今月号は『大特集 現代俳句協会』である。現代俳句協会(以下、現俳協と略記)は日本最大の俳句団体で、8000人以上の会員を擁している。現在の会長は宇多喜代子で、名誉会長は金子兜太である。特集には宇多、寺井谷子(現俳協副会長)、安西篤(現俳協幹事長)による特別座談会も収録されている。表紙タイトルには『現俳協が俳句の未来を決める!』とある。
特集に合わせて現俳協の重鎮・金子兜太が新作句3篇を寄稿し、『読者投稿コーナー 金子兜太が選ぶ94句』も掲載されている。兜太の新作句は「被爆福島米一粒林檎一顆を労わり」、「冬の緑地帯風評被害の風音」、「列島沈みしか背くぐまる影冨士」である。春風や兜太社会を被爆して、といった風情である。立派なものだ。
どの世界にも業界団体はある。小説を中心とした文学の世界にも、日本文芸家協会や日本ペンクラブなどがある。しかし現俳協の性格は、それらとは異なるのではないかと思う。文芸誌が文芸家協会やペンクラブの大特集を組み、『文芸家協会やペンクラブが日本の小説の未来を決める!』と銘打つことはないだろう。つまり現俳協には、作家たちの親睦団体を超えた存在理由が付加されているわけである。
日本文学は明治維新を境に、孤独な自我意識文学へと大きく変貌した。明治20年代の尾崎紅葉らによる硯友社を最後に小説界における座は解体し、以後作家たちは孤立した個の文学を書くようになる。座の伝統を残したのは短歌と俳句の世界だけだが、内実はかなり異なる。短歌(和歌)は鎌倉時代初期の『新古今和歌集』の時代に頂点を迎えたが、その遺産は現在ではもはや継承しようもない。そのため形式は保持しているが、現代短歌の表現は驚くほど自由だ。俳句の方が江戸時代から地続きの伝統に縛られている。
現俳協を俳句結社と同質の座として捉えれば、そこから俳句文学の本質を明らかにできるだろうと思う。俳句文学は明治維新以降の自我意識文学よりも、ずっと古い日本文学の基層を持っているのである。若手俳人には、伝統俳句とも口語俳句ともつかない、軽味としか呼びようのない作品を書く作家が増えている。彼らには既存の俳句を相対化して捉える視点があるのだろう。ならば現俳協についても、アプリオリな俳句団体・権威として捉えることなく、俳句文学固有の問題として、根本から考察の対象にしてほしいものだと思う。
『月刊俳句界』には『魅惑の俳人』という連載があり、今回は阿部完市だった。久しぶりに完市の句を読んだが、やはりいい俳人だと思った。完市は昭和3年生まれで、金子兜太に師事して『海程』編集長を勤めたので、社会性俳句の俳人というイメージがある。代表句に「少年来る無心に充分に刺すために」という、昭和35年(1960年)の右翼青年・山口二矢による、日本社会党委員長・浅沼稲次郎刺殺事件を想起させる作品がある。しかし完市本来の魅力は、もっと別のところにあるだろう。
いたりやのふいれんつえ遠しとんぼつり
ばると海という海がみたくておよぐ
散水車らぷそでい・いん・ぶるう撒く
遠方とは馬のすべてでありにけり
完市の句の言葉はみずみずしい。完市の句では、手垢のついた言葉が、初めて使われる時のような初々しさを取り戻す瞬間がある。「いたりやのふいれんつえ遠しとんぼつり」、「ばると海という海がみたくておよぐ」の句は、「ふいれんつえ」、「ばると海」という、平仮名交じりの日本語表記の新鮮さが魅力である。また「散水車」が撒いているのは文字通り、物質化した「らぷそでい・いん・ぶるう」だろう。夏の乾いたアスファルトに涼気を与えるように、平仮名の「らぷそでい・いん・ぶるう」がばらまかれている印象がある。
完市は「言葉は、言葉本来の形、その言葉自身経て来た歴史、言葉のもつ意味を超えるある予感をも含めた「言葉」――言葉の自然――として用いられ、咲かされるべきものである」(『俳句幻形』)と書いている。だから駆ける馬、牧場に佇んで草をはむ馬は、「遠方」という言葉で捉えられる。「馬のすべて」が「遠方」という抽象語で鮮やかに表現されるのである。完市の言う「言葉の自然」とは、ありのままの言葉という意味ではない。それは見慣れてしまい、何の感動も驚きももたらさない言葉の中に、高度な言語操作によって、まだ表現されていない本質(本来備わっている資質=自然)を見出す試みである。
木にのぼりあざやかあざやかアフリカなど
くももくれんたましいわすれてはならぬ
少年の牙はさふらんそしてさんざし
昼顔のか揺れかく揺れわれは昼顔
きらきらしきらきらしきさらぎの碁打ち
完市俳句の魅力は、その見事な音韻(オノマトペ)にもあるだろう。しかし完市の句はノンセンスな音韻遊びには決して流れない。確かに「言葉の自然」、つまり言葉が本来的に有しているその本質を引きだそうとするために、完市の句は音韻を含めた言葉そのものの物質性に引っ張られがちである。だがそれを、どこかで観念の方に、自我意識の器に引き戻そうとしている。
「アフリカ」は「あざやかあざやか」を導き出すために選ばれた言葉だろうが、それを見ている人(恐らく少年)は、木の上から遠くを、世界を見渡す視線を有している。また雲(くも)、木蓮(もくれん)というイメージと音韻に陶然としても、「たましいわすれてはならぬ」のである。さらに「われは昼顔」であり、絶対に朝顔でも夕顔でもない。「か揺れかく揺れ」という音韻は、どこかで完市の自我意識と繋がっている。すらりと口から出たように見えるが、完市の俳句は練り込まれている。完市は自分自身をもろく、美しく、まろやかで、変幻自在な水滴にたとえている。
一滴の水のごとくにわれまろし
見事な自己認識だと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■