文学金魚では、2013年6月より『青い目で見る日本伝統芸能』という連載をさせていただいた。大学院で能楽の研究に携わっていた時期に、2年半にわたって、観劇した舞台のレビューを連載するという企画で、自分の勉強を裏付ける貴重な機会だった。
この企画で、能楽、歌舞伎、人形浄瑠璃、江戸あやつり人形劇、落語、そして伝統芸能の要素を取り入れた現代演劇など、様々なジャンルの作品を見て、取り上げることができた。読者のみなさんにできるだけたくさんの種類の芸能に目を向けていただきたかったこともあり、また日本では実に多様な伝統芸能が共存するわけだから、得意分野の能楽だけに集中するのはもったいないという思いもあり、結果として様々な芸能に触れることになった。
観劇した中で、印象深かった作品の特徴や見どころを言語化することに挑戦した結果、伝統芸能の世界への理解が少しずつ深まったと思う。私の意識の中で出来上がりつつある日本の舞台芸術の地図の中で、各芸能の居場所が明確になり、それらが昔から大切に受け継がれてきた理由も浮き彫りになり始めている。そこで今回は、「青い目で見る日本伝統芸能」の連載中に気づいたことを3点ほどまとめたい。
私の研究では、日本の芸能の「多様性」が重要なキーワードになっている。能楽を専門としているが、その歴史と発展を理解するためには、能がほかの舞台芸術とどのように関係しているのか、どのように影響され、どのような影響を及ぼしているかを考える必要があるのだ。様々なジャンルの舞台作品を観て気づいた意外な共通点や相違点は、日本の舞台芸術という宇宙を探検する上で、大事な手がかりになった。
これは「外」からの視点、つまり外国人の視点になるが、日本の芸能は本当に多様である。欧米の国々では、まず日本のような多様な芸能を観ることができない。一つの国でこれだけ多様な芸能を観ることができるのは、芸能研究者にとって実にありがたい。またたくさんの芸能の中から観たいものを好きに選べるのは、とんでもない贅沢だと思う。
例えば現在とは違う時間の流れを体験させてくれる物語を見たい時は、能を選べばいい。想像力やスペクタクル性にあふれる驚きの技芸をただただ楽しみたい時は歌舞伎を、日常生活の悩みが吹き飛ぶまで笑いたい時は落語を選ぶわけだ。また自分と同じ時代や社会に生きている人が何を思っているのか、どんな想像力や創造力で未来に向かっているかを知りたい時は、現代演劇の作品を観ればいい。その時その時の気分によって、毎回違うジャンルの舞台を観ることができる。
しかし実際に劇場や演芸場に行くと、能が大好きな人はだいたい能だけを観ている。歌舞伎ファンは歌舞伎だけを観て、現代演劇ファンは伝統芸能にはあまり足を運んでいない。それはそれで日本芸能という環境の特徴の一つとして認めるしかないのだが、「なんでもいつでも観られるのが贅沢だ」という考え方を見直す必要が出てきた。この考え方は、「外」から見た日本文化への観点を軸にしている。日本人はちょっと変に思うかもしれないが、外国人の私としては、日本の「内」の事情を完全に理解するまでは、まだ課題が残っているように感じる。
連載で気づいた二つ目のポイントは、ちょっとした反省点でもある。日本の芸能の世界への理解を深めるために、「何でも観るように」したのだが、それにはメリットとデメリットがあった。メリットは日本芸能の総合的なイメージの輪郭を、少しずつ掴めるようになったことである。デメリットは「何でも観る」ことと「たくさんの作品を観る」ことが、必ずしも同じではなかったという点である。それぞれのジャンルの現状を把握するためには、時間をかけて各ジャンルの作品をたくさん観た方がよいに決まっている。でないと各作品を正確に評価できない。
また芸能の世界を理解しようとすれば、芸能そのものだけではなく、観客の観劇習慣や専門家による評論なども視野に入れなければならない。芸能の世界は生命体のようなもので、変数が多く、定数が少ない。つまり常に動く、変わり続ける環境だ。この芸能環境の現象的変化をできるだけ正しく把握するためには、変化のパターンを見つけ、それを基に理論を立て、理論が現実に破られるかどうかを試した上で、気づいたことをまとめてゆかなければならない。つまりいわば生命体を研究している科学者とだいたい同じ作業になる。
研究は「何でも観る」という方針で良く、とある環境の「現状理解」を目的とする。これに対して評論では、その環境の健全性を守るという義務も生じる。もちろん研究者も評論家も、作品や作風の特徴を見出して、芸能の世界の地図の中にそれを位置づける作業を行う。しかし評論家の場合、作品の良し悪しを判断することや、「良質な作品や作風とは何か」を見出すことなども求められる。その際の肯定や批判の基準も問われる。
「青い目で見る日本伝統芸能」では、研究と評論の二つの視点がしばしば混在してしまったように思う。それは大きな反省点だ。連載で取り上げた舞台のほとんどは強く印象に残るような作品だが、評判に関わらず、自分の研究に必要だった現状把握という目的で選んだ作品ばかりだった。日本の芸能の健全性と将来を見据えた選択基準をどう確立し、舞台を観てゆくのかは、今後の課題である。
「青い目で見る日本伝統芸能」で気づいた三つ目のポイントは、「演劇」の定義についてである。英語で日本の芸能について論じる時、便宜上、能を「Noh Theater」、歌舞伎を「Kabuki Theater」などと訳す。しかし「theater」という言葉は、果たして日本の伝統芸能の特徴をうまく捉えているのだろうか。
近年は「performing arts」という言葉が広く使われるようになり、能や歌舞伎などを総合的に示唆する時は、「performing arts」がふさわしいとされるようになっている。また「theater」という言葉は、台本や舞台、それに俳優も排除している最先端の舞台芸術に対しても使うことができない。
日本のように、通常の「演劇」として判定できない芸能の種類がたくさん混在している文化があるからこそ、この言葉の定義や使い方を見直さなければならないのではないだろうか。「theater=演劇」では不十分なのだ。これは、世界中で芸能の研究に携わっている人が向き合う課題だ。
常に変化し続け、常に成長し続ける日本芸能の世界はとても刺激的な環境で、海外の演劇人からも注目されている。「外」と「内」の交流が活発なればなるほど、変数が増えて定数が減る事態、つまり大きな変化や移動が起こるだろう。それにつれて、新しい価値も生み出されるだろうし、「舞台芸術」に希望をかけた人々が目指すべき新たな地平線も現れるだろう。このような交流の可能性を念頭において、引き続き日本の芸能を観たいと思う。
ラモーナ ツァラヌ
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