この連載の第1回目を管理人の石川さんに渡し、アップしてもらってからしばらくして金魚屋プレス代表の齋藤さんからメールが届いた。内容はねぎらいと、どんどん書いてくださいという激励だったが、その中に「ウサギの日本画は素敵ですね。今年は辰年ですが」という一節があった。「う~ん」と唸ってしまった。そんなこと考えていなかったのである。しかし言われてみれば辰年に始める新連載で、最初の図版が兎ってのはなにか変だ。齋藤さんは何気なく書かれたのだろうが、干支では兎、辰の順だからなおさら気になる。そこで辰年の焼き物を探すことにした。でもこれがけっこう難題だった。
よく知られているように、龍は古来中国皇帝の象徴である。龍の起源は神話時代にまで遡ると考えられている。四書五経に歴代中国王朝の礼制の規範となった『礼記』がある。現在の形にまとめられたのは後漢時代(AD1~2)だと推定されているが、中には周時代(BC11~8頃)の古い記述も含まれているらしい。この『礼記』の中に四霊(しれい)の記述がある。麒麟、鳳凰、霊亀、龍で、これらは霊妙な力を持つ瑞獣(目出度い生き物)とされている。麒麟は信義、鳳凰は平安、霊亀は吉兆、龍は変幻を表すが、龍は河にまつわる神話の図像(シンボル)化ではないかと考えられている。
これもよく知られていることだが中国には空想的神話時代といったものがない。司馬遷の『史記』が描くように、世界の始まりから堯・舜・禹と続く聖帝がこの世を治めていたのである。ただ彼らが実在の人物であった可能性は低く、様々な神話が綜合され擬人化されたのだと考えられている。堯は舜に、舜は禹に帝位を禅譲した。血縁関係がないのに人間の徳だけを基準に帝位を譲ったのである。歴史時代に入った中国王朝では決して行われなかったことだが、中国人はそれが理想の帝位移行だと考え続けた。また堯は鯀(こん)に治水事業を命じたが失敗したので殺した。鯀の息子が禹であり、彼は治水事業を引き継ぎ遂に成功して帝位に就いたのである。禹は治水が終わった時には「偏枯」(半身不随状態)になっていたと伝えられるので、相当な難事業だったことがうかがわれる。
もうお気づきかもしれないが、龍は大河を中心とする自然現象のシンボルだろうと考えられている。禹の難事業に示されているように、中国人は日本とは比較にならないほど大きな河の治水に悩まされてきた。ただ大河が引き起こす洪水は、破壊(死)であると同時に新たな恵み(生)でもあった。上流から肥沃な黄土を運んできてくれたのである。そのため龍は死と再生のシンボルとなった。白川静博士によると禹の「偏枯」は魚を示唆するようだ。また『楚辞』『天問篇』には応龍(おうりゅう)が禹に治水の方法を教えたとあるので、禹が水神系の神話的存在だったのはほぼ間違いない。禹は魚となり龍と変化して治水事業、つまり国家的安寧をもたらしたのである。
龍を皇帝のシンボルに用いるようになったのは宋から元時代のことである。最初はあまり厳密は決まり事はなかったが、明時代になって皇帝が使用する服や陶磁器には五爪の龍を使用することになった。当然、臣下は五爪の龍紋の使用を禁じられた。ほとんどが清時代のものだが、今でも世界各地に皇帝着用の礼服などが所蔵されている。それらを見ると、服の表側に正面を向いた龍(正龍)が大きく刺繍されている。袖や裾も龍だらけだ。清時代には龍は皇帝の象徴そのものになっていたのである。また布の色は鮮やかな黄や藍や紅色などである。これらの色には陰陽思想に基づく意味があり、図像にもそれぞれ意味が付与されている。
意味のある図像が描かれた服を着るなど特殊な風習だと思われるかもしれないが、そんなことはない。中国の影響を色濃く受けていた江戸時代までの日本も同じである。和服は基本的に意味から着物や帯、小物を取り合わせる。流水紋の着物に紅葉の帯なら竜田川の意匠というわけである。粋と言われる着物の着こなしは、そのほとんどが意味から生じている。表音文字を使うヨーロッパが音韻に似た色と形という感覚で服を着こなしていたのとは対照的に、表意文字を使う中国や日本は図像シンボルの組み合わせを重視していたのである。だから欧米のファッションデザイナーが着物の意匠を取り入れると、どうも妙なものができあってしまう。その反対に着物ばかりを着ている人がたまに洋服を着ると、突拍子もない格好になることがある。図像の意味から洋服を取り合わせてしまうためである。
壺や皿などの陶磁器に龍が現れるのも古く、少なくとも東晋時代(5世紀前半)頃には遺品がある。ただこの時代には陶器の表面に絵を描く技術はなかった。そのため龍の形そのものを象り陶器の取っ手にしたような作品が多い。宋時代(12世紀頃)に入ると掻き落としという技法が開発される。黒の陶体の上に白土を掛け、それを篦で掻き落として黒い模様を浮き立たせたのである。この時期の作品には立派な龍が陶器全面に彫られている遺品がある。元時代になると磁器の生産が始まり、明代に入ると中国はほとんど磁器しか焼かなくなる。五爪の龍が皇帝専用磁器になるのは明の宣徳年間(15世紀初頭)くらいからのようだ。これ以降、焼き物でも皇帝用の五爪の龍紋は厳密なまでに守られてゆくことになる。
ただ中国には皇帝以外にも龍の紋章を平然と使う集団がいた。中国は広大な国土をたった一人の天子が治める極めて厳しい中央集権国家だった。そのため龍の紋章は、いつの間にかその正反対の、社会底辺の闇の世界の象徴にもなっていった。反体制的秘密結社が好んで使用したのである。ブルース・リー主演の『燃えよドラゴン』は、香港の秘密結社的マフィアの武道大会を舞台にした映画である。決して荒唐無稽な設定ではなく、中国では古代から秘密結社と武道は密接な関係にあった。反体制勢力は常に武力を必要としていたのである。『燃えよドラゴン』には龍の紋章が頻繁に現れる。龍に闇の世界の王の意味が託されているのは言うまでもない。また龍は蛇体をしている。それは突然表の世界に現れ、再び闇の中に自在に身を隠すことのできる秘密結社の象徴でもあったのである。
龍紋の中国陶磁器の値段は高い。五爪の龍紋ともなると尋常な値段ではなくなる。中国陶磁器は陶磁器の美の世界標準だから、皇帝専用の遺物はサザビーズやクリスティーズで競りにかけられ高値を呼ぶことも珍しくない。李朝でも同じで、鉄絵や染め付けの龍紋の遺品があるが、末期の民窯のものでない限り相当に高価である。物に魅力があって値段が折り合えばいつか買うかもしれないが、このエセーのために入手するわけにもいかない。そこで記憶を整理して、手持ちの骨董からなんとか2つ龍紋の焼き物を探し出した。古伊万里の火入れと六角筆筒である。江戸時代までの日本は圧倒的な中国文化の影響下にあったので、龍の図像は本家と同様、吉祥紋として喜ばれた。ただ天皇家や幕府が五爪の龍紋を重視することはなかった。特に焼き物の世界ではいい加減で、三爪と五爪の龍紋が混在している。
六角筆筒は雑な作りのようだが、よく見るとかなり手が込んでいる。龍は陶土を盛り上げて形を作った陽刻で、龍を取り巻く雲の筋も陽刻である。轆轤成形ではなく型を使って作られているが、型抜きした後に篦で細工しないとこれだけ細かい陽刻はできないだろう。土台には青海波(せいがいは)模様があるが、これは篦で陰刻が施されている。また龍には白磁釉が、その他の部分には瑠璃釉が塗られている。瑠璃釉は白磁釉に呉須(コバルト)を混ぜたものである。伊万里の染め付けは、通常は呉須で模様を描いた上から透明釉を掛ける。しかし瑠璃釉は一度掛けである。李朝の作例に多いが、磁体を瑠璃釉に漬ければ均一な色になるし、筆で塗ればむらが生じる。作品を初めて見た時は下手な染め付けだなぁと思ったが、わざと筆で瑠璃釉を塗って濃淡を付たようだ。荒れた空を表したかったらしい。
龍を陽刻で表し、その回りに呉須を掛けて白抜きにする作例は中国の元染め付けにある。ただ長い間染付は明時代から始まったと考えられていて、元染め付けの存在は20世紀に入ってから確認されたので、伊万里の陶工が参考にした可能性は低い。もしかすると明・清時代の遺物に作例があるのかもしれない。筆筒は中国人が見たら「なんだこれ」と笑ってしまうような作行きだが、いかにも伊万里らしい雰囲気である。伊万里には中国陶磁器のような厳しさはないが、湿度が高い日本の風土がそのまま表れているような柔らかく水っぽい優しさがある。時代は幕末だと思うがもう少し古いかもしれない。
火入れの方は蛇の目高台で幕末天保時代頃の作である。正面に横向きの龍が描かれているが胴体はなく、背面に尾と後ろ足だけが描かれている。龍の身体は虹のような円弧の形としてイメージされているわけで、見えない胴体は火入れの上部にかかっている意匠である。香を焚くとそれが龍の胴体になるのだとも捉えることができる。あまり中国陶磁器には類例のない、大胆な省略法を用いた伊万里ならではグッドデザインである。この作品は昨年、秋田に俳人の安井浩司氏をお訪ねした時に買ったので、ちょっと思い出深い品である。
古伊万里龍紋六角筆筒と火入れ
古伊万里龍紋六角筆筒(口径6センチ、高さ11.4センチ)
古伊万里龍紋火入れ(口径10センチ、高さ7.6センチ)
鶴山裕司
(写真撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
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