「ゲーリー・スナイダー・イン・ジャパン」という特集で、やっとこの詩誌が「読めた」。ゲーリー・スナイダーの名は聞いたことがあるし、この特集のおかげで、どんな詩人かもよくわかった。いつもの現代詩手帖だと読めば読むほどわからなくなるか、もしくははなから「読めない」のだが。
谷川俊太郎氏の「ゲーリーを迎えて」というのが、なかでも端的にわからせてくれる。「ほとんどの現代詩人はアタマとココロしか働かせていない。だがゲーリーはヒトが部分ではなく全体として生きるには、カラダぐるみであるのが当然だと知っている。カラダは毎日食べて飲んで出して動いて愛して生活しているのだから、詩もそこから生まれてくる。どんな抽象的なコトバもそこに根を下ろしていなければ力を持たない。」
こういう文章は、まずは現代詩手帖の読者にでなく、まず現代詩手帖の書き手たちに読ませるべきじゃないか。もっとも、読者も書き手もほとんど重なっている現状なのだろうが。
とすると、こういった文章は現代詩手帖という雑誌自体の否定にもなってしまう。それが一番説得力がある名文だった、というのがまた、困ったものだけど。
ゲーリー・スナイダーの「ごあいさつ」というのも、よかった。アメリカ人らしい力強い単純さ、アメリカ人らしい日本文化へのズレた解釈、それらすべてがいつもの現代詩手帖に載っている、今の日本の現代詩人たちの複雑さ、瑣末さよりも、わたしたちにはずっと近しい。
そしてゲーリー・スナイダーと谷川俊太郎によるポエトリー・リーディング「太平洋をつなぐ詩の夕べ」での対話は、詩の業界で目にしたうち、ほとんど唯一、通常の意味でのコミュニケーションが成立していると読めた。それは本当に安堵する光景だ。
スナイダーは言う。「『悪』という言葉は使いません。あまりに二元論的なのです。哲学的、形而上的に言えば、万物のなかに『悪』はないと考えています。あるのは『大いなる無知』と『過ち』だけです。二元論がもつ考え方自体が実は大きな過ちで、人はもっと賢明になって、理解できないものにも慈悲深く、寛容に接し「悪」と断じるべきではない。人を『悪』だと糾弾しないことが賢明な生き方だろうと思います。『悪』という概念をもつこと自体が悪なのです。」
ある集団をリードできる人というのは、その集団の価値観を完全に相対化する思想を持っているものではないか。それは一見、その集団から外れているかのごとく、である。
ゲーリー・スナイダーがアメリカ文化を相対化することで、我々にそれを近しくさせるようにリードしているとすれば、日本の詩のカルチャーをリードできるとしたら、今の現代詩手帖に登場する詩人たちの中では、谷川俊太郎氏ぐらいしか見当たらない。だから、こういった特集を組めない号はむしろ出さない方がよいのではないか。この特集においても、ゲーリー・スナイダーと谷川俊太郎氏以外の書き手たちは、まったく見知らぬ書き手たちで、ほぼ普段の現代詩手帖のレベルにまで平均点数を引き下げてしまっているだけだし。
りょん
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■