新宿梁山泊 第58回公演 満天星シェイクスピアシリーズVol.3『マクベス』
於:芝居砦・満天星
鑑賞日:11月21日
訳 小田島雄志
演出 金守珍
美術 宇野亞喜良
出演
金守珍、三浦伸子、渡会久美子、水嶋カンナ、広島光、染野弘考、小林由尚、申大樹、海老根寿代、加藤亮介、清水修平、金世那、佐藤梟、藤井由紀、松田洋治、島本和人、清水美帆子
照明 泉次雄+ライズ
装置 大塚聡+百八竜
音響 N-TONE 音楽 大貫誉
振付 大川妙子
殺陣 佐藤正行
美術助手 野村直子
宣伝美術 宇野亞喜良/福田真一
新宿梁山泊の拠点とする小劇場「芝居砦・満天星」は地中にある。古いマンションの共同出入口から階段を降りていくと、コンクリートの冷ややかな寂れた階段から板張りの暖色の中に踏み込む瞬間がある。日常の領野から演劇の領野に突入したことを直感する。色鮮やかな演劇ポスターが飾られている。靴を脱いで劇場に上がる。右手には劇団主宰の金守珍が手ずから鋸を取って作り上げたという喫茶室。その奥に薄暗い舞台と客席がある。舞台奥には螺旋階段が備わっている。上演中も俳優の出入りに使われる。階段を登った先は、観客にはわからない。文字通り地中にあるアングラ演劇の砦は、模造の月を水平に配した特別な空間である。これより下にはなにもない、そのような雰囲気を持つ、決して広くはない、冷たい土と大きなマンションと物質的な日常生活によって四方からぎゅうぎゅうと押さえつけられた、猥雑でソリッドな空間である。
文学金魚で三回に渡って掲載された金守珍のインタビューによれば、アングラ演劇は「地を這う」暗黒舞踏の思想を継承している。天上に唯一の神様を戴く西洋的構造と根本で相容れなかった者たちが、地に埋められ川に流された死者たちを想い、自意識の地下層に表現を探し求めて、作り上げたものだという。昇天と形容される死ならば、神の御許での安寧を約束されたひとつの解放である。地に留まる死は、地中に浸潤し、混濁して渦巻くエネルギーとなる。そこに向き合うアングラ演劇は、地中の死が一時象った姿形を生の模造として写し取るものかもしれない。それは亡霊とも呼ばれよう。すると、アングラ演劇は亡霊の領野である。それは地獄とも異なるだろう。一度堕ちれば二度と上がれぬ地獄は恐ろしいものだが、いついかなるときでも恐ろしい地獄とは、いついかなるときでも幸福な極楽の裏返しでしかない。しかしアングラ演劇の領野は、安心して恐ろしがることもできないのだ。
このたび地中空間に引きずり込まれて舞台にかけられた『マクベス』は、亡霊が現れ、魔女が跋扈する、おどろおどろしい劇世界が特徴である。戦で武勲を上げ揚々と引き上げるマクベスとバンクォーの前に三人の魔女が現れ、予言を与える。マクベスはコーダーの領主となり、その後スコットランド国王となろう、王位はバンクォーの子孫が代々継ぐだろう。事が予言の通りに進む。コーダーの領主となったマクベスは夫人とともに野望を膨らませ、ダンカン王を暗殺して王位を簒奪する。手を血で汚してまでして座した王座で、マクベスは極度の不安に苛まれる。バンクォーに与えられた予言の実現を阻もうと刺客を送り込み、バンクォーを始末したが、息子のほうは取り逃がしてしまう。マクベスは暴虐非道な王へと堕落する。ふたたび魔女らのもとへ赴くと、女の股から生まれた者に滅ぼされはしない、バーナムの森が動かぬ限りマクベスの王位も動かない、貴族のマクダフには用心しろという予言を受ける。しかしそれでもバンクォーの子孫が王族として繁栄する幻影を見せつけられる。マクダフがダンカン王の王子を追って亡命先のイングランドに逃亡したことを知るや、マクベスは刺客を放って彼の妻子を殺害する。マクダフと王子マルコムは、復讐の思いを胸に、スコットランドをマクベスから解放する決意をし、イングランド軍を率いてマクベスの城に攻め入る。木の枝で偽装したイングランド軍の進軍はバーナムの森が動いてくるように見え、マクベスは予言の裏の意味に気づく。それでも女の股から生まれた者には負けぬと信じて果敢に防戦するが、母の腹を裂いて生まれたマクダフと交戦し、討死する。
新宿梁山泊版『マクベス』は、原作中では数度しか登場しない魔女たちが、ほとんど出ずっぱりで舞台に暗躍する。開幕すると、三人は黒を基調とし娼婦を思わせる艶かしい出で立ちで、歌い踊り、舞台上に赤い蜘蛛の巣の罠を張る。マクベスが蜘蛛の巣に引っかかると、もう彼女らの掌中である。予言を与え、その成り行きを楽しむ様が、観客席と向かい合う奥舞台に透けて見える。彼女らは演出家であると同時に観客でもある。ダンカン王暗殺の夜にマクベスが幻視する短剣も、魔女たちが舞台袖から差し出す。母子殺しの悲劇には思わず声をあげて咽び、勇を鼓してマクベス打倒の決意を固めた場面には拍手喝采を送る。観客席で静かに見つめている我々以上に観客らしいこの魔女たちは、心ゆくまで劇的なるものを味わいたいという無邪気な欲望の権化のようにも見える。
魔女の小道具も印象的である。赤い糸、運命の女神を気取ったような糸車、そして最も目を引くのは巨大な左手のオブジェだ。三人は左手を担いで幕間狂言を執り行い、その指に赤い蜘蛛の巣を引っ掛ける。マクベスの血塗られた運命、マクベス夫人の両手を染める洗っても洗っても落ちない血汚れの幻影、それらを模しているのは明白だが、なぜ左手なのか。西洋キリスト教圏のイメージ体系では、右は神聖なもの、反対に左は悪魔や魔女の領域に属するものと捉えられていた。宣誓時に掲げて神に差し出す手は右手である。左は西とも重なり、不吉なものと死を連想させた。巨大な左手は、彼女らの信奉する異教の象徴なのである。彼女らの希求する血の湧くような死の運び手、あるいは破滅のシナリオを舞台に再現する演出家の手でもあろう。
マクベスを苛むバンクォーの亡霊も、葬列のようにマクベスに迫る魔女の幻影も、舞台上に肉体を持って現れる(バーナムの森の動いてくる進軍の様子だけは、スクリーンに白黒の映像で投影された)。アングラ演劇の空間は亡霊の領野にあると言った。芝居砦・満点星の舞台もまたその領野にあると考えれば、巨大な左手をひとつの焦点とする演出意図に、アングラ演劇の地脈が通る。劇場に座した観客は、地上の日常から降りてきて、地中に溜まった混濁する死に飲み込まれている。魔女の蜘蛛の巣に捕らえられたマクベスと同様である。彼と同じほど無防備に、あるいは魔女と同様に無邪気に、一時肉体を持った亡霊たちの振る舞いに驚嘆し、また驚嘆させられることを欲望している。
最終幕でマクベスは、夫人の死の知らせを受けて、人生など舞台の役者にすぎないと哀れむ独白をする。しかもその舞台は「喚き立てる響きと怒り」のすさまじいところなのだ。いそいそと舞台に赴く我々観客の日常は、おそらくそれほどうるさいものではない。淡々とした生活が、まさに上演中の舞台の真上にあるマンションでも送られていたことだろう。そしてそのような日々の結末として、さらに静かで落ち着いた「安らかな死(R.I.P)」を祈ったりする。しかし、その一方で我々が劇場に赴くのは、とりわけアングラ演劇の地中空間に赴くのは、そのような静的なものではありえない死の在り様を求めているのではないか。足元にごうごうと渦巻くエネルギーとしての死。その響きと怒り。しめやかに葬儀をし、墓を立てる特別なものだけを死として送る日常が虚構のように感じられたとき、あるいは自意識の上澄みに浮かぶ理知的なものだけが自分ではないように感じたとき、我々は足元を目を落として、地中へと降りていくのではないか。
このように考えると、『マクベス』に代表されるシェイクスピア悲劇の死の世界と、アングラ演劇の世界を繋ぐことは、決して新たな回路の創出ではないように思われる。演劇の古層において繋がっていた地下水脈が、別の時間と場所で湧出したということなのだろう。シェイクスピア戯曲に書き込まれている観客の欲望はあけすけなほど猥雑である。その欲望は天上に神を戴いても、迷信だと言って啓蒙的にしつけても、ついぞ飼いならされたことがない。欲するというからには、失われているのである。ぽっかりと、満たされない感覚が、不安となって我々を動かしている。右手が左手を求めるように。生を享受する我々は、亡霊に会って(なって)みたいのだ。
星隆弘
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