金魚屋プレスの齋藤都さんから、総合文学ウェブ情報誌「文學金魚」を開設するのでなにか原稿をと依頼されたのだが、あんまり持ち合わせのネタがない。だいたい僕はまったくもって多趣味ではないのだ。自由詩については作品と詩論を発表し続けているが、「そのテの原稿じゃありません」と却下されてしまった。本や雑誌の批評などでもなく、「もっと軽いヨミモノふうのエセーを」というリクエストだった。しかし映画はひとなみにテレビやDVDで見るだけで、めったに映画館にはいかない。テレビ番組もあまり見ない。おいしいものは好きだがグルメではまったくない。酒も飲まないので、飲み屋さんを巡る楽しいお話などは書きたくても書けない。競馬などの賭けごともやらない。洋服については興味がないを通りこして、「ちょっと絶望的だね」と人に言われてしまうような始末だ。ファッションセンスというやつは、僕にとっては永遠の謎だ。どうしていいのか見当がつかない。
いろいろ考えたすえ骨董について書くことにした。骨董に興味を持ったのは三十代の半ば過ぎで、キャリアは浅いのだが、まあこれは本当に好きだ。しかし以前「夏夷 Web Magazine」というホームページで「言葉と骨董」という連載をしたことがあり、今も詩誌「夏夷 leaflet」で「続・言葉と骨董」の連載を続けている。最初の「言葉と骨董」では焼き物中心に書いたが、連載中の「続・言葉と骨董」は書画に関するエセーである。たいていの骨董好きはそうだと思うが、僕も最初は焼き物から骨董の世界に入った。徐々に書画に興味が移ってきたので今は書画について書いている。ただ焼き物に対する興味を失ったわけではなく現在進行形で買っている。そこで久しぶりに焼き物について書くことにした。タイトルは「続続・言葉と骨董」。従来の「言葉と骨董」シリーズと同様、言葉と骨董を巡るエセーである。骨董といってもモノはモノである。そこに言葉が介在しなければ古物への理解は深まらないのである。
昭和の名工・加藤唐九郎の言葉を借りて焼き物を定義しておくと「“やきもの”といっとるのは、土または石を焼いて固めたものである。大ざっぱにいえば、土を焼いて固めたものを陶器といい、石を焼いて固めたものを磁器といっている」ということになる。焼き物は、人間が土や石を焼き固めて作った様々な道具だと言ってもよい。土の中には必ずカオリンと呼ばれる長石系の成分が含まれている。陶器の材料になるのは陶土だが、カオリンの含有量が一定レベルに達しないと焼いても土は固まってくれない。これに対して磁器はほぼカオリン百パーセントの土を原材料にしている。自然界には純度の高いカオリンのかたまりが石になって存在しており、それを砕いて粉末にして陶土にするのである。唐九郎が磁器は石を焼いたモノと言ったゆえんである。古来磁器生産地として有名な中国景徳鎮近くに高嶺(カオリン)山があり、この純白の山は純度の高いカオリン石のかたまりなので、磁器の原材料を世界的にカオリンと呼ぶようになった。
土と石を原材料にしているのだから、陶器と磁器では当然焼成温度が違う。縄文土器などの軟陶は700~800度で焼けるが、炻器(せつき)と呼ばれる頑丈な陶器は1300度近い温度で焼く。この場合はよほど良質の陶土(カオリン成分の高い土)を使わないと窯の中で陶器が割れてしまう。磁器は1300度近くの高温で焼くが、伊万里焼きなどを思い浮かべてもらえればわかるように、色絵が多いので数回に分けて焼成するのが一般的である。まず700度くらいで素焼きをし、その上からコバルト(呉須[ごす]とも言う)で絵付けをして釉薬を掛ける。それを1300度くらいの高温で焼くと白の陶体の上に青い模様が浮き出た磁器ができる。いわゆるブルー・アンド・ホワイトである。色絵の場合はこの上にさらに絵付けをほどこしてゆく。赤、黄、緑、金などで装飾するが、それぞれに焼成温度が違うので、温度が高い順から絵付けして何度も焼くのである。陶器はほぼ一発勝負の難しさがあり、磁器は陶器よりも遙かに手間ひまのかかる焼き物である。
ちょっと長々と焼き物について説明したが、それは一口に焼き物といっても、ほとんど民族のDNAとしか呼びようのない好みが国ごとにあるからである。焼き物発祥の地については飛行機の発明などど同様に、今でも世界中で論争が繰り広げられている。しかし世界で初めて大量生産を始めた国が中国であるのは間違いない。中国では少なくとも紀元前六千年の新石器時代から焼き物が作られている。生産が盛んになるのは戦国から後漢(BC400~AD200年)時代頃だが、中国の焼き物制作には一貫した特徴がある。それはなんとしてでも土から離れようとする意志である。中国の焼き物は完璧だ。隙のない左右対称形で優美な姿、繊細かつ豪華な模様(絵付け)などが中国陶磁器の華である。焼き物に限らないが、皇帝愛用品を文物の頂点とする中国ならではの厳しさがそこにはある。単純に焼けば土色(黒や焦茶色)になってしまう陶器の上に白土をかけ、白い器を初めて作り出したのは中国である。また抜けるように青い青磁を初めて作ったのも中国だ。中国陶磁史は、原始的な陶器の上にいかに色と模様を乗せてゆくのか、その戦いの歴史だと言っていい。そして試行錯誤の末に中国が生み出した精華が磁器である。
中国の磁器生産は元時代(十四世紀前半)から始まるが、盛んになったのは明代に入ってからである。景徳鎮に皇帝専用の窯(官窯)が作られたのである。最初は染め付け(ブルー・アンド・ホワイト)が多かったが、すぐに色絵の生産が始まった。磁器の生産が軌道に乗ると、朱泥急須などの趣味的作品を除いて中国ではほとんど陶器を作らなくなる。磁器はカオリンを焼き固めたものだから、磨いた石のように表面がなめらかだ。どんな食べ物を盛っても陶器のように油が滲みず、洗えば元通りになる。薄く作れば太陽の光を通すほど透過性が高い。また白い器には青を始め、赤や緑や金の装飾が良く映える。情報がなければ磁器が土(石の粉末)から作られたと想像するのは難しい。そのためヨーロッパでは、磁器は卵の殻を土に混ぜて長期間埋めて作るのだという俗説が生まれた。ヨーロッパで初めて磁器生産に成功したのは十八世紀初頭のドイツマイセン窯だが、技法を見つけ出したのは君主アウグストⅡ世の命を受けた錬金術師、フリードリッヒ・ベトガーである。今では自然科学の祖と言われているとはいえ、鉛から金が作れると吹聴して歩いた多くの山師の中から磁器生産技術が生まれたことに、当時の磁器を巡る状況がよく表れている。ヨーロッパでは磁器は長い間、魔術的製品だったのである。
磁器生産技術は江戸時代初期の十七世紀に日本に伝わった。豊臣秀吉の文禄・慶長の役で日本に連れてこられた朝鮮人陶工によって伊万里窯が始まったと伝えられるので、磁器生産技術は中国から朝鮮半島経由で日本に到来したのである。清潔で軽い磁器は日本でも盛んに生産されるようになる。しかし日本では中国のように陶器生産が下火になることはなかった。東日本で陶器を「唐津モノ」、磁器を「瀬戸モノ」と呼び始めたのは北前船による交易が盛んになった幕末以降のことだが(陶磁器をいっしょくたにした「セトモノ」という呼称は、少なくとも桃山時代には確認できる)、日本では陶器と磁器がほぼ同じ分量で作られ続けた。その理由の一つは日本での喫茶の習慣にあるだろう。薄い磁器は熱伝導性が高いので、熱いお茶を入れるのには適さない。ほんのりとした熱を伝えてくれる陶器の方が好まれたのである。また昔から正式な茶道では基本的に磁器は使わない。格式が高いお茶会になればなるほど、いわゆる御道具は陶器で占められることになる。それだけではない。日本人は本質的に陶器が大好きなのである。
多くの焼き物好きの日本人は、「作為を感じさせない作為ある焼き物が最高だ」と言う。陶工もまたしばしば似たような言葉を口にする。茶道具で最も格式の高い茶碗は黒や赤一色の楽焼や萩焼であり、古い唐津焼の一種である奥高麗である。これらの茶碗には絵がない。絵は人間の作為そのものだからである。陶土で形を作り、その上から釉薬を掛けて焼いただけの単純な陶器が最高なのである。釉薬すら不要かもしれない。自然釉と言うが、陶器を焼いていると偶然に器の上に灰が降り注ぎ、ガラス化して一種の釉薬となることがある。見事な自然釉が掛かっていれば、焼き物好きは人工的な釉薬などなくていいと言うだろう。もちろん人間が作った物から作為を完全に排除することはできない。しかし焼き物好きは、ひとりでに陶土が器の形になり、自分で釉薬をかぶって火の中で焼き上げられたかのような陶器を好む。中国とは逆に、日本の焼き物好きは決して土から離れようとしない。日本の名工は、作為を感じさせない作為ある焼き物を作った陶工たちを指すのである。
陶器には「土見せ」と呼ばれる部分がある。器体にまんべんなく釉薬を掛けると窯の中で台(陶板)と器体がくっついてしまうので、底の部分(「高台」という)には釉薬を掛けずにおくのである。土見せは技術的な理由から生まれたものだが、焼き物好きも陶工も土見せを重視する。様々な土の色や触感自体を楽しみたいからだ。多少のデコボコがあってもかまわない。「石はぜ」と言うが、高温で陶土が収縮し、中に含まれていた不純物の石が表面に顔をのぞかせているのを喜んだりもする。あまりやり過ぎると嫌みな骨董趣味になってしまうが、中国のように完璧な陶磁器ではなく、歪んでいても無骨でも、土そのものを感じ取れる焼き物を日本人は愛してきた。日本文化を体現すると言われる「侘び寂び」は、単純で作為のない創作物に対する日本人の感性を表した言葉かもしれない。なんの変哲もない自然のように在ること、人間の創作活動を、最大の造物主である自然に限りなく近づけることである。話芸でも陶芸でもそれは変わらない。さらりとした自然体で最高の芸を見せるのが、日本人が好む至高の芸術である。焼き物、特に陶器を愛する日本人の嗜好が変わらない限り、このような心性はずっと続いてゆくのではないかと思う。
さて、図版である。別に決まり事ではないのだが、焼き物について書く時は、自分が持っているコレクションを公開するのが一種の不文律になっている。以前テレビで税理士さんが、領収書や帳簿を見ればその人の生活はもちろん性格まで手に取るようにわかると言っていが、骨董も似たところがある。長年集めた骨董を見れば、コレクターの性格ははっきりわかる。美術館に入れてもいいような骨董ばかりだと金に飽かしたコレクションだと言われるし、安物ぞろいでも馬鹿にされる。正解などないのだが、その人の「美意識」は、骨董というモノの形で示されたときに最もストレートに伝わるということなのだろう。常日頃から人様のコレクションを写真で見てぶつくさつぶやいている骨董好きの一人として、ここは骨董エセーの不文律を踏まえておきたい。まあ文句を言ったり笑ったりして毎回楽しんでください。
写真は平安時代(十二世紀頃)の常滑焼きの壺の残欠である。完品なら高さ五十センチ、胴径四十センチほどもあったと推測される大壺だが、上下にグシャッと潰れ、その上半分に割れている。陶器は焼くと、最大で三分の二くらいまで大きさが収縮すると言われる。土が厚すぎると割れてしまい、薄いとへたってしまうのである。この作品は割れ目を見ると、陶体の厚さが一センチほどしかないので、熱に耐えきれずに潰れてしまったのだろう。ただ火はよく当たっていたようで、表面には自然釉がたっぷりとかかっている。現代美術でいうオブジェ(レディメイド)のような奇妙な形をしているが、人間の手と火の力によって偶然に生み出された創造物の一つである。
骨董に興味のない方は不思議に思われるかもしれないが、これは僕が最も大事にしている物の一つである。作為なんてあったもんじゃない。そんなものは吹き飛んでしまうほどいためつけられている。明らかな失敗作であり、物原(窯の近くに作られたゴミ捨て場)から拾われてきた物なのだ。しかし僕は魅力を感じる。潰れ方も割れ方も釉薬もこのままでいいと思う。勝敗は問題ではなく、土と火が激しく戦った後の静かな景色だ。これも一発勝負の陶器の醍醐味だろう。銘は形の通り「半月」。わずかに袋状になっていて、水を入れても漏れないので花を挿すことができる。毎年十五夜の頃に、竹内栖鳳の「眠兎」図に合わせる花入れとして使っている。僕が骨董を買い始めてから覚えたささやかな風流である。
軸は竹内栖鳳「眠兎」図
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■