今月号には加藤秀行氏の二五〇枚弱の中編作品「キャピタル」が掲載されていて、こういう作品を読むと救われたような気がする。加藤氏は一九八三年生まれでの三十四歳で、二〇一五年に文學界新人賞を受賞した。ウィキペディアの経歴には東大経済学部卒業後にドリームインキュベータに勤め、その後、子会社のDIマーケティングを設立して代表取締役に就任したとある。ドリームインキュベータは実業家の堀紘一氏が設立した会社で、企業コンサルやM&Aを行う会社である。世界中で起こっている厳しいビジネス現場を実際によく知る数少ない作家だ。
優れた作品が掲載された時にしか言えないので言ってしまうと、文學界に限らず、ほとんどの純文学文芸誌に掲載された作品は、冒頭の数ページを読んだだけで読み続ける気が萎える。せっかく物語を始めても、たいていの作家がそれをどこに送り届ければよいのか自分でもわかっていない。あるいは最初から物語を、どこかに、何かの地平に届かせることを諦めているのが手に取るようにわかる。またそういった小説が雰囲気純文学業界を形作っている。アトモスフィア純文学とは、深刻そうな顔つきはしているが中身のない小説のことだ。
ただ前衛を称する作家や批評家の中には、「小説に中身など必要なのか?」と反論する人もいるだろう。いるに決まっている。わたしたちは中身のない小説を、社会で権威とされる雑誌に掲載されたくらいで読み、誉めちぎるほどヒマではない。純文学、つまり社会的要素であれ個人的事情であれ、なんらかの人間世界の〝純〟を描きたいという気概があるなら、読者に〝中身がある〟と思わせなければ所与の目的を達成できない。青臭いことを言えば、それが小説や詩などを書き始めたガキやコムスメが、人生の時間が尽きるまで追い求める目的である。文学など目的がないなら、あるいは目的を見失ったらやめてしまえばいい。
最も単純に言って加藤氏の小説が優れているのは、まずわたしたちが知っておくべき情報が書かれているからである。彼は実際に現代のビジネスエリートの一人だ。一九九〇年代頃からのビジネスエリートはそれまでとは質が異なる。多くのサラリーマンや自営業者と同じように、彼らは仕事に全精力を傾け、肉体と精神がすり切れるほど働いている。しかしそれによって得られる報酬が今までとは桁外れに違う。三十代で億単位の資産を持っているビジネスエリートは決して珍しくない。そして利口なビジネスエリートは、それがほんのはした金に過ぎないことを知っている。世界的富豪の財産は、今や億でなく兆に届いている。また世界の富は急速に一握りの人間たちの手に集まり始めている。サラリーマンのビジネスエリートは、その末席に連なっている労働者のようなものなのだ。
また一昔前と比べれば桁外れの報酬は、ファンドやM&Aを含むコンサルティング・ビジネスから生み出されている。仕事の内容が空疎で浮世離れしているとは言えない。ビジネスエリートたちは知力を振り絞って学習し、あらゆる情報を集めて戦術・戦略を組み立ててゆく。それは肉体が悲鳴を上げるような実労働で重労働だ。しかし報酬として得る対価がやはり多すぎる。〝多すぎる〟というのは、昔ながらの製造業などと比べれば、ということだ。
社会は相変わらず歯ブラシからコンピュータに至るまで、実際にマテリアルを組み立てて物を作り、工夫し改良し続ける仕事で支えられている。それはこれからも変わらない。利益は少ないが、そんな製造業や職人芸が一番まっとうな仕事で生き方なのではないかという思いは人間なら誰しも一度は抱く。子供から老人に至るまで、実に人間的な様々な苦情や感謝に接してもいられる。しかしビジネスエリートたちは、今や製造業が一番割りの悪い仕事だということを知っている。社会インフラを形作っている会社の株を売買し、有望な企業を買収して収益が上がるようにコンサルティングし、優良企業に育てて売る方が遙かに儲かる。
もちろんハイリスクな仕事だ。だが桁外れの報酬を求めて、世界中から最も優秀な知性と頑健な肉体を持った人たちが次々に業界に参入してくる。失敗した者は即座に業界から追い出される。結果として収益を上げた者だけが生き残れる過酷なビジネス社会だ。またこのチキンレースはビジネスエリートたちをじょじょに変えてゆく。巨額の報酬以上の何かを求め始めるか、もしくはそれについては考えなくなるのだ。生きがい、というのとは何かが違う。とてつもなく優秀な知性体が今現在しかないように、次々に仕事を、プロジェクトを求め、それを完成させてゆくのである。
もちろんそれは危うい状態だ。人間は必ず老いる。いつまでもハードワークを続けることはできず、いつかはビジネスエリート社会のチキンレースから降りる日がやってくる。しかし降りたとしても、従来的な製造業重視の世界と比べればということだが、浮世離れしていると思われがちな実業は続く。資産が数十億になれば、それはさらなる富を生む。資本が投資を要求し、そのための新たな仕事が始まる。大富豪と小富豪の違いがあるだけで、仕事は似たようなものだ。
テレビなどでチヤホヤされる製造業や職人芸ではなく、現代社会を根幹で動かしているのは白眼視されがちな投資家たちである。それは今後も恐らく変わることがない。むしろ世界の富の集中は加速する傾向にある。しかしそれを実感する人々は少ない。
画面に映っている女性は、アリサといってタイ人。戦略コンサルティングファーム出身で、採用予定のメンバーだという。彼女が急に辞退を申し出た。(中略)
「内定辞退のメールが届いた後、一切の連絡が取れなくなった」
「まさか。アルバイトじゃあるまいし」
「新しい対象国の初期メンバーの要件は想像がつくよな」
「おそらく」
不確実性を確実にコントロールできること。局地での不合理性を全体としての合理性に転換できること。冷静でタフな人間。硫化水素の猛毒の中で活発に生存する細菌みたいなある種の矛盾した存在。(中略)
「しかし美人ですね」
「それも一つの方面における才能だ」(中略)
「なんで、あの子は、俺の元を去っていったのか」
「実は先輩と働きたくなくなった、ってオチじゃないんですか」
「そういう結果でも構わない。我々は彼女を連れ戻したい。できることは何でもやる。まず始めに、事実を知りたい」
「自分たちの時間は遣わず、金で解決できる限りは」
「それも一つの合理性だ」
「視点の違いですね。先輩から見たら合理性で、僕から見たら好奇心です」
(加藤秀行「キャピタル」)
「キャピタル」の主人公は大学卒業後、七年間務めたコンサルティングファームで一年間の一時休養を取った須賀裕樹である。過酷なビジネス世界で生き残り、ご褒美の休暇をもらったわけだ。ただ三十代で燃え尽きるビジネスエリートも多い。それを見透かした一時休養でもある。一年間身体と精神を休ませるだけでなく、その間に様々なことを考え、また戦場に戻るのか、戻って活躍できるのかを見定めるための休暇でもあるということだ。
同僚が愛人のために借り、愛人が逃げて空き家になったバンコクの部屋に一時滞在していた裕樹の元に、かつての職場の同僚で、仕事を教えてくれた先輩の高野から連絡が入る。高野は一時休養を取ったことがない。「無駄を嫌い、最短距離を好む人」だとある。
高野のファンドに入社予定だったアリサという名のタイ人女性がいる。交通事故を起こして入院した後、彼女は入社を断ってきた。二十七歳で申し分のない経歴のビジネスエリートである。高野はできればアリサを翻意させたい。優秀な人材は宝なのだ。しかし辞退のメールが届いた後、連絡が取れなくなってしまった。高野の依頼はアリサに会って、入社辞退の理由を探って欲しいというものだった。裕樹はアリサの資料を読んでから入院している病院まで会いに行く。(後編に続く)
大篠夏彦
■ 加藤秀行さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■