しかし、すでにこの青年期において、安井浩司固有の文体は現れ始めている。
第二期の『中止観』において、安井浩司が獲得していた文体はすっきりと、いま一度衣を脱いで立ち上がる。大人の文体として、自信にみちた美しい立ち姿である。この時期の三句集はいずれも高い緊張につつまれていて、多くの読者を獲得したのは事実である。
第三期の『霊果』において、安井浩司は、はっきりと世界構築の意図を打ち出したように思う。「カオスとしての人間存在の側からよじのぼって来た」いま「分水嶺の向こう側へ踏み込む」決意をしたものの、先行にその例がないというのである。私はかつて安井浩司の仕事を「叙事詩」と言ったことがあるが(「現代俳句」一九九一年八月号「私的〈戦後俳句〉と〈今日の俳句〉」)、いまもその思いは底にある。もしやそれが、安井浩司の打ち出した「構造」という概念の一端に、それとは知らずに接触したあげくのつぶやきであったかといまはふりかえるのだが。
十冊の句集の流れを三つに分断したいま、第二期の『密母集』と第三期『霊果』のあいだに存在する『牛尾心抄』という愛らしい小さな句日記にふれなければならない。この句集は作者自ら「秘匿の作品」とあとがきに記するほどに思い入れ深いものであるらしい。一日二句と日付、天候を記すのみの五十日分の句集が、ふしぎな魅力を発揮する。作品に日常はあらわれない。そのせいだろうか、この句日記に書かれた「晴れ」とか「午後雨」とか「星空」といった、ごく日常の、むしろ無味乾燥な機械的言語と化していたこれら気象用語が、これほど深く、鏤刻のように空間をしんとさせて「在る」ことのふしぎ。
この『牛尾心抄』については、これまであまり触れられて来なかった。句日記という形式が、他の句集と同列に扱うことを躊躇させたのかもしれないが、『汝と我』の開板を得たいま、この句日記が安井浩司の句集の流れの中で、なにかくびれの役を果たしている気がしてならない。
ところで『牛尾心抄』なる書名はどこから来たのだろうか。たしかに牛が多く出現する。鶏頭、牛尾の「牛尾心」か、あるいは、師永田耕衣の一句「行けど行けど一頭の牛に他ならず」への敬意であろうか。禅の修行の階梯を描いた放牛図の中に、郭庵の考えに基づき周文の描いた十牛図があって、その第三図「見牛」は、逃げる牛の尻、後肢と尾が描かれ、若者がそれを追いかけている。牛は「自己」、あるいは「真の自己」を意味している。この図は、逃げてゆく「真の自己」を若者が捉えようとしているところなのである(「ユング心理学と仏教」河合隼雄)。牛尾心とはそのような意図を蔵しているのだろうか。
「三月二十日・金曜日午前 午後曇」の項に、
楽人植えるアスパラガスを田園に
が置かれている。音楽と農耕のあいだを早春のさわやかな空気が流れる美しい句だ。このアスパラガスと、生えたてのころは味も形もそっくりの山野草に〈しおで〉という草があり、そして、このしおでの漢名を「牛尾菜」という。牛尾菜はやがてつる状にのびてからみつく唐草なのである。ついでながら、『霊果』に「さるとりいばら抄」があるが、このさるとりいばらもしおでの仲間である。
『牛尾心抄』はおそらく時期的に見て『霊果』と同時進行の形で進められた句集であろうと思うが、そこには『密母集』から『霊果』へ跳ぶための心の準備、深く姿勢を沈める気配が感じられ、私は『牛尾心抄』こそが、翁へ神が依るための、能舞台に於ける、“鏡の間”だったのではないかと思う。
Ⅲ
一九九六年二月十日に行われた「安井浩司を囲む会」の、安井浩司への〈十の質問〉の中で、安井浩司は小林秀雄の言を借りながら「詩人というのは基本的に〈幼年〉がないと詩的言語というのはありえない」と述べている。
何びとも幼年時代の神聖で、貴重な思い出なしには生きることができないのである。あるものは外見ではこれを考えていないようでも、やはり、これらの思い出は無意識のうちに保存されている。それらの思い出は苦しい痛ましいものでさへあり得る。だが、過去の苦悩は、のちには魂にとってとうといものに変わり得るのではないか。人間は一般に自分の過去の苦悩を好むように創造されたものである。人間は、その上に、自分のその後の方向をさらに見定めるために、自分の過去の経験に注意をはらう傾きがある。その際もっとも強く深い思い出こそ、ほとんど常に幼年時代に残された思い出なのである。
ドストエフスキイ『作家の日記』
これは埴谷雄高『渦動と天秤』からの孫引きだが、埴谷雄高はドストエフスキイの神聖な思い出とは、七人の子供達を育て教育し、結核でドストエフスキイが十六歳のときに亡くなった母のこと、そして貴重な思い出として田園の記憶をあげねばならない、と書いている。しかしドストエフスキイには十七歳のときに癇癪家の父ミハイルが領地の百姓に殺されるという忌わしい思い出もあった。「幼年時代の神聖で貴重な思い出」と書くドストエフスキイの心の底深くに秘められた苦悩の思い出、それさへも「魂にとってとうというもの」と言う。このことばは救済である。
安井浩司が引用した小林秀雄の言が、どのような場面に出現したものかは寡聞にして知る由もないが、安井浩司の作品中に多出する、父と母の存在や田園の風景は、やはり「神聖なもの」だったのではないだろうか。『青年経』や『赤内楽』に描かれた幼年からの父母への視線には、安井浩司自身の存在の原点をゆさぶるような切羽つまった表現が並んでいるのである。
(父)
がらんどうの入日が橋上の父威す 『青年経』
父葬るみひらき花の村
胎児を通し毬糸曳きずる父の勝利
罵倒す父中心に去る白いマラソン
青林檎うち割る父の種もつ全円
朝祝詞で雌馬撫でる父の村
(母)
逃げよ母かの神殿の加留多取り
(少年)
夏野に睡る仮面の少年地へ素面
青年死ねと向日葵は地につけて
水際に眠る青年頭から潰れる魚
花野わが棒ひと振りの鬼割らる
これら『青年経』にみられる父母に対する作者の思いは尋常ではない。「父」は夕日に脅かされる存在であり「葬る」べき存在である。父は「素面」を「割」りたいほどの人であるのに、いやがる「胎児」とは「毬糸」でつながっている。「少年」は「夏野」で大地に面を伏せるときしか「素面」になれない。「向日葵」が倒れ伏す姿を見ると、まるで自分に「死ね」と言っているようだ。
この一連の句に共通していることは、精神が苦悩に圧しひしがれ、自身の内側へ音もなく沈み込む、といった青年期一般の憂愁とは異なる、自ら収拾のつかぬような、乾いた精神があらわなことである。このような苦悩の中で、母への痛哭の一句がある。
逃げよ母かの神殿の加留多取り
母に、逃げよ、という。なにか困窮の事態からの脱出をうながすのかと思えば、「加留多取り」からなのである。これは何を意味するのだろうか。
加留多取りの場は、男女交際に厳しかった時代の唯一といってもよい男女が触れ合う場だったはずである。「神殿」はまた、聖なる儀式の場、不可侵の場だったはずである。すなわち「神殿の加留多取り」とは、子供にとって近づくことを許されぬ、父母のエロスの場ではないだろうか。とすれば、「逃げよ」という悲痛な叫びは、少年が母を何かから庇うためのものではなく、母を父(男)に盗られた少年の妬心ではないかと思えてくるのである。
第二句集『赤内楽』は、いわば「神殿の加留多取り」の拡大境にして、自らの必然性を確認する行為だろう。安井浩司のあとがきは次のようにはじまる。
ひとに葬歌を捧げるという礼法に倣い、この書はさしずめ(K・Y)をめざすことになるはずであった。
(K・Y)とはすなわちKOHJI・YASUIのことであろう。
ひとはだれでも、一度はわが葬歌のための一冊を編むものかと、かつて同じ意図をもとに句集を編んだ私は苦笑を禁じえなかったのだが、それにしても『赤内楽』における父母の性行為に対する妄想は凄まじい。吐くだけ吐いてしまえば妄想は浄化されるにちがいないという妄想にぐるぐる巻きにされている。
母へかの青蛇すすむ紐の神
父に立ついま縞蛇で緊める寺
生まれしや林の白布に抱かれる馬
家蓄車にただひとりの少年
安井浩司は自らの生誕にこだわり、誕生日の句を折々に誌しつつ歩むのだが、第三句の“生誕現場”は美しい。父母のエロスを遠ざけ、「林の白布」すなわち裸木となった雪の林にわが生誕を置くことで浄化している。いやこれは都会人のファンタジーであろう。秋田という寒風吹きすさぶ〔風だるま〕の風土の中で、雪の林に置かれるという状況は、ただちに凍死を意味するだろう。
いずれにせよ、第一句集『青年経』における精神の危うさは『赤内楽』においてほんのすこし落ち着きをとり戻したようではあるが、自身を「家蓄車」に置く孤独は、まだまだ「滲血」のひりひりしたいたみを伴った自虐をおびただしくかかえこんでいるようだ。それにしても「滲血」をメンストラチオンと読ませる怪しさよ。
ふるさとの山そこに羊水を保つ 『赤内楽』
胸かきむしる衝動に追われつつ俳句を行為した第一期の時代の作品のなかで、右の句は唯一読者のこころを安からしめるものである。自己の存在を俯瞰的に眺め、父母とはひとつ距離をおくところの「ふるさと」と臍の緒がつながっている者という決着のつけかたで、とりあえず魂をなだめたのではないかと思われる。
さて、『青年経』(一九六三年)、『赤内楽』(一九六七年)の二冊は、いわば前衛俳句運動の熱気うずまく「時代」に誕生したことになる。あの晴朗にして自己陶酔的な社会批判の横行した前衛俳句運動が俳句文学に何をもたらしたものか、ここはそれを論ずる場ではないが、いま眼前に開いた「俳句研究」昭和四十八年四月号〈特集・前衛俳句の盛衰〉に掲載された作品年表をみても、とまどうばかりである。公約数を拾えば、詰屈した言葉の使用を知や哲学と誤解して、難解のための難解な文体を生み出したとしか思えないのだ。この詰屈文体は、前衛俳句運動の括弧にくくられなかった永田耕衣等へも波動が及んだのか、一九六四年刊の『悪霊』は、その前後の句集『吹毛集』『闌位』とは文体の異なる俳句が出現している。二十世紀も終わろうとするいまの時点で、三十余年前の当時を振り返れば、どのような運動であれそれを血肉とする腕力や霊力のある俳人にとってのみ有効だったのだという、きわめて凡庸な感想が、無感動に脳裏をよぎるのみである。
安井浩司は前述の会の〈十の質問〉に対する答のなかで、影響を受けた俳人として、永田耕衣、高柳重信、加藤郁乎の三人を挙げている。前衛の意味を、イデオロギーにからめとられずに、本意としての詩的実験と捉えたこの三俳人は、熱波のエッセンスを私的に所有することで、「運動」から距離を置いて立ったのである。「運動」という現象に身を任せた俳人たちは、現象の消滅とともに生気を失った。ただ、ここに、前衛俳句運動に肉体を刺し貫かれたひとりの作家として、赤尾兜子がいたのではないかと思うのだ。
愛する時獣皮のような苔の埴輪 赤尾兜子
ちびた鐘のまわり跳ねては骨となる魚
〃
毒人参ちぎれて無人寺院映し 〃
永田耕衣や加藤郁乎の文体の難解さには存在の奇怪さや難解さを、また、それゆえの楽しさを読者に問いかけたり、難解の上に難解を上積みして知恵の輪状にしてしまうような、作品の意図が察知できるのだ。それに比べて赤尾兜子のその時代の俳句には、兜子の心の奥にうごめく何かがそのように書かせてしまう、といった、絡み合った毛玉のような小暗いしこりが、一句の連なる文字のあいだから顔を見せるのである。そのような心の在りようが、その時代の安井作品にも通底しているように思われた。
花野わが棒ひと振りの鬼割らる 『青年経』
林間鴉を忘れ埋めこむ斧一丁 『赤内楽』
葡萄園の夜産道すべる斧思う 〃
誕生日録かの山の失敗の下駄である 〃
エディプスコンプレックスの秘かな儀式。そしてまた、「産道すべる斧」とは、「失敗の下駄」を生んだ母への怨恨であり、自らの生誕の抹殺を夢想するものではないか。
安井浩司の出立は、青年の自恃や甘い抒情やナルシズムからほど遠く、なりふりかまわず自らの存在根拠を問う、もしくは自らの存在自体を消すためという厳しくもはげしい営為から始まったのである。
Ⅳ
『中止観』は、すでに獲得したかに見えた、安井浩司独特の世界を表現するために固有の文体が、いま一度蛹が殻をぬぐような形で一気に丈高く顕現した姿である。前にも述べたように、この『中止観』を含む第二期は、高い緊張が持続した時期であった。多くの秀句が輝き、それらの句のひとつひとつについては当時綜合誌をにぎわせていたことも、記憶にある。その個々の句の〈妙〉に眩惑され、その解へ辿りつくことにのみ心奪われていた当時の、私も含めた読み手の見落としたもの、あるいは、『汝と我』までの道すじを見通すことができる今だからこそ見えたともいえるものがあるのではないかと思うのである。そこで、私はこの場でひとつの仮説を立ててみることにした。もちろんこれは、全句集を読み通してみたときに、直感的に沸き上がった妄想かもしれない。ともかく、とりあえずカオスなるものに足をとられないように用心しながら、藪の根元を透かし見ると、『中止観』は自らを封じるためのもの、『阿父学』『密母集』は、血縁への愛憎深い作者の、父母への訣れの儀式だったのではないか、訣れという言葉が妥当でないなら、切っても切ってもふり切ることのできない肉親に対して一つの決着をつけようとの意志が、底深く秘められていたのではないかという疑念がふとよぎるのである。その根拠を探りつつ筆をすすめていきたい。
まず、『中止観』に於ける顕著な傾向は、あれほど頻出した「母」がほとんど姿を消し、すこし登場する「父」には「」とルビがふられていることである。代りに「友」や「旅人」が登場する。そして、あの「もどきの思想」があとがきのなかで語られるのである。
(略)“もどきの思想”を興しつつ、俳句形式の業のただなかに熾烈なる居直りを正夢とした。
“もどきの思想”とは、安井浩司の評論集『もどき招魂』の巻頭評論「もどき招魂」のなかに展開されている、神と、神のもどきである翁にことよせた「もどきは、人と神の間合いに、呪術的性格があり、神の掻乱者であると同時に、助勢者としての、いわば複合的な存在であった」という発想である。これまでの概念としての「にせもの」「まがいもの」としてではなく、もどく対象に対して二重の相反するベクトルを孕んだ別個の生命体として立たしめること、と要約できようか。
昼顔の見えるひるすぎぽるとがる 加藤郁乎
二階より地のひるがおを吹く友や 安井浩司
あとがきには、『中止』なる詩想、という言葉もみえているので、この句集の題名『中止観』が、あの天台大師の撰述書である『大止観』『小止観』をもどきつつ、ギリシャ哲学をも引き寄せたスケールの大きなものであることがわかるのだが、句集成った暁に、この『中止観』と、河原枇杷男の『閻浮堤考』が、こともあろうに真言密教の根本道場である東寺の庭で作者二人によって交換されたという、この出来すぎた場景に、私は突然深く衝かれてしまったのだった。
話を本題に戻そう。
人参が死産の家へおどりゆく 『中止観』
耳だれの綿でる死刑さるおがせ
死んでゆくあぐらの村に蝦赤し
象潟も死んだ虱も越えるあきかぜ
死神もおびひもに泣く夜もあらん
二月をたたむかな死産みな百人
死鼠近く急に高いからくさの門
旅人へ青かまきりのすでに首なし
死ねずみへ手の偶然を投げるべき
春の雁このまくらぎも死ぬつもり
『中止観』巻頭句である「キセル火のを図れる旅人よ」の軽さを装う導入部からは思いもよらぬ、死の渦まく世界。「春の雁」の句は『中止観』悼尾の句だが、ここには、雁は帰りゆくのに、身動きならず汽車の下に身を横たえる「まくらぎ」の心情が語られている。もしや安井浩司は「を図れる旅人」を擬態として、自らの死をこの一巻の中に封じたのではなかったか。そして、もしや『中止観』とは、前世から来世へと永劫にさまよう人間の魂にとって、今生での「死」を意味するのではないか。それにしても、この一巻には観念としての死ではない、なまなましい作者の苦悶の表情があらわである。
母をなぐる石のさざなみ半憎乎 『中止観』
の頭たたかれゆくに終の佃煮
が今百人塚の気がして帰る
東北の厳しい風土は、それほど血縁をがんじがらめにするものか。魂が痛むなら、一切をふれずにやりすごす方法だってあると思われるのに、自虐的とすら思えるほどにそこから眼を外らさないのは、もはや詩人の業とでもいえようか。『阿父学』『密母集』を父母への決着だと私が推測したのも、句集の流れを斟酌したためなのだが、ところが予想に反して『阿父学』には父の句が二句しかないのである。
(父)
父達が父のの墓抜きに
春の雁地上の阿父は孕みつつ
(翁)
叟もし向き合えるふたつの空き家
翁二人がすれちがうとき黒牡丹
(母)
阿母をみるにせあかしやに眼ひとつ
(姉)
夕空ふかく餌蟲を売る恋人の家
姉の手のけむりたけの刹那かも
姉とあゆむ泥から貝を奪いけり
姉とねて峠にふえるにがよもぎ
姉消えて常世に立てる蛇の高さ
『阿父学』とわざわざ銘打った句集から、これまであれほど他出した「父」が消えたということは、私の推測があやまりだったのだろうか。それとも阿父への儀式を執り行おうとした段階で、阿父へのコンプレックスは解消され、阿父はあの〈もどき〉の翁に変身したのであろうか。あるいは、阿父とは安井浩司自身のことなのか。謎は謎のままである。
それはさておき『阿父学』の特徴は、これまで散見されていた「姉」が一気に姿を現すことである。しかも依然として死の影は作者を離れていない。『中止観』から『阿父学』へと、緊迫状態は続くのである。ここにあるドラマを設定すれば、「沼べりに夢の機械の貝ねだり」から「姉の中のけむりたけの刹那かも」を経て「秋風や終のふもとにおこる」に至るものであり、『中止観』から『阿父学』へかけて「運命的な“足”の旅人ぶり」(『阿父学』後記)を演じた安井浩司はその結果、「わが庭隅にやってきた虚草からくさの失われた地上性を再認識せざるをえなかった」のである。これは地上性が失われたことを再認識するのではなく、地上性そのものを再認識せざるを得なかったということだろう。
ところで『阿父学』にはもう一つの特徴として、「ひる」または「ひるすぎ」という時間が加わって来るのである。
あヽ蛇山わが御料理のひるさがり 『阿父学』
ひるすぎの小屋を壊せばみなすすき
性交やひるをさがりの葛の花
まひるの門半開の揚羽かな
これらの「ひる」には、けだるい官能と荒涼とした虚無感が感じられる。「ひる」は決して生命力の横溢する時間ではなく、正午を境に人生のたそがれへくだる逃れがたい運命の、いわば執行猶予の時間帯を意味しているのではないだろうか。
死鼠もにうごくまくらぎも
死鼠をのまひるへ抛りけり
死鼠や日陰に地涌の友ならん
『赤内楽』以後、『中止観』や『阿父学』に殊に出没する「死鼠」とは何だろうか。大体において、安井浩司の世界自体が特異であり、そこにあらわれるものやもののけ達も当然特異なのだが、「死鼠」の存在は、スルメやみがきにしんや犬よりももっと物言いたげな存在に思える。ひょっとして死鼠とは安井浩司の分身なのではあるまいか。(ちなみに氏は子年である)
右三句の第一句は、読経によってうごく死鼠とまくらぎの不気味な甦りが、「初夜」という、一方の意のエロティシズムを匂わせながら重層的に書かれている。第二句は、すでに人口に膾炙された句だが、「のまひる」の読みが問題だろう。死鼠にとっては、まひるはわが肉体を腐敗させ、干からびさせる地獄的時間である。死者にとっては闇こそやすらぎの空間ではないだろうか。とすれば、この句は自分の分身、もはや自分自身といってもよいのだが、それを地獄的な真昼の光線の中に抛り出し、永久に晒すという刑罰をわが身に処したことを意味する。第三句は、おそらく、日に晒された死鼠と、日陰にいる地涌との友との距離を示したものであろう。地涌とは『法華経』従地涌出品にみられる、使命を受けて法をひろめる菩薩集団のことである。彼らは娑婆世界の下の虚空に住む者だが、シャカの言葉によって布教に従事するために大地より涌き出た、とされる。死鼠たる我を救うべき地涌菩薩との埋めがたい距離を示唆したものと読める。
野鼠もを過ぎればみな僧侶 『阿父学』
句集も終りに近く、死鼠は少し生気をとり戻して「野鼠」になる。しかし「」を境にして、現世を、世俗を放棄した僧侶になるというのである。こうしてみると、さきにも述べたように安井浩司はやはり「」を自身の精神世界の明と暗を分ける結界的な時間と定め、「ひるすぎ」という、私たちがごく日常的に見過ごしてきた時間帯に、形而上的意味を付与したと思われるのである。『阿父学』は「早春斯くして人は天にも昇るらん」でしめくくられている。この句の「人」とは他人の意であろう。春がきて、他人は天にも昇る心地でいるのだなあ、と思う心の裏に、僧侶的心境のわが身の存在が匿されているのではないだろうか。
『阿父学』の「阿父」とはなにか、「残闕からくさ文」と阿父との関係の謎を、私はついに察知できなかった、と今は記すほかない。ただ、『中止観』から『阿父学』を貫くドラマが、いわば自嘲と自虐と絶望の中に終焉を告げたことだけはたしかであろう。
一本足もお蔭で踊る荒地かな 『阿父学』
火のそばを鶯飛べる荒地かな
ぐさにかがみ顔を焼きはじむ
第二期さいごの句集は『密母集』である。『赤内楽』(一九六七年)以後『密母集』(一九七九年)に至るまでに、ほぼ十二年の年月が経ったことになる。当時三十一歳であった青年は四十三歳。不惑前後の作品の収録が『密母集』である。この句集では「父」は姿を消し、母が再登場する。
日陰蔓かの母を地に投げる者よ 『密母集』
夕蜘蛛も母ののひとにぎり
老残の母へほうる空中に菱あり
母老いてしずかに蛇を啄く孔雀
母刈ればまた新しき毒空木
さらに「母」とは別の、そして「姉」とも異なるような女性と妻が登場する。
をゆくやまどりもわが
葛の花蠍はおみなを噛みおらん
日月の狂女の陰は来つつあり
我をみる賤しき葛の葉の女
法華寺の空から垂れる蛇の妻
『阿父学』『密母集』には、形而上的にはどうであれ、深層においては父母への地上的な決着がひそんでいるという妄想を、私は十冊の句集の流れのなかの必然として捨てきれずにいる。はたして「母」への決着はつくのだろうか。
『密母集』の母は老いて、しずかである。否、作者の母に送る視線がしずかになったのである。もはや「逃げよ」などと悲痛な声を洩らさずとも「蛇を啄く孔雀」である母をやさしく見守る心境に至ることができた。一方で、新しい登場人物である卑女に対する、ひそかに匂わす悪意は、じりじりと反転し、「我も持ち卑女も持ちたる秋揚羽」のような接点がうまれ、「孔雀揚羽こそ山窟の女なりけり」という賛美へと変わってゆくのである。
『密母集』にはじつに多くの女性が登場する。母。恋人。妻。おみな。山窟女。淫女。奴婢。さながら女性の醸す交響曲につつまれるようである。卑女を登場させたことは、『阿父学』のなかの「法華寺の空とぶ蛇の眇かな」において眇の蛇が一句に強い生命力を吹き込んだ手法を思い起こさせる。「卑女」は安井浩司のたましい即ちアニマなのだろうか。この「卑女」の登場によって『密母集』に霊的な要素が加わりはじめたのも、思えばふしぎな現象なのだが、起点と思しき次の一句を提示してみよう。
遠い煙が白瓜抱いて昇るらん 『密母集』
安井浩司は若年の頃より、つねに、「遠い」ところにわが魂の安息所があるのだと自らに言いきかせてきたふしがある。右の句は気体が固体を抱えて上昇するという日常の物理的感覚を裏切るユーモラスな映像と、燃焼しおえた清浄なものが地上的なエロスを抱いて止揚されてゆくさまが、とりあえず二層に感受される。だが、なぜ「遠い」のか。そこにはもう一層の読みがあって、わが安息の地であるべき遠いところで、「白瓜」が正体不明の「煙」に抱かれ地上から去ってゆくさまを、羨望ともあきらめともつかぬ思いで妄想する、というものである。「らん」という推量の助動詞にその思いが通説にこめられていると思うのだがどうだろうか。「白瓜」が「煙」とともに雲の彼方にかき消えたことを見届けるようにして、『密母集』のなかにさまざまな女性が現れはじめる。この句は『密母集』に展開されるドラマの、じつにさりげなく置かれた布石の一つであろうという推測はあながちまちがいではないように思う。
『密母集』には、多様な女性とともに、法華、空海、E・A・ポオ、世阿弥、天皇、宗祇、ヴァイオリン、孔雀等が出現し、それから発する「気」が、天空でまじり合い、極彩色の曼陀羅図のように賑やかなポリフォニーを奏でている。されば旅人の行方やいかに。
魂魄や物に附きたるはねかくし
魂魄を追いゆく春の魚のき
「母」に慈愛のまなざしを送る旅人は、一方でトラウマを癒やしがたく、肉体の衣をぬいで「魂魄」になったのだろうか。この二句は『密母集』の終章にあらわれるのである。第一句では「もの」と「魂魄」との対比が語られている。「もの」は腐敗する。「はねかくし」という昆虫は、腐敗物を餌としている。「もの」におとずれる死―腐敗を指し示しつつ、「魂魄」のすがすがしさがまるで私はもう魂魄ですよと言わんばかりに高い位置から発言されている。
このように見てくると、安井浩司は『中止観』『阿父学』『密母集』の流れの中で、地上的なもの〈日常に非ず〉を振り切るために〈自我殺し〉を行い、そののち卑なる女(あとがきによれば葉衣自在菩薩)に招かれつつ霊的な変容を企てようとしたのではないか。『密母集』には〈現〉から〈幻〉へのグラデーション的交錯が感じられるのである。それは次の『霊果』へ飛翔するための周到な舞台造りでもあるのだが。
Ⅴ
稲の世を巨人は三歩で踏み越える 『霊果』
距離を、ではなく時間を大きくまたいでゆく巨人の出現。日常的な時間が切断され、読者はマクロ的な「時」の観念を要求される。『霊果』以後『汝と我』に至るまで、時間は過去と現在が潮のようにたゆたい、混じり合い、そこでは蛇も盲女も主も土器も風も山猫も、ありとあらゆるものが生き生きと主役である。そして、ふと気がつくと、私は藪を這っているのではなく、いまは雲に手の届く山頂ちかくの岩のあたりに腰をかけているのである。句集を追うごとに世界はせり上がり、『汝と我』に至っては、「気」は山霧のようにうごきはじめて「気流」を生じている。読者は『霊果』から『乾坤』『氾人』『汝と我』へと歩を進めてゆくうちに、我自ら虎や鶴や野虫に化ったように、自我が解放されてゆくのを感じるだろう。
睡蓮や加留多で遂げる最高我 『霊果』
「最高我」とはブラフマン(宇宙の根本原理)のことである。「加留多」とは何だろう。あのエロティシズムのことだろうか。濁世のことだろうか。それを一枚一枚天地返しをしますよということだろうか。いずれにせよここまで来れば安井浩司のめざしているものを察知しないわけにはいかない。そして、その予言は、一九七九年の「俳句評論」一八四号〈行く方に就いて〉のなかにすでに書かれていたのだった。
(略)ここで、いま一度“人間”、とりわけ〈来し方〉の“人間的なもの”に帰着する言語を断ち切りたいと考えている。絶対者(ブラフマン)的なものこそが狂喜してくれる言語に回帰の道をつけたいとも思い、また樹木の枝葉や獏や、野鼠なんかが私の俳句の読者であることも忘れてはならなかった。
一九七九年といえば『密母集』刊行の年である。『密母集』『牛尾心抄』『霊果』への受容の推移を、安井浩司はすでに見据えていたことになる。その遠大な企図を作品化するときの目もくらむ困難さに思いを至しつつ、ふと我に返って、「母」を探す任務を思い出したのだが、『霊果』にはもう一句次のような句があった。
母訪えば狭庭に立てる梣(とねりこ)の人
梣(とねりこ)という木はさまざまな用途に耐えられる、種類によっては二十五メートルにもなる高木である。私はそれゆえ「母」を「役に立つ人」と解釈していたが、そうこうしているつい先日、目の前を森の人が横切りつつ、誰にともなく呟いた。「とねりこは宇宙樹ともいわれていますね」。世界の中心に立つという宇宙樹。手近な資料にその関係を発見出来なかったのは残念だが、たしかに作者は『密母集』に「母」を置き去ることが忍びがたく、孔雀明王やもしかして宇宙樹にもなぞらえつつ、共に行くことに決めたのか、『霊果』にはまた「母」の句があまた復活し、『汝と我』に至るのである。「父」は時折り出没しつつ、『汝と我』ではやはり神的な存在としても描かれている。
父上様は鏡で村を照らしおる 『汝と我』
大峰入りの父の脚がもう見えず
ここに、もはや「父」はいない。父を見上げれば、その姿は我自身なのである。我のみか、すべての風景がさかしまにはね返ってくるばかり。不在の父の力の大きさが、「父」が見えぬ今こそ痛切に感じられる。不在に拠る在への逆照射。初句の「鏡」という言葉には恐ろしい力が感じられる。
さて、私は十冊という長い句集の歳月を前にして、その非日常的で難解な、しかしなぜかその魂の高さだけが句の上空に殷殷と鳴るのを耳にすると、その世界に何とか分け入りたいと思うようになった。おそらく安井浩司を解明する手だてはいくつもあるだろう。その広大無辺な世界は二十世紀までの神や知やエロスや自然界を包括しようとしているからである。今回私はそれらが幾重にも層を成してたゆたいながら、ポリフォニーを奏でている世界の、基底部と思しきところに降りてゆき、その毛深きの「気」を生みつづける源を探索したいと思った。だが、それは依然として謎である。ただ、その途次においてふと気になった肉親他の登場人物の存在を辿っていった時に、そこに思いがけぬ作者の精神史が深く横たわっていることに気づいたのだった。安井浩司に付されたカオスという定冠詞が、冠におわらずに、なまなましく、時に血を流しながら、時におどけながら、時に微笑みながら、しだいに読者もろとも高みへ昇ってゆく、その、「構造」のリアリティを保障したものは、安井浩司の偽らざる魂の在りようであったのだ。
構造。安井浩司は作品にさきがけて、俳句の既成概念を撃つべく理論を次々と理論を展開してきている。もどきの思想。極私性。構造。新しいアミニズム。私は本稿でこれを理論としては触れずにここに至った。しかし、作品に触れつつ、理論に抵触した部分もあるはずである。本稿の目的は、先にも述べたように、私の五官にとり付けたアンテナでカオスといわれる世界に分け入ることであったが、そこで視えたものでさへ、書き尽くせたとは思えない。紙幅を大幅に越えたいま、ここで筆を擱くことにする。
豊口陽子
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■