新年号の特集は『俳句史にみる表現革命』で、明治28年(1895年)の正岡子規による『写生俳句』から平成8年(1996年)の黛まどかの『横書き俳句』までの、約100年間の俳句表現史が簡潔にまとめられている。明治、大正、昭和、平成にまたがる100年の俳句史を、わずか30ページほどの特集でまとめられるはずもないが、それでも俳句初心者には勉強になると思う。虚心坦懐に読めば、俳句は変わったと受け取る人も、あまり変わっていないと読み解く人もいるだろう。
俳句は基本的には17文字の極めて短い表現である。俳人はわずか17文字の中に表現意欲の全てを注ぎ込むわけだから、勢いその読解は詳細にならざるを得ない。原則として1句1句を丁寧に解釈して、その余韻まで味わうのが俳句の読み方なのである。俳壇外の人にとってはささやかな違いでも、ある時期に俳人が強い意志をもって試みた表現は、俳壇では大きな驚きをもって迎え入れられるのである。
●口語俳句
ヒロシマを歩いた靴ずれを愛している 田中陽
ふりむいた道はみどりで誰もいない 市川一男
おれが死んでも桜がこんなに咲くんだな 漆畑利男
●伊丹三樹彦の一字アケ俳句
古仏より噴き出す千手 遠くでテロ 伊丹三樹彦
石据えて墓 石転ばせて墓 荒磯 同
陽に酔う僕 山茶花の散る只今は 同
●坪内稔典の片言俳句
三月の甘納豆のうふふふふ 坪内稔典
せりなずなごぎょうはこべら母縮む 同
ほとけのざすずなすずしろ父ちびる 同
●ヘップバーンの横書き俳句
口笛はゴッドファーザー春の泥 黛まどか
君とゐてレモンティー二つ分の距離 菅野奈都子
Tシャツの平和主義者として集ふ かしまゆう
*「ヘップバーン」は平成8年(1996年)から平成18年(2006年)まで刊行されていた黛まどかを代表とする女性会員による俳誌
特集で取り上げられた、時代の異なる新たな俳句表現の試みから3句ずつ選んでみた。それぞれの俳句については、その気になればいくらでも作家の意図を説明することができる。ただ相対化して言えば、これらの俳句で試みられているのは形式上の変化である。具体的に言えば「けり、かな」といった文語調の切れ字を排し、口語体で俳句を書く試みである。またそのような試みは、575の定型や季語という俳句の約束事を破る傾向が強いことが、すぐに読み取れるだろう。
これらの俳句は、主に昭和になってから始まった試みだが、その歴史は古い。大正時代の河東碧梧桐、大須賀乙字、荻原井泉水らの新傾向俳句の時代から、俳人たちは575で季語を含む俳句の形式に揺さぶりをかけ続けてきた。ただその評価はなかなか難しい。引用の俳句でも、作品と俳人が結びつく形式になっているのは、伊丹三樹彦の一字アケ俳句と、オノマトペを多用した坪内稔典の片言俳句くらいだろう。「口語俳句」や「横書き俳句」は、作者名を消してしまえばもう誰の句かわからない。またこれらの破調の俳句形式の試みは、俳壇の主流である有季定型俳句がなければ、とても心細いものである。
●秋櫻子の万葉調俳句
馬酔木咲く金堂の扉にわが触れぬ 水原秋櫻子
梨咲くと葛飾の野はとの曇り 同
葛飾や水漬きながらも早稲の秋 同
●誓子の句題拡大
流氷や宗谷の門波荒れやまず 山口誓子
夏の川赤き鐵鎖のはし浸る 同
下界まで断崖冨士の壁に立つ 同
●秋櫻子の新切字
蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ 水原秋櫻子
水無月や庫裡見通しに庭牡丹 同
餘生なほなすことあらむ冬苺 同
これらも特集から選んだ俳句である。水原秋櫻子と山口誓子は、高浜虚子主宰の『ホトトギス』に反旗を翻して『馬酔木(あしび)』を創刊したが、有季定型俳句の王道を行く俳人の代表格である。彼らが『ホトトギス』を離脱した理由には、俳壇政治闘争的な要素が多分にあった。ただ彼らが、次第に形式主義的な締め付けを強めていた虚子の写生俳句に、あきたりないものを感じていたのも確かである。
彼らの俳句の特徴は、技術面でいえば、なるほど「万葉調俳句」、「句題拡大」、「新切字」などとして捉えられるかもしれない。しかしそれは俳句形式に揺さぶりをかけるための試みではない。彼らの俳句はあくまで有季定型俳句に留まっており、新たな技術的要素は、俳句の内容面での深化を目指したものだった。
ほんのわずかな違いなのだ。秋櫻子や誓子の俳句は、俳人が心を無にし、自我意識をできるだけ小さくして、目の前の風物を素直に詠む写生俳句とは異なる。彼らの作品には、強い自我意識で言葉を包み込んでしまおうとする意志がある。秋櫻子の「梨咲くと葛飾の野はとの曇り」の「との曇り」は、『万葉集』から取った言葉だが、この言葉の選択に秋櫻子の表現意欲がこめられている。また誓子の「夏の川赤き鐵鎖のはし浸る」は写生俳句のようだが、彼の心象映像に沿って言葉が選択されている。これらの俳句では、すべての言葉が俳人のアウラで覆われているのである。
秋櫻子や誓子にとって有季定型俳句はアプリオリである。新たな技術は平板な表現に流れがちになった写生俳句に、意味的な深みを与えるための方策だった。秋櫻子が古代『万葉集』の言葉を多用し、誓子が『根源俳句』を提唱した理由がそこにある。彼らの俳句は古典的に映るが、それは時代の変化に合わせて、あくまで有季定型俳句の中で、自我意識の深化を求めるためのものだったと言ってよい。
俳句の技術史は、簡単に言えば上記のような、俳句形式に直接的に揺さぶりをかける試みと、俳句の意味内容を深化させる試みに大別できる。前者は技術革新によって俳句の意味内容を変えようとし、後者は意味内容を変えるために新たな技術を援用するのである。ただ技術重視、内容重視という違いはあっても、両者ともに自らの作品が「俳句」であることをまったく疑っていない。つまり技術によって内容を変えようとする試みも、内容のために新技術を使う試みも、より大きな「俳句形式」に含まれているのである。
このような「大俳句形式」を前提とした技術革新は、簡単に類型化されてしまう傾向がある。新技術の創始者がどんなに悲壮な覚悟を抱いて変革を起こしても、生み出された新技術は、すぐに数多くある技法の一つとなってしまい、無数の亜流を生むのである。時には結社の形を取り、写生俳句がそうであるように、創始者の俳風を守り継ごうとするようになる。「大俳句形式」の恐ろしさは、新技術が決して作家独自の表現になることはなく、簡単に「形式化」されて俳句文学に飲み込まれていくことにある。だから『俳句史にみる表現革命』とは、初心者にとっては任意に選択できる俳句見本帳だとも言える。
俳句の微細な差異を読み取ることは、俳人に必須の修養である。しかしそれが「大俳句形式」内での差異に過ぎない以上、俳壇外の人に、トリビアルな俳句読解を「文学の問題」だと認知させるのは難しい。伝統派の俳人が俳句は575で季語を含む形式だといくら主張しても、非定型俳句は次々に生まれてくる。非定型俳句もまた俳句だとすれば、俳句文学の本質的な問題は、575で季語があるといった杓子定規な形式議論にはないことになる。俳壇外の人間が知りたがっているのは、重箱の隅をつつくような内向きの俳句議論ではなく、俳句文学の本質論である。
従って俳句を現代文学として認知させたいなら、俳人は俳壇内への視線と、俳壇外への視線を分けて考える必要がある。内部的にならどんなに微細な差異を論じてもかまわない。しかし外部に向けて俳句を語る時には、まず「俳句形式」自体を意識する必要がある。
冬銀河海より魚の遡り 阿部誠文
金魚咲く散華の飛天あまたゐて 同
雲海に月出て人魚泳ぎをり 同
竹伐つて竹の匂ひの故郷かな 瀬谷泰泉
束の間の赤き心や曼珠沙華 同
歩いても歩いても野は鰯雲 同
1月号では阿部誠文と瀬谷泰泉の作品が印象に残った。確かな作家性を感じ取れる句だと思う。
岡野隆
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■