馳平啓樹氏は文學界新人賞を受賞した作家で、中国を舞台にした作品を多く書いておられる。小説には情報伝達の役割が抜きがたくある。介護であれ医療や介護、裏社会であれ、読者は自分がまだ知らない情報を欲している。小説は一般論として書くことはできず、特定の場所と人間の営みを描くわけだが、舞台が狭いからこそ、外からはうかがい知れない世界の機微を肌身で感じ取ることができる。今の中国社会をよく知る馳平氏は、その意味でアドバンテージを持っている作家である。
ただ馳平氏自身、ちょっと行き詰まりというか壁をお感じになっているのではないだろうか。馳平氏の作品は純文学としてはほぼ満点である。ただ読者を含む世の中全体が、かつてのような純文学的書き方に刺激を受けなくなっている。もちろん純文学的書き方を極めれば――運が良ければだが――芥川賞を受賞してひとときのスポットライトを浴びることができるかもしれない。ただ純文学業界にいる人たちは、回り持ちの芥川賞と飛び道具の芥川賞があることを知っている。そして読者の支持を得るのは、近年では飛び道具の場合が圧倒的に多い。いろいろな意味で壁を越えるためには思い切った飛躍が必要かもしれない。
緩やかな、曲がっているようにすら見えないほど優美な曲線を描きながら、その線路は僕から離れます。まるで大きな羽を腕いっぱい広げるようにして離れてゆきます。日に当たる田んぼの真ん中を貫き、僕が知る由もない場所へと飛び立ってゆくのです。遠ざかるレールが、隅々まで日の光を受け止めていたのを覚えています。あそこに敷き詰められていた石のひとつひとつまでもが何故か鮮やかで、まるで手に取るように見分けられる気がしたのも忘れられません。あの線路の分岐が僕の目の前に姿を現し、視界から消えてゆくまで、まさに一瞬の出来事でした。瞬きひとつするだけで見逃してしまうでしょうし、視界には何も残りやしません。線路が枝分かれして遠ざかってゆくだけの事ですから、幼い僕が忘れ去ってしまったとしても無理はありません。そうならなかったのはただの偶然という他ないでしょう――。
(馳平啓樹「毛沢東の家」)
「毛沢東の家」は列車に乗る前の中国の駅の待合室で、モトハシという男が主人公の私に語る思い出話から始まる。モトハシはいわゆる鉄道オタクだ。線路の分岐点を何よりも愛している。分岐点好きの原点になったのは、子供の頃、父親といっしょに乗った列車の窓から見た分岐点だ。しかし大人になって日本中の鉄道に乗ったが、その分岐点は見つからない。モトハシは今もその分岐点を探し求めている。
引用は小説の冒頭の方だが、この叙述から「毛沢東の家」が、いわば〝喩作品〟だということがはっきりわかる。野暮なことを言うとこんな話し方をする人間は現実にはいない。作家によって小説主題が濃縮されているからこのような書き方になる。私小説系の日本の作家が、人間心理を端的に表現するために編み出した抽象的書き方である。従って小説のテーマは〝分岐点はどこにあるのか、分岐した後それはどこに向かうのか〟にならざるを得ない。また小説のタイトルは「毛沢東の家」である。それは社会・政治性を含まざるを得ないテーマが小説に付加されていることを示している。
「技術だけなら、何とかなるんです。ないなら人に聞けばいいし、いないんだったら海の外から人を呼んだらいい。それも難しいなら、技術の結晶を船に積んでもらえばいい。問題は志でしょう、わたしは敢えて気力って言い換えます。世の中がどう動くかを見通して、見通した通りに運んでゆく気力――。それは並大抵の力じゃないし、誰にでもある財産でもないだろうし、そもそもそいつが明日を左右するような時代なんて、そう簡単にやって来たりもしない。出くわす事が出来たとしたら、ある人にとってはすごくラッキーで、そうでない人にはことごとくアンラッキーだ」
私はオオカワさんの話に聞き入りながらも窓の外を見ていた。
「私はこの国の人たちの速さについていく事が出来ませんでしたよ。今この国にはものすごい競争があって、みんなどうやってそれに勝てばいいのか分かってもいないのに、とんでもなく強気に進んでいく。負ける事なんて考えてもいない。それを志っていうんでしょうね。私に一番欠けているのがそれで、何にも知らずに送り込まれてきて、だから彼らにこき使われ歯車になるのが関の山でしたが、それでも何も知らなかったまま生きるよりはまだよかったでしょう」
(同)
私はモトハシとオオカワという日本人、それにアレックス・ウーという台湾人といっしょに列車に乗ってゴルフ場に向かっている。四人とも中国で高層ビル建設に従事する外国人で、つかの間のレジャーを楽しもうとしている。主人公の私が一番の新参者だ。私は中国での事業を危ぶむ日本企業の命令で、秘かにビル建設を中止させる使命を負ってやってきた。モトハシとオオカワ、アレックス・ウーは、理不尽な要求を繰り返す中国のクライアントに振り回されながら、ビル建設のために働いている。
旧知の仲ではない四人の会話は、現代中国を巡るものにならざるを得ない。台湾人のアレックスは共産党中国に嫌悪と反発を抱いているが、日本人たちは現代中国のバイタリティに圧倒されている。オオカワはそれを「志」と呼び、「世の中がどう動くかを見通して、見通した通りに運んでゆく気力」だと言う。ただ社会は大混乱している。オオカワは「みんな自分が信じる正しさを剥き出しにして潰し合うように見えるけど、実際は共存している。(中略)私たちはそれに圧倒されて歯車になるしかない状況に陥っているのは、そんなところに理由があるのかもしれない」とも言う。ではこの大混乱を、志を統御しているものは何か。
一号車で、図らずも私は彼の年代記を辿った。彼が故郷を出てから死ぬまでの姿を見て歩く事になった。一枚目の彼と十四枚目の彼は、どう見ても異なる人物だ。一人の人間が成長する前と後の姿とは思えない。(中略)
それでも目だけは同じなのだ。私は十四枚の写真から生じる幻のような視線を意識する。どの視線も、場違いな私を見透かしているような気がして落ち着かない。
(同)
鉄道オタクとしてはほとんどあり得ないことだが、モトハシは乗る列車を間違えたと私に告白する。列車はゴルフ場ではなく毛沢東の生家に行くための路線だったのだ。私はそれを確かめるために先頭車両に行く。一号車には毛沢東の写真が飾ってある。彼が現代中国の基礎を作った。また広大な記念公園と質素な生家しかない場所へと続く列車はほぼ満席で、皆楽しそうにしている。今も毛主席が中国を導いているということだ。ならば毛主席の力の本質とはどのようなものなのだろう。
必ず何かが私を待ち受けている。
それは唐突に姿を現した。今にも朽ち果てようとする一軒のあばら家に行き当たる。(中略)私はその扉をゆっくりと開ける。またしても暗闇としか言いようのない内部から、一対の「目」が私を迎える。私はその極めて鈍い輝きを受け止め、精一杯見つめ返し、ようやく心からの安らぎを覚える。それは絶対的な建国者の目ではなかった。岩よりも大きい総経理の目でもない。今まで直に出会ったりテレビや本で見たりしたどんな人物の目とも異なる。それは他の誰よりも見飽きた平凡な男が、鏡の中でだけ見せる充血した両目に酷似していた。
(同)
毛主席の生家に行く列車は故障して立ち往生してしまう。そこに私のスマホに、クライアントの中国人から電話が入る。ビルの建設許可が政府によって否認されたので、すぐ帰ってこいという命令だ。実は私が政府関係者に働きかけて中止させたのだ。ビルは認可を待たずに見切り発車で建設が始まっていたが、クライアントはそれを解体して、認可が不要な場所で再建築すると言う。そんなことができるはずはない。私は電話をかけまくってクライアントを止めるよう中国人関係者に頼むが、皆止められないと言うばかりだ。私の使命は失敗に終わったのだった。
また列車は周囲に何もない場所を走っている。私たち四人は列車に乗り合わせた観光業者の女に頼んで、彼女がチャーターしたバスを借りる交渉をする。女は承諾したが、バスのいる場所までは果てしなく遠い。私は車内で飲んだ酒で酔ったオオカワを抱えて歩く。その途中でモトハシとアレックスとはぐれてしまう。アレックスとモトハシから電話が掛かってくる。二人とも「見つかりました!」と言う。アレックスはついにバスをみつけ、モトハシは探し求めていた分岐点を見つけたのだという。しかしそれはかつて見たそれではなく、「全く別のものです」と言う。私もまた何かを見つけなければならない。
私は竹藪に迷い込み、広大な湖のほとりに出る。オオカワを残して歩き出した私は一軒のあばら家に入り込み、壁に掛けてあった毛主席の肖像写真を見る。私の分岐点は見つかったのか、その先に進む路線が見えたのかと言えば、そうではない。神格化された毛主席が人間に戻ったところで小説は終わっている。それは純文学としてはあり得べき結末だが、現代中国を描くという主題は満たしていない。
純文学的心理小説の文体を採用する限り、馳平氏の小説がリアリズムに向かうことはないと思う。しかし〝喩作品〟を書き続けるなら、その喩をさらに深めることはできるはずである。幻想小説に流れなければ作家しか知り得ない現代中国の本質が、喩的であるからこそ不気味な実体を持って立ち現れるのではないかと思う。
大篠夏彦
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■