今月号では『俳句スピリッツ~人生の困難を俳人はどう詠んだか!?~』、『口語俳句にチャレンジ!』、『俳句の事件簿 第二芸術論の衝撃』の3つの特集が組まれている。かたよりなく俳句にとって重要な問題を特集形式で提起しながら、深く探究せず淡々といなしているところが、『月刊俳句界』らしいといえばらしい。
今こそ口語俳句を!――編集部の与えてくれた題の「今こそ」に注目する。今、現在とはどういう時空の中の「今」なのか。
二〇一一年三月十一日、東北地方に大震災・津波が発生、それによって原子力発電所の爆発までが起き(中略)トラブルの完全収拾には数十年の時間を要すると分かりながら、なお原発推進を企む政治勢力も存在するという日本の現実、つまり「今」がある。
俳句のみならず、あらゆる文学、芸術は、こういった反人間的、反社会的な行為・傾向に抗う精神の営みをいう。
(『態度の問題』田中要)
では、このように難しい「口語俳句」に対して、筆者自身はどのように接しているのかといえば、先述のような考察をしながらも、実はまったく気にせずに詠ませて頂いている。
この「気にせず」というのは、今現在の感動を読み手に伝えたいと詠んでいるのだから、全て当然に「口語」だと思っていながら、その気分のなかで文語の響きも利用している、ということだ。
(『「口語」と「口語俳句」のニュアンス』中西亮玄)
『口語俳句にチャレンジ!』に掲載された2本の論から引用した。田中は口語俳句の意義(意味)について論じている。口語俳句は一種の社会性俳句であり、現代的問題を表現するには口語(現代語)がふさわしいということである。中西は口語俳句を定義しようとしている。しかしそれはたいへん困難であり、ときに文語調が混じってもかまわない。ただ口語・文語調を問わず、今現在の感動を、話し言葉(口語)のように表現・伝達するのが口語俳句だろうということである。
このような言説は、あいもかわらぬ俳壇内のたわごとだ。文学は確かに現代的事件を表現できる。作家の思想を表現できる。しかしそれは伝統俳句でも他の文学ジャンルでも可能だ。また口語体なら作家の素直な感動を、より効果的に読者に伝達できるという考え方は、あまりにもナイーブだ。それは作家が口語俳句に抱く「願望」に過ぎない。口語調なら作家の素直な心が、素直に読者に伝わるほど、文学は甘くない。
私は口語俳句自体には好感を持っている。刺激的な試みだと思う。実際、口語俳句の秀作もある。しかし口語体俳句作家の目は、俳壇内部に向かって閉じていると思う。前回の時評でも論じたが、口語俳句的表現には「伊丹三樹彦の一字アケ俳句」、「坪内稔典の片言俳句」、「ヘップバーンの横書き俳句」といった試みもある。それが俳句界の通弊として、座となり、結社となり、俳壇内の勢力争いに巻き込まれていく。しかしそれは文学の問題ではないのである。
生涯をかけて口語俳句に打ち込むのなら、まずその定義を明らかにすべきだろう。それができなければ口語俳句は、いつまでも俳壇の大勢である伝統俳句への、ネガティブなアクセントで終わる。俳壇内部と結社同人に向けた言説は、外の世界ではまったく通用しない。もちろんこのような悪弊は、伝統俳句の作家にも蔓延している。
日本人の語呂に合った五七調の極短詩形ゆえに、小学生から老人に至るまで手軽に作れるのが俳句。その大衆性のもつ必然的負の側面をあれこれあげつらったのが、〝第二芸術論〟と認識している。(中略)識者は俳句が芸術であるなどといううぬぼれた考えは持っていない。生涯に何句でもよい、芸術性の高い作品を残したいと思っているだけなのだ。
(『第二芸術論などどうでもよし』前田吐実男)
特集『俳句の事件簿 第二芸術論の衝撃』には前田吐実男、中村正幸、仙田洋子の3人の論が掲載されている。いずれも桑原武夫の『俳句第二芸術論』はいいがかりであり、現代の俳句界はそれを超克したと述べている。
あいもかわらずひどいものだと思う。前田の論にあるのは居直りと詭弁である。「俳句が芸術であるなどといううぬぼれた考えは持っていない」と言いながら、「生涯に何句でもよい、芸術性の高い作品を残したい」では論旨が通らない。「芸術」は「芸術性」とイコールではないといった、まるで「冷温停止」と「冷温停止状態」を使い分けるような政府見解的ごたくでも並べるつもりか。また俳句は国民的文学であり、「その大衆性のもつ必然的負の側面」があると論じながら、それについては触れていない。桑原が批判したのは、ほかならぬ俳句の「負の側面」ではなかったのか。また俳句が芸術でないなら、『第二芸術論』への反論自体が矛盾だ。「たいていの俳人にとって俳句は趣味であり、趣味を批判されたくない」とはっきり言った方がすっきりする。
俳人は恐れを知らぬ。桑原武夫は頭のいい男だ。きわめて怜悧な論客で性格も剣呑だった。『第二芸術論』に反論するなら、桑原が生きていて目の前に座っていると思って全身全霊をあげて書くことだ。そうしなければ、それは杜撰な放言で終わる。俳人は、結社や俳句の先師には心からの敬意を払っているではないか。桑原に対してもそうすべきだろう。桑原は外からの視線で俳句を読み、俳句の弊害を指摘した。真剣に受けとめた方がよい。それに対して内向きの答えをしても意味がない。
桑原が『第二芸術論』で論じた俳句界の弊害は、基本的に現在でもまったく解消されていない。私はそれを解決せよと言うつもりはない。むしろこれだけ変わらないのだから、そこには理由があると思う。しかしそれを、現実に存在する俳壇の「制度」の問題として語ってはならない。子弟制度や結社(座)制度を文学の問題として論じ尽くすことだ。それができれば、おのずから『第二芸術論』への有効な反論になるだろう。
日本文学には短歌、俳句、詩、小説といったジャンルがある。融合し交流することもあるが、そのジャンル的区分は今後も崩れないだろうと思う。それぞれのジャンルの本質があるのだ。俳人はいつも書き急ぐ。作品を書くことばかり考えている。それは俳句文学の大きな特徴だろうと思う。575に季語という形式は、考えて書くのではなく、まず書いてから考えることを促しているのである。しかし書いても書いても考える俳人は現れない。もっと俳句文学について考えるべきだ。俳人は外からの視線で俳壇を捉え、俳句文学の本質を誰にでもわかるように論じる必要があると思う。
晩夏光仮面にかはる仮面なし
わが夜叉のいまだ眠らず百日紅
海市あり別れて匂ふ男あり
鈴虫の鈴がころがつてゐる奈落
あかときの障子開ければ前世あり
遺影には遺影の月日金魚玉
空海も爪切りをらん夕端居
2月号では秦夕美の作品が印象に残った。昭和13年生まれで、個人誌『GA』を刊行し、同人誌『豈』に所属する優れた女流俳人である。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■