十一月号は第62回角川俳句賞の発表号だ。選考経過にかなり詳しい応募者のデータが掲載されていて面白かった。応募総数は七四八篇(人)で、男性四四二名(五九パーセント)、女性三〇三名(四一パーセント)である。年代別に見ると、最も多いのが六十代の二一八名で二九パーセントを占める。以下五十代・一六一名、七十代・一一八名、四十代・一〇八名で、ここまでが三桁に乗る応募者数である。つまり四十代から七十代が合計六〇五人で、全体の八一パーセントを占める。十代二十代の応募者は三二名で四パーセントに過ぎない。また予選通過作品(者)三七人のうち、結社無所属の者はわずか三名である。
この数字は良くも悪くも俳壇を表しているだろう。文学史的に見れば短歌と俳句は兄弟か姉妹だが、現実の歌壇・俳壇を見ればまったくの別物だ。角川短歌の新人賞応募者は三十代を中心とした若者が多い。また結社所属者は三割程度ではなかっただろうか。様々な批判はあるにせよ、それが短歌界の活況につながっている。自由詩や小説の世界でも、新人賞に応募する者は三十代くらいの若手が主流である。短歌や自由詩、小説は〝新しい才能〟を欲しているのである。それに対比させれば俳壇はとても保守的だと言わざるを得ないだろう。
じゃあ〝新しい才能〟とは何かということになるわけだが、すごく単純に言えば〝自由な表現を容認すること〟だろう。若者は時に後先考えない無茶をやる。それは従来の文学伝統を壊そうとするだけでなく、勢い余って先行作家たちが作り上げた○○壇をも激しく批判するようになる。年長者は「そー簡単にはいかないよ」と静観するのが常だが、ある瞬間には純な表現欲求に心揺さぶられ、既成概念が少しだけ変わるのも確かである。歌壇はそんな厄介だが、新鮮な波にさらされている。もちろん角川俳句賞は新人賞とは銘打っていないので新しさを評価する理由はないかもしれない。ただそれは詭弁だな。
鶯や川の匂ひのしてきたる
オルガンの煙のやうな音長閑
春の日や歩きて遠き船を抜く
帽子屋に汽笛の届く春の暮
引越しの荷物に坐り春の蟬
花冷の廊下の奥の棕櫚箒
怒り静かに花筏影もたず
春雷や金平糖の尖りほど
風鈴や山に山影ぶつかりて
大花火果てたる靴の中に砂
空蟬に掌にちやうど良き広さ
消しゴムで消せさうな雨曼珠沙華
カンナ老ゆその柔らかきところから
願ふこと辛し歩けば息白し
凍滝の全長光る木霊かな
家出たき頃の匂ひの毛布かな
桟橋の下の氷も揺れはじむ
(松野苑子「遠き船」)
角川俳句賞の受賞者は松野苑子氏で、昭和二十二年(一九四七年)生まれの七十歳である。俳歴も長くすでに二冊の句集を刊行し、星雲賞、坂俳句賞、俳句朝日賞準賞を受賞しておられる。受賞作を読めばわかるように生活に根ざした写生俳句である。表題作の「春の日や歩きて遠き船を抜く」や「カンナ老ゆその柔らかきところから」は秀句だと思う。また「願ふこと辛し歩けば息白し」や「家出たき頃の匂ひの毛布かな」からは、作家の心の揺らぎが直接的に伝わってくる。松野氏のように真摯に俳句に取り組んでおられる作家を評価するのはとても大事なことだと思う。俳句は結局のところ、有季定型写生が基盤の文学なのだ。それはなんびとにも覆せない。ただなぜそうなのかを原理的に探求して、常に俳句に揺さぶりをかける必要がある。俳壇は保守的だがそれは俳句芸術の常態でもある。
角川俳句賞の選考座談会を読んでいても、作品の技術的完成度を評価する言葉が目立つ。それも重要だが、技術の高さを平準化してゆくと中庸な作品になってしまうという面もある。もっとはっきり言えば五七五に季語の定型の中でこなれて完成度が高い作品を評価するというコンセンサスが成立しており、その枠組みの中で各俳人の俳風がぶつかり合えば、消去法的に無難な作品を残すということにもなりかねない。もちろん突飛な発想や俳句定型を崩した作品は他の結社誌などが評価していて、角川俳句賞はあくまで王道をゆくのかもしれないが、もう少し枠組みを緩めないと俳壇を活性化できないのではないか。実際、応募者の数から言っても、十代二十代の作家が角川俳句賞に魅力を感じていないのは確かだろう。
プール出て声あることを確かめる
大蛸の眼のあたりよりうねる
くちびるを太くつかひて巨峰食む
家族ゐるような顔して春の浜
砂利踏めば焦燥わき上がる暮春
(清水右子「白桃」)
予選通過作品も俳句らしい俳句が多いわけだが、清水右子氏の「白桃」のように、舌っ足らずでも少し嫌な感じのする作品(妙な言い方ですが)も評価した方がいいのかもしれない。新興俳句はともかくとして、前衛俳句の遺産は今の俳壇ではあってなきがごとしである。その一番の理由は多行形式がどうしても容認できないことにあるだろう。ただ前衛俳句が提示した最も重要な問題は、多行という形式にはないのではないかと思う。
俳句に〝現代〟が頭に付いた場合の最重要の問題は、作家の自我意識である。維新以降の日本文学がヨーロッパ的な自我意識文学を中心に据えるようになったのは周知の通りである。短歌は元々「私」を詠う文学だからなんなくその流れに乗れた。しかし本質的に非・自我意識文学である俳句では様々な問題が生じた。俳壇はその総意として、形式的にも内容的にも強烈な自我意識を主張する前衛俳句をその主流から排除したわけだが、途端に凪のような停滞が訪れた。ただそこで提示された問題はもっと真剣に考えてみる必要がある。
俳句が非自我意識文学である以上、最終的な理想形が五七五+季語定型になるのは当然のことである。しかし一方で〝現代人〟である限り、独立独歩で唯一無二の自我意識からなんびとも逃れ得ない。そのため俳句では強烈な自我意識表現が、その〝自由意志〟によって定型の非自我意識文学に辿り着くという逆接が起きる。前衛俳句が露わにしたのは現代文学と俳句文学の逆接であり、その始まりとなる無茶な自我意識表現は、現代の俳句にとってとても重要なのだ。つまりもっと俳句文学の本質と若い作家を信頼してもいいということだ。無茶な試みを〝面白い〟と評価すれば俳句は習い事芸から脱却できる。少なくとも若い作家の自我意識表現をたわめるのはマイナスだと思う。
宇多 手抜きは駄目だということでしょうが、ついつい易きに流れますね。今の「ふるき米五升」(春立つや新年ふるき米五升 芭蕉)の次の、
餅を夢に折りむすぶ歯孕の草枕
ですが、正月も「歯孕」を飾る餅もない。歯孕を枕に餅の夢でも見よう、そんな句ですけど、芭蕉はそんな自身の人生観みたいなものを食べ物に託しております。
奥村 でも雑煮は食べてますよ。これ、俳句にはなっておりませんが、手紙に「たまたま雑煮を味わった」など雑煮餅を食べたことがうかがえます。元禄の頃ともなれば、ぽつぽつ京都から河内へ、河内から伊賀へと雑煮が伝わる。だから、今も伊賀の雑煮は京都風です。
宇多 雑煮くらい郷土がはっきり出るものないですね。
奥村 現在の形ができるのは明治後半ですが、もともとは京都の将軍家で生まれた婚礼の夫婦固めの盃を交わす時の酒の肴です。
(第1回 宇多喜代子の「今、会いたい人」 日本料理とは何か――芭蕉の「月見の献立」 柿衛文庫〈日本のくらしをきく〉シリーズ)
今月号では宇多喜代子氏と伝統料理研究家の奥村彪生氏の対談がとても面白かった。奥村氏は『日本のめん食文化の一三〇〇年』や『日本料理とは何か』の著作で知られる料理研究家である。奥村氏という伝統料理研究の大家に、宇多氏が芭蕉俳句に現れる食べ物について質問する形で対談は進んでゆく。奥村氏の料理に関する知識は驚異的である。教えられることが多い。また宇多氏も食べ物について強い関心を持っておられることがわかる。
もちろん日本料理のルーツや変遷については、いっこうに知らなくても生きていける。芭蕉俳句の食べ物の解釈についても、そう突っ込んだ研究をする必要はない。名句ではないのだし、それが当時実際にどういう食べ物だったかまで把握しなくてもよい。ただこういった興味は重要である。人間を育てるのは、なんの役に立つのやらと思いながら、自発的に興味を持って調べてたり集めたりする事柄なのだ。料理への興味は宇多氏の俳句の深みになるだろう。人間は遊んでいる時に育つというのは本当だと思う。
岡野隆
■ 宇多喜代子さんの本 ■
■ 奥村彪生(あやお)さんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■