〝abondance 1789〟文字入りフレンチ・デルフト色絵皿 フランス 一七八九年(著者蔵)
口径二三・四×高さ三・四センチ(いずれも最大値)
情報伝達技術が発達していなかった十九世紀中頃までは、実際に人間が移動しないと正確な文化や技術は伝わらない。デルフトの陶工が移り住んで窯を開いたので、フランスで作られたデルフト焼(フレンチ・デルフト)も本家のそれによく似ている。ただオランダ・デルフトに比較して、フレンチ・デルフトは優美で繊細な絵付けが多い。陶体の土も少し軽いようだ。
この皿には文字が入っているので情報が読み取りやすい。〝abondance〟はフランス語で「豊穣」の意味である。向かい合った二羽の鳥が嘴で麦の穂のようなものをくわえているので、収穫を祝う目的で作られたのだろう。鳥が乗っているのも麦穂だと思われる。その下に描かれているのは家紋だろう。今になっては知りうべくもないが、どこかの領主が収穫記念のために作ったのではなかろうか。ただパリ近郊ではなく地方領主だろう。一七八九年はバスティーユ牢獄が襲撃され、フランス革命が佳境に入った年だからである。ルイ十六世とその妃マリー・アントワネットがギロチン刑に処せられ、革命が終結したのは一七九三年のことである。
どの国でも同じだが、歴史は時間が経てば経つほど、重大事件しか人々の記憶に残らなくなる。ただ大事件が起こったときに、上から下までそれ一色に染まり、あたふたしていたわけではない。ほとんどの庶民は「これからどうなるんだろう」と、不安なまなざしで事の成り行きを見守っていたのである。骨董はそういった庶民の息吹を伝えてくれる。特にヨーロッパでは、オランダを起点に各国に拡がっていった様々なデルフト焼がその大きな手がかりになる。
第一級の歴史資料は文書だが、次に重要になるのは絵である。デルフト系の焼物はイスラームや東洋の影響を受け、王侯貴族のシノワズリ趣味を真似た製品だから、様々な事柄を読み取りやすい。日用品で絵や文字や年号が入っている物は圧倒的に陶器が多いのだ。しかし一握りの研究者を除いて、ヨーロッパ人がデルフト系陶器に熱い視線を注いだことはほとんどない。デルフト系陶器はヨーロッパ正史の裏面を彩る骨董である。
ベンジャミン・フランクリン肖像画 イングリッシュ・デルフト色絵皿 イギリス 十八世紀後半から十九世紀初め頃(著者蔵)
口径二三・一×高さ三・七センチ(いずれも最大値)
ベンジャミン・フランクリン(一七〇六~九〇年)は、言うまでもなくアメリカ合衆国建国の父の一人である。百ドル紙幣の肖像画になっているので顔をご存じの方も多いだろう。父母はイギリスからの移民で、フランクリンはボストンで生まれた。印刷工の徒弟仕事で文字を覚え、本を読んで知識を身につけた苦労人である。そういえばイギリスの童話作家エリナー・ファージョンの父ベンジャミンも、植字工から身を立てて小説家になった人である。オーストラリアで新聞を出していた頃は頭の中で文章を考え、活字を拾いながら書いたそうだ。タイプライターやワープロの先駆けだ。十九世紀頃までは、十分な教育を受けられなかった家の子が、印刷や出版関係の仕事で知識を得て成功した例がたくさんある。
フランクリンはフィラデルフィアで印刷業で成功し、地元の名士として活動するかたわら、積極的に啓蒙活動を行った。フィラデルフィアにアメリカ初の公共図書館を作り、現在のペンシルベニア大学を創設した。最もフランクリンを有名にしたのはアメリカ独立戦争での功績である。フランクリンは四十二歳の時に印刷業から引退し、ペンシルベニア州会議員などの要職についていた。課税強化などで宗主国・イギリスとの軋轢が深まる中、渡欧して外交官としても活躍した。
イギリスとの対立が決定的になり、独立戦争が起こると、トーマス・ジェファーソン、ジョン・アダムズ、ロジャー・シャーマン、ロバート・R・リビングストンとともに独立宣言起草委員に選ばれた。一七七六年七月四日、フランクリンらが起草・署名したアメリカ独立宣言は、当時の植民地代表が集った大陸会議で採択され、アメリカは独立した。独立後、フランクリンは再び渡欧し、外交官として米仏同盟条約や対英講和条約などの締結に尽力した。フランクリンは独学でフランス語やイタリア語、スペイン語を習得していたのだ。一七九〇年四月十七日に死去したが、フィラデルフィア議会(当時のアメリカ首都)の決議で国葬がとりおこなわれた。
フランクリンは著述家としてもたくさんの本(主に啓蒙書)を書いた。一般にフランクリンの名を知らしめたのはその『自伝』だろう。子供時代から一七五七年にペンシルベニア州会代表として渡英した時までのことが書いてある。フランクリンの人生で最も重要な、アメリカ独立戦争とそれに続くヨーロッパでの外交活動は書かれていないわけだが、政治活動が多忙を極め、そこまで筆が至らなかったのである。にも関わらず『フランクリン自伝』は世界で最も有名な自伝の一つであり、アメリカ文学の古典でもある。
アメリカ文学に馴染みのある方ならおわかりになると思うが、『フランクリン自伝』はものすごく平明で読みやすく、その本質をきちんと理解するのが非常に難しい。アメリカという国のとっつきやすさとわかりにくさが詰め込まれた本である。『フランクリン自伝』にアメリカの本質を見た作家は多い。カーライルはフランクリンを「すべてのヤンキーの父」と呼び、マック・ウエーーバーは『フランクリン自伝』は、「資本主義の精神をほとんど古典的といい得るまでに純粋に包含している」と書いた。ただ『フランクリン自伝』が一種の立身出世譚であるのは確かであり、身分の高低に関わらず立身出世を希求した明治時代の日本でも盛んに読まれた。
『自伝』が刊行されたのはフランクリンの死後だが、その経緯は錯綜している。一七九一年にフランスで、フランス語で最初の『自伝』が刊行された。フランクリン外交官はフランス社交界で人気者だったのだ。ただ当時は誰も原本の存在など気にしていなかった。一七九三年にロンドンで英語版が刊行されたが、これはフランス語版からの翻訳である。ようやく自筆原稿が発見され、それに基づいた本が出版されたのは一八六八年になってからである。また百ドル紙幣になった肖像画は一七八三年、フランクリン七十七歳の時に、フランス人肖像画家ジョゼフ・デュプレシが描いた油絵が元になっている。それが自伝とともに一般に流通するようになった。
さて、図版掲載したフランクリン肖像画皿だが、稚拙だがこの絵はジョゼフ・デュプレシ作品が元になっている。一七九三年に英語版が刊行されてから作られたのだろう。もちろん実用ではなく飾り皿である。イギリス出身でアメリカで成功したフランクリンに憧れる人が多かったのだ。しかし王侯貴族が買い求めるような品物ではない。中産階級の庶民の求めに応じて作られたはずである。フランクリンは独立したばかりのアメリカを代表する偉人で、新大陸への夢と希望の象徴だった。
十八世紀後半のイギリスでは産業革命が急速に進展していた。また十七世紀初頭から植民地経営が進んでいた。それは王侯貴族のほかにジェントルマンと呼ばれる富裕層を生み出していた。この貧富格差は産業革命でさらに加速した。よく知られているように、イギリスからのアメリカへの最初の移民はピルグリム・ファーザーズと呼ばれるピューリタン(清教徒)たちである。イングランド国教会を嫌った清教徒たちが新大陸に渡ったのだ。しかしそれは、当時のイギリス社会の矛盾と不満の表れでもあった。
清教徒たちに続いて犯罪者を含む多くの人々がアメリカに渡った。あるいは追いやられた。イギリスの支配者階級は、植民地経営や産業革命によって増大する社会問題を、アメリカ移民という形で解消しようとしていたのである。それによりさらなる利権(植民地からの税収)を追い求めた。また貧困層はもちろん中産階級の人々にとっても、アメリカは貧しくつましい生活から抜け出すための最後の砦だった。十八世紀の終わり頃に、イギリスのどこかの中流家庭の壁に飾られていたフランクリン肖像画皿は、当時のイギリス社会を象徴する一種のイコンでもある。
シノワズリのイングリッシュ・デルフト染付皿 イギリス 十八世紀後半から十九世紀初め頃(著者蔵)
口径二二・七×高さ二・五センチ(いずれも最大値)
判別がとても難しいのだが、イギリスで作られたシノワズリのイングリッシュ・デルフト皿だと思う。絵付けはもちろん、釉調や貫入(陶体と釉薬の収縮率の違いから陶器の表面にできるひび割れ)の入り方が、オランダ・デルフトやフレンチ・デルフトとは微妙に違うのである。イギリスでも十八世紀から十九世紀にかけてシノワズリ(中国趣味)が流行した。デルフトでシノワズリが流行してから百年以上も遅れたブームである。これはイギリスで陶器作りが盛んになった時期が遅いこと――つまりデルフト系の製陶技術の伝播が遅れたこととほぼ対応している。シノワズリは陶器とともにイギリスに流入した。
またイギリスではウィロー・パターンと呼ばれる中国模様が大流行した。ロミオとジュリエットを思わせる中国の若い男女の悲恋物語を主題にした絵付けである。しかし儒教の中国にそんな故事はない。十八世紀末にイギリスの銅板彫師トーマス・ミントンが創作した空想の物語らしい。オランダはもちろんフランスやドイツでも、このような形で中国系の空想物語が生まれたことはない。数々のファンタジー小説を生んだ、イギリスならではの物語(絵付け)である。
ウィロー・パターンは紅茶用のカップやポット、それにお皿が圧倒的に多いのだが、半陶半磁(磁器のように見えるが実は陶器)製品である。製陶技術が遅れて伝わったこともあり、イギリスではそれに続いてすぐに磁器作りが始まった。磁器は一七〇九年にベドガーがその製法を発見してから、ドイツのマイセンやフランスのセーヴル窯で盛んに作られるようになっていた。しかしイギリスではまたしても磁器生産技術の確立が遅れた。陶土に動物の骨灰を混ぜる独自の方法で、磁器に似せた陶器を作っていた。
ただすべての技術が遅れていたわけではない。一つの原板を版画のように器の表面にプリントしてゆく銅版転写技術で、同一製品の大量生産を始めたのはイギリスである。いかにも合理主義のイギリスらしい。なお日本で初めて銅版転写で器を作ったのは、詩人・春山行夫のお父さんなのだという。ハイカラ好きのモダニスト詩人らしい逸話である。
イギリスで磁器生産が始まったのは、ドイツから遅れること約百年の一七九九年である。スポードやウェッジウッド窯が磁器生産に成功した。ただしドイツやフランスとは作り方がちょっと違う。カオリンを主成分にするのは同じだが、イギリスでは陶器作りの頃からやっていたように、動物の骨を混ぜるのである。
磁器の高台(器の底)に〝Bone China〟と印刷されているのを見たことがある方は多いだろう。イギリス製磁器という意味だが、正確には〝Bone Ash(骨灰)〟を加えて作った磁器(China)である。イギリスは昔からヨーロッパ大陸とは距離を取り、パワー・オブ・バランスによってイギリス一国の国益を追求する傾向のある国だが、陶器作りでもヨーロッパ大陸の技術をそのまま真似するのを嫌ったようだ。
ウィロー・パターンの紅茶用茶器 イギリス 十九世紀中頃(著者蔵)
ただイスラーム陶器を源流とし、オランダのデルフト窯で全盛を極め、その伝統を継承しながら磁器生産に進んでいった陶磁史は、ヨーロッパではあまり重視されていない。スペインの美術館にはイスラーム系陶器(イスパノ・モレスク)がたくさん飾ってあるが、まるで先史時代の遺物の扱いである。スペイン美術はカルロス四世の宮廷画家、フランシスコ・デ・ゴヤの時代から始まる。
それはドイツ、フランス、イギリスなどでも同じである。王侯貴族が蒐集した中国・日本製の磁器は麗々しく展示されているが、次にヨーロッパ人が目を留めるのはウェッジウッド(イギリス)、マイセン(ドイツ)、セーヴル(フランス)、リヤドロ(スペイン)窯などで作られた、精緻なヨーロッパ人好みの磁器であることが多い。大量に作られた庶民用の中国・日本の模倣器の上を、たいていのヨーロッパ人の視線は熱もなく過ぎてゆく。良い悪いの問題ではなくて、これは面白いことだと思う。
愛国心の在り方は国によって大きく異なる。愛国心を最も声高に叫ぶのはアメリカだが、人種・宗教の異なる移民の坩堝であるアメリカで愛国心がなくなれば、国は崩壊してしまう。だから国父である大統領は、私生活でも政治指導者としても無謬でなければならない。Mr. Presidentの決断に間違いがあってはならないのだ。一九六〇年代のアメリカではベトナム反戦運動が吹き荒れたが、アメリカ国民が公然と政府の方針に反旗を翻したのはこの時が初めてだった。ニクソン・フォード政権の国務長官だったキッシンジャーは、この時期を「まるで内戦状態だった」と回想している。
日本はアメリカに比べれば愛国心が目立ちにくい。しかしそれは表面に過ぎない。日本人は古代から中国文化を、明治維新後は欧米文化をほとんど無節操に受け入れた。それができたのは日本文化の基層が傲慢なほど底固いからだ。事実として日本人は外来文化を熱狂的に受け入れるが、すぐに熱が冷めてしまう。十年、二十年も経てば、なにごともなかったように心地良い日本文化に回帰し、新渡来の文化は日本文化に習合されてゆく。だから愛国心を声高に叫ぶアメリカとは逆に、日本では愛国心を眠らせておく必要がある。厳然とした大きな脅威が目前に迫れば、一瞬で日本人の愛国心が燃えあがるのは目に見えている。
多くの国々が地続きでせめぎあっているヨーロッパの愛国心はもっと複雑だ。王政は廃止しても国の礎を作った王たちへのノスタルジーがあり、無神論を含むキリスト教が社会全体の規範であり続けている。またスペインに典型的なように民族的アイデンティティも強固だ。ただヨーロッパは日本やアメリカよりも、遙かに巧妙に外来文化を摂取し、その文化基盤を活性化してきた。
庶民レベルでイスラームや東洋文化が流入していたことはデルフト陶などを見れば明らかだが、東洋の影響が正規のヨーロッパ文化史に現れるのは十九世紀末のジャポニズムの時代からである。浮世絵などの異文化を取り入れて、印象派の画家たちが世界に誇るヨーロッパ独自の絵画を創出したのである。デルフト陶の流れは裏面に隠されたとも言えるし、正規文化にまで昇格したとも言える。ただデルフトを中心にヨーロッパ陶磁史を見てゆけば、複雑に蠢く文化の底流が見えてくるのは確かである。(了)
鶴山裕司
(図版撮影・タナカ ユキヒロ)
■鶴山裕司詩集『国書』■
■ ヨーロッパ陶磁の本 ■
■ 予測できない天災に備えておきませうね ■