ネット時代になってから「ネタバレ注意」が一般化しましたわね。昔は口コミなどでなければ小説や映画のストーリーが最後までわからなかったのに、今はその気になれば、ブログやツイッターの書き込みで、たいていの物語のオチを知ることができるようになりましたわ。エンタメコンテンツでは確かにオチは重要よね。だけどオチがキレイに決まるためには、それまでのディテールの積み重ねが大切ですわ。またエンタメがエンタメであるためには、オチが中庸なものである必要もあるわね。
アテクシ、遅ればせながら新海誠監督の『君の名は。』を拝見しましたのよ。ネタバレ厳禁映画なのでもちろんストリーは言いませんけど、ラストはハピーエンドでもトラジディでも、どちらでも良かったんじゃないかと思いましたわ。監督さんも、一度くらいは迷ったんじゃないかしら。どっちが強いインパクトの映画になったのかは微妙ね。エンタメの王道を踏まえれば、答えは自ずから出ますけど、逆方向にオチを転がしてもやっぱりヒットしたかもしれませんわね。エンタメ要素ってそれなりに複雑なのよ。
アテクシたちがエンタメコンテンツに求めるのは非日常的疑似体験よね。たいていの人間の生活ってかなり単調なものよ。そうでなければ毎日お仕事して暮らしていけませんわ。その日常をはみ出す愉楽を与えてくれるのがエンタメ・コンテンツなわけですが、そこには楽しいだけじゃなく、悲しいとか不愉快とか怖いといった要素も含まれます。時には自分とはまったく違う人間の心理を疑似体験して生きるという楽しみもございます。
それは不思議な感覚ですわ。物語を読んである世界を共に生きるわけですから、その時の人生は自分のものでもあるんですが、やっぱり最後のところ、よく理解できないのよね。そういった摩訶不思議な体験を読者にもたらすには、映画なんかのビジュアルコンテンツよりも小説の方がよろしいようです。文字情報だからこそ、〝よくわからない〟をたっぷり楽しめるエンタメコンテンツになるわけですわ。
翌週、多田くんから封筒を受け取った。
郵便で家に来た。うす水色の封筒。(中略)
(なんということをしてくれる・・・・・・)
そばにだれもいなかったが、私の顔は便箋の色のように青くなっていただろう。
手をコートの胸の前に当てて、心臓をさすった。郵便受けを一番先にチェックしたのが私でよかった。もし親が先だったら、即刻検閲を受けるところだった。(中略)
私の家は厳格なのではなく、暗いのだ。「暗子」というのではあれば、私の父と母のほうだ。父はさしずめ暗夫か。ただし暗さの方向や質は、父と母では異なっている。それがまた暗さに深みを増しバリエーションを豊富にしている。(中略)
現在の年齢の私が補足するならば、(中略)彼らが私の郵便物を開封するのは、私が、家というベースにおける最下位の歩兵だからだ。歩兵はベースの掃除や使い走りをするものであって、プライバシーはないという意識から開封するのである。(中略)
現在の私は彼らを弁護する。彼らは決して非道な人間ではなかった。いくつかの要因が重なり、暗さが驚くほどの力を持ってしまい、強い暗さが、われら三人を穴に突き落としたのだろう。その穴がマイホームとなった。マイホームではすべてが歪んでいた。
(姫野カオルコ「愛とか革命とかより」)
姫野カオルコ先生は独特のテイストの小説をお書きになる作家様ですわ。「愛とか革命とかより」の主人公は高井明子という五十代の独身女性で、シェアハウスに住んでいます。こじんまりとしたシェアハウスで、同居人は直江智美という若い女性と大学の先生の上杉昇です。上杉はシェアハウスの一室を仕事部屋として使っているので、共同生活しているのは実質的に智美だけです。プライバシーを守る淡いつき合いなのですが、ある日、共用のリビングで智美といっしょになった時、明子は自分の過去を回想しながら話します。昭和五十年代の高校時代のささやかな思い出話です。
明子の高校時代のあだ名は「暗子」でした。実際、明子は暗い環境の家で育ったのです。一人娘なのに両親は明子を可愛がりませんでした。父親は「女は注意散漫で非論理的だ」と明子をなじり、母親は「あんたは年をとってから産んだ子だから、二親の劣った遺伝が出ているのよ」と明子に言います。あまりと言えばあまりの仕打ちなのですが、姫野先生の小説が独特なのは明子がそれを受け入れていることです。そうしなければ弱い立場の子供が家の中で生きていけなかったからですが、明子の性格は暗く理不尽な家庭環境によって揺るぎない形で作りあげられてしまっています。
「あの詩はまだまだだったな。出したあとから自分で思った」(中略)
「そんなことはない。すばらしかった。大いによかった」
「心のこもらん褒め方だな」(中略)
「こめた。いい詩だから、あの詩の相手に送ったらよいではないか」(中略)
「住所がわからない」
年上の人。多田くんは言った。(中略)
駸々堂(京都の有名書店)でめぐりあった。多田くんは、彼女を知ったきっかけを、そう譬えた。(中略)
「ちょっとおれも反省したんだよ。詩だけ見せたって暗子にはわかりにくかっただろうなって。まず、その本を読んでくれや」(中略)
「書いたのは彼女」
多田くんは写真らしきページを開いた。私は目を伏せた。前知識を入れないようにした。写真を見ないようにして、数ページを、ぱらぱらと一瞬だけ繰った。いくつかの単語だけがチラッチラッと目に入った。革命。コマンド。PPLP。革命。講談社。
「では、借りておく」
本として売られているものなら感想が伝えやすそうだ。
「うん。読んでみてくれ」
午後の授業呼鈴のキンコンカンコンが鳴り、われわれはそれぞれに学年棟へと、別々の渡り廊下を進んだ。
(同)
ある日突然、一年先輩の多田が明子に手紙を送ってきました。手紙には詩が書いてあり、読んで感想を聞かせてくれとありました。明子に恋しているわけではありません。明子も多田に惹かれているわけではないのです。また多田は柔道部の学生で、文学にのめりこんでいるわけでもない。しかしなぜか明子に興味をもち、授業の合間にしょっちゅう声をかけてきます。恐らく暗い子だから自分より文学が理解できると思ったのでしょう。思春期の男の子の、きまぐれと言ってよい言動が鮮やかに描かれています。
明子に詩を見せて感想を聞かせてくれと頼む多田の行動には、実はほとんどなんの意味もないのです。また明子のぶっきらぼうな返事から、彼女には多田が期待したような文学的素養などないこともわかります。二人は学校という閉鎖空間の中で淡くすれ違っただけなのです。実際、高校卒業後、明子は多田と疎遠になります。しかしその後四十年も明子は多田のことを忘れられません。正確に言うと、多田から借りて、何度も読もうと思って読み通せない本があるから多田のことを忘れられないのです。
重信房子は1行目に、自分の思いを書きますとの旨、書いていた。
どんな思いなのか、なぜ書こうとしたかなどがそのあとに続く。
だから、私は開いてすぐ、5行目の彼女の父のことばで、躓いたのだ。
「自分の胸の内を綴るにあたり、自分のお父さんに応援してもらっている! こんな非常識な本が講談社から出てる!」
多田くんのお父さんが、多田くんの妹さんの作った料理をよろこぶのが非常識に映った。私は、
「ぎゃーっ」
と叫んだ。
「ぎゃーっ」
また叫んだ。
駸々堂のカバーがかかっている本を放り投げるわけにはいかない。そっと閉じて、ベッドの下に置いて見えなくし、
「ぎゃーっ」
また叫んだ。
わたしはショックだった。ものすごくショックだったのだ。父に本を書くことを応援してもらう娘というものが。
梅が咲き物が咲き桜が咲くと、多田くんは三年になり、私も二年になった。なのに、私は『わが愛わが革命』を借りたままでいた。
(同)
多田が貸してくれたのは、昭和四十九年(一九七四年)に講談社から出版された重信房子の『わが愛わが革命』でした。重信は言うまでもなく連合赤軍の幹部です。多田は本を読んで重信に淡い恋をして、詩を書いたのでした。しかしそれもまた思春期の少年の、気まぐれで一過性の恋心にすぎません。ただ重信の本は明子にとってどうしても読み通せない重い枷になります。重信の政治信条など明子にとってはどうでもいいことです。ただひたすら、重信が本の冒頭で書いていた「自分のお父さんに応援してもらっている!」という言葉が明子の心に突き刺さったのです。
高校時代の多田との思い出を話終えると、同居人の智美は「今夜、私に話したのを機会に、ぜひ完全読了されてはいかがでしょう」と勧めます。明子はあっさり本を読み終えます。そして「重信房子のあの髪型は、父から絶対の味方をされ、父を慕えた娘の、強力な自己肯定に、私には映る。烈しく嫉妬し、烈しく恐れる」と思います。明子が少女時代の家庭環境によって深い心の傷を負っているのは確かですが、それはもう傷ではなく、彼女の人格の一部になっています。
重信房子の「髪型がきらい」という明子の言葉には、論理的思考では絶対に乗り越えられない人間存在の不思議な機微が表現されています。ストレートの髪を、真ん中できっちりと分けた重信の髪型。しかも嫌いという感情の爆発は、決して過去を浄化してくれはしないのです。それは最も小説らしい表現です。人間心理の割り切れなさを描き切った秀作です。
佐藤知恵子
■ 姫野カオルコさんの本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■