【参考図版】オポン・イファの使い方
この老人がそう言って約束してくれたので、わたしは早速、出かけて行った。しかし一マイルばかり行ってから、わたしはシュジュの一つを使い、またたくまに、非常に大きな鳥に姿を変えて老人の家に飛びかえり、屋根の上に止まっていると、やがておおぜいの人々が集まってきて、老人の家をとりかこみ、鳥の姿の、屋根上のわたしを見ていた。(中略)老人は(中略)わたし(鳥)を見て、妻に、「あの男に、かじ屋に命じて作らせておいたベルを、もってくるよういいつける代りに、この鳥の名を言わせてもよかったのだ」と、話した。(中略)わたしは早速かじ屋の所へ飛んで行って、「あの老人(神)から、注文品のベルをもってくるように、いいつかりました」と言った。(中略)わたしがベルを持って帰ってきたのを見て、老人と妻はびっくり仰天し、同時に、また強いショックを受けたのだった。
(エイモス・チュッオーラ『やし酒飲み』)
チュッオーラの『やし酒飲み』は、ヨーロッパでは中世以降、日本では明治維新以降の厳密な用語定義と論理で構成される、いわゆる〝近・現代的世界的普遍者の言葉〟では書かれていない。主人公は十歳の時からやし酒を飲む以外、なにもして来なかった青年(私)だ。二十五歳の時、毎日欠かさずやし酒を造ってくれていた男が事故で死んでしまう。私は「この世で死んだ人は、みなすぐに天国へは行かないで、この世のどこかに住んでいるものだ」という古老の言葉を思い出し、死んだやし酒造りを探すことにする。
旅に出てすぐに私は一人の老人に会う。老人は「実は人間でなく神様」だとある。私も老人に、「この世のことならなんでもできる〝神々の〈父〉〟」だと自己紹介する。老人はやし酒造りの居場所を教える代わりに難題をふっかけてくる。私はシュジュ(ヨルバ族の呪術用の依り代)を使って大きな鳥に変身し、なんなく老人の難問に答えたのだった。
この鳥への変身を喩として捉えると、『やし酒飲み』はとたんにつまらない物語になってしまう。『やし酒飲み』にグリム童話のような隠された意味はないのである。隠された意味は単純化して言えば人間の内面表現のことだ。もちろんチュッオーラに内面がなかったわけではない。しかしそれは徹底して外面として表現される。
危険な旅に出た以上、私は神話の神である。そうでなければ戻ってくることはもちろん、旅することすらできない。他者との接触は心理の動きではなく、異形の存在と人間との衝突として具体的に語られる。私が異形の存在になることもあるし、異形の存在(他者)に襲われることもある。ただその有り様は人間心理と同じくらい複雑で自在である。
さて、わたしたちは、「誠実な母」と一緒に暮し、彼女は、誠実そのもので、わたしたちの面倒をよくみてくれた。そして、この母と一緒に暮すようになって一週間もたたないうちに、わたしたちは過去の苦労をすっかり忘れてしまい、彼女は彼女で、いつでも好きな時に、ホールへ行ってもよいと言ってくれた。そこでわたしたちは欲しいものは何一つ買いこんでいなかったので、朝早くホールに出かけて、飲み食いをはじめなくてはならなかった。それにわたしは、かつてわたしの町では、指折りのやし酒飲みで鳴らした男だったので、飲みものはどんなものでも気前よくガブガブ飲みはじめた。そして一カ月足らずで妻とわたしは、自分でも不思議なぐらいの、すばらしいダンサーになっていた。
(同)
私は旅の途中である町の長に頼まれて、異形の頭蓋骨男にさらわれた娘を取り返してやり、娘と結婚して旅を続ける。私の目的が、以前のように朝から晩までやし酒を飲むために死んだやし酒造りを見つけ出すことにあるように、『やし酒飲み』には食べること、食べられることの記述が満ちている。飢えた人や動物に殺され食べられるのは、鬱蒼とした森林に囲まれたアフリカの大地に住む人々の根源的恐怖だった。その反面、飲むこと、食べることの喜びは強烈である。飲食には必ずドラムと歌と踊りがついてまわる。
私と妻は「誠実な母」が住む「白い木の内部」に招き入れられ満ち足りた日々を過ごす。誠実な母は白人との接触が生んだ神話的記述だという解釈がある。現実に即せば恐らくそうだろう。ただ母は〝誠実〟だと書かれている。彼女が提供してくれる食べること、飲むことの愉楽は生の規範であり、倫理なのだ。つまり『やし酒飲み』は毎日たらふくやし酒を飲んでいた男が突然パラダイスを失い、地獄である危険なブッシュを彷徨って再びパラダイスを取り戻すまでの物語である。
「わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした」と回想する、我々の基準ではぐうたらな主人公が批判されることはない。それどころか八人兄弟の長男で、父親は「わたしにやし酒を飲むことしか能のないのに気がついて、わたしのために専属のやし酒造りの名人を雇ってくれた」という主人公は、生まれながら幸福に生きることを求められている神的人物だとも言える。『やし酒飲み』では満腹になるまで飲食することが根源的な愉楽であり善であり、生の倫理になっている。そのため私や妻を襲い食べようとする異形の者たちが忌み嫌われることもない。餓えは必ず訪れ、幸福は餓えて死んだ者たちの上に築かれるからである。
私は苦労の末に、ようやく死んだやし酒造りに巡り合う。ただ幸福と倫理を求める神として旅をする私でも、死んだやし酒造りをこの世に連れ戻すことはできない。しかしやし酒造りはいっしょに行けないかわりに一個の卵をくれる。卵を使えば「この世で欲しいものは何でも手に入ります」と言う。私はそれを故郷の町に持って帰り、最初は卵を使ってたくさんの酒や食べ物を取り出して人々を幸福にする。欲深い人々によって卵が割られてしまうと、「天の神」に捧げ物をすることで町に幸福を呼び込むのである。「雨は、三カ月間、いつものように整然と、降り続き、その後飢饉は、二度とおこらなかった」とある。それが『やし酒飲み』の最後の記述である。地獄巡りの末にパラダイスが出現したのだ。
彼の頼みをきいて、わたしは、彼に、一体幾ら借りたいのだと訊くと、二千カウリ(タカラ貝)借りたい、と答えた。二千カウリというのは、イギリスの金に換算すると六ペニーに相当した。そこでわたしは、彼に金を貸したものかどうか、妻に相談すると、妻は、この男は「すばらしくよく働く労務者ではあるが、将来きっとすばらしい泥棒にもなりましょう」と言った。もちろんわたしには、妻の言った言葉の真意はわからなかった。しかしともかくその男に、要求通りの六ペニーを貸してやることにした。彼が行こうとした時、わたしが名前を訊くと、彼は「ギブ・アンド・テーク」という名だと答えた。
(同、太字原文)
『やし酒飲み』で一番面白いと思うのはこういった箇所である。私は旅に出てほとんどすぐに妻を得て苦難をともにするのだが、妻がどういう女で何を考えているのかという記述は一切ない。しかし物語後半になると妻は予言をし始める。その予言は必ず当たる。この予言能力が妻としての成熟であり内面変化だろう。また働き者だが将来泥棒になる男の名前が「ギブ・アンド・テーク」であることは、私の共同体的倫理が金の貸し借りにはないことを示唆している。『やし酒飲み』はある程度までは頭で分析して理解できる。だがわたしたちが絶対に書くことのできない小説である。この作品は――期せずしてと言うべきなのだろうが――何かの根源に接近している。
ヨーロッパでは文学者だけでなく、ユング派の心理学者も『やし酒飲み』に強い関心を示した。ユングは人間の無意識領域の根源には元型(アーキタイプ)があると仮説した。民俗や宗教が違っても、確かに人間存在に共通で普遍的と呼べるアーキタイプは存在するからである。わたしたちは当たり前だが言葉を使ってこのアーキタイプを捉えようとする。ただアーキタイプは言葉で捉えられるのか、あるいはアーキタイプは言葉を話す(発する)のかという問題はある。
多分深層心理にあるアーキタイプは言葉を発せず、しかし具体的で変幻自在な姿かたちをして蠢いているだろう。それが意識に近いところまで浮上してくれば言葉に近づくはずである。アーキタイプなら当然のことだが、その言葉は予言として発せられ、必ず当たるのではないか。『やし酒飲み』のある種不気味な手触りは、人間の深層心理に存在するアーキタイプの姿を驚くほど具象的に、だが熱もなく淡々と外面から描いていることで生じているように思う。
現代作家なら当たり前だが、僕もまた欧米式の理知主義を基盤として詩や小説や評論を書いてきた。ただしばらく前からつらつらと、だけどけっこう真剣に無意識領域の言語化を考えている。日本の作家で無意識領域を最も優れた作品にしたのは唐十郎だろう。ユング的に言えば唐の戯曲は、意識近くまで上がって来た老賢人が耳元で囁いた言葉を書き取ったような感じである。簡単に言えば唐十郎ライティングを自分のものにしたい。それには読書だけでは足りない。自己と民族と人類の無意識を読むことができる骨董はとても有効な手がかりになる。
唐さんにヨルバ族のお盆を見せたら、「なんだこれ。チンチロリン用の賭場か?」とでも言いそうである。ただ絶対に「骰子一擲いかで偶然を破棄すべき」といった言葉は口にしないと思う。彼にはどんな目が出てもそれは必然であり、予言は成就する。論理では破綻しているとしか言えない物語をあっさり完結させられるのが、チュッオーラや唐十郎といった前近代的作家の凄みである。
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
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